可愛い君は目が細い
真田先輩は、当然のように生徒会室に入り浸っていたが、実は役員でもなんでもなかった。その事実を知ったのは、私が生徒会に入って、一か月も経ってからだった。
中学二年生のとき、私は生徒会役員に推薦され、断れず引き受けた。そこで私は、真田先輩と出会ったのだった。彼は、毎日生徒会室にやってきて、当たり前のように活動に参加した。何なら、誰よりものびのびと振る舞っていたので、私が誤解したのも無理はなかった。先輩は副会長の仲の良い友人で、彼についてくる形で生徒会室に通っていた。人手不足の生徒会にとって、活動を手伝ってくれる存在はありがたかったし、彼はその人好きのする性格をもって、周囲の反感などは軒並み摘み取ってしまった。彼は非常に人懐っこい質だったのだ。細い目が、笑うとさらに細くなって糸みたいになるのだが、それが大層可愛らしかった。その笑顔で皆を和ませる冗談を言って、誰にでも変わらない態度で接した。それは私に対してもそうだった。私は、正直社交的ではない。お喋りも上手じゃないから、自然無口だった。友達だって少ない。クラスの派手なグループの子から言わせれば、「根暗」なんだと思う。しかし、真田先輩は、全く気にするふうもなく、私にも普通に話しかけてきた。一番最初に言葉を交わしたのは、五月の体育祭で使う垂れ幕を塗っているときだった。いつものようにふらりと現れた彼は、「あ、結城さん、『の』塗ってる!」と突然叫んだ。
「あ、そうなんです。『の』です……」
私は驚いてしどろもとろになりながら答えた。しかし真田先輩はそんなことには全くお構いなしで、私の横にどっかと腰を下ろした。
「じゃ、俺、『大』塗ろ」
そんなふうに言ってニヘッと笑うと、ご機嫌に刷毛を動かし始めた。その屈託のない様子が、とても新鮮で嬉しかった。何だか、子犬のような人だと思った。胸がキュッとひっぱられるような感覚だった。
その後も、よく話しかけてくれた彼を好きになるのに、時間はかからなかった。告白を決意した私は、生徒会室で二人っきりになったのを狙って、「好きです。付き合ってもらえませんか」と、思い切って言った。彼はとても恥ずかしそうに目元を染めた後、「いいよ」と言った。
それからの日々は、なんとも言えない甘酸っぱい、落ち着かない毎日だった。生徒会が終わると、照れくさいからと言う理由で、学校から少し離れた交差点で待ち合わせをして、一緒に帰った。毎日毎日その繰り返しで、手を繋ぐまでに二ヶ月も要した。繋いだ手はお互い汗ばんでいて、先輩の緊張も伝わってきたし、きっと私のそれも、そのまま伝わっていた。いつ離したらいいのか分からなくて戸惑ったりしたが、本当に嬉しかった。家に帰ってからはスマホでメッセージのやり取りをした。何と送ろうかと悩み、送信しては後悔に悶え苦しみ、既読がついては飛び上がり、返事が来ては歓喜した。毎日がときめきと苦悩に満ち満ちていて、大忙しだった。
しかし、私の中には常に小さな気がかりがあった。先輩は、一体私のどこを好きになってくれたんだろう。それが怖くて聞けなかった。なぜ私のような目立たない人間を選んでくれたのか分からなかった。小さな疑念は、いつもこころの隅っこに巣食って、私を不安にさせた。
そんな日々が続き、秋になったある日、私はクラスで耳を疑うような噂を耳にした。それは、真田先輩が、同じクラスの女子生徒と付き合っているというものだった。その人は、私とは比べ物にならないほど華やかで、可愛らしい人だった。私は絶望した。
その日の帰り道、人の機微に聡い彼は、私の様子に気が付き、どうしたのかと聞いた。私は例の噂の話をして、事実なのかと聞いた。
「えっ俺そんなことしてない。俺は結城さんと付き合ってる」
「でも、仲いいですよね」
人懐っこい彼は、誰とでも楽しそうに話す。その女子生徒と廊下で喋っているのも、何度か見かけたことがあった。思えばそのときから、彼女の媚びるような挙動が、私の心をざわつかせていたのを思い出す。彼は友達だと説明したが、私の中に生まれた疑念は晴れなかった。
「先輩、本当に私のこと好きなの?」
ずっと言えずにいた言葉を口にしたら涙が止まらなくなった。先輩は驚いた様子で私を見つめたまま、何も言わなかった。私はそのまま彼を残して走り去った。その晩、彼からメッセージが届いたけれど、それを読む気にもなれなかったし、ブロックして見られないようにしてしまった。その日から、待ち合わせの交差点も通らずに帰った。副会長が何度か私のクラスを訪ねてきて、「真田が話したいと言っている、会ってやってくれないか」と言ってきたけれど、そんな気持ちにはなれなくて、断った。校内で会うと、彼がこちらを気にしているのも分かっていたけれど、目を合わせられなかった。これ以上傷つくのが怖かった。それだけだった。文化祭が終わって、三年生は生徒会を卒業していたから、生徒会室で会うこともなくなった。
そのまま彼は卒業した。第二ボタンをもらう約束をしていたことがふと思い出されたが、守られない約束だったと打ち消した。
それから、私は彼とは違う高校に進学した。上京して大学を卒業した後は、そのまま都内で就職した。もう先輩のことなど、遠い過去のことになっていたある日、私が混みあった朝の地下鉄に乗り込んだ時、「結城さん!」と大きな声で呼ばれた。顔を上げると、ホームにスーツを着た若い男性が立っていて、こちらを見ていた。一瞬の後、彼が真田先輩だということに気が付いた。驚いて、声も出なかった。私たちは、人混みで隔てられたまま見つめ合った。電車の発車音が鳴り響いて、私は我に返った。立ちすくんだまま戸惑っていると、急に真田先輩が列車に乗り込んできた。
「えっ先輩」
「来て!」
そのままぐいっと腕を引っ張られて、思わず一緒に下車してしまった。迷惑そうな溜息をもらす乗客を、電車のドアが閉じ込めた。その電車が走り去ってホームが静かになるまで、私たちはお互い吃驚して、しばらくただ見つめ合っていた。
「久しぶり」
真田先輩は、明らかに戸惑いながらそう言った。
「お久しぶりです」
私もそう返した。
「東京にいたの」
「はい、大学がこっちだったので、そのまま」
「そっか。俺、就職で出てきたんだ」
「そうですか」
私たちはそのまま黙り込んだ。お互いの姿を遠慮がちに、しかしまじまじと見つめた。彼と過ごした日々は、もう十年も前だった。その間に、私たちは変わってしまっただろうか。それとも、どこかに変わらないところもあるのだろうか。今目の前の相手を、どうとらえているだろうか。それを少しでも知りたくて、私たちは互いを見つめることを止められなかった。当時より、少し大人びた顔をした彼は、髪が短くなってさっぱりとした印象だった。当時のまま、ひょろっと細い体に、細身のスーツが良く似合っている。今でも、あんな風に笑うだろうか。目を糸みたいに細めて、八重歯を見せた無邪気な顔で。分からない。
「もう一度会いたいって思ってた」
唐突に彼が言った。私はその一言に胸を突かれたようになって、何も言えなくなって俯いた。私が黙っていると、彼は此方を伺いながら、しかしゆっくりと確かめるように喋った。
「あの時のことだけど、誤解なんだ。信じてもらえないかもしれないけど」
「はい……」
私はそう言うのが精一杯だった。
「それから、あの時の答えだけど」
言っていることが分からなくて顔を上げると、戸惑いながらも、真剣に言葉を探す彼の姿があった。
「俺、結城さんのこと、ちゃんと好きだった。初めからそう言わなかった事、後悔してる。結城さんはちゃんとそう言ってくれたのに、俺は言わなかったから……。初めて見た時、目とまっすぐな髪が綺麗だなって思った。それから、真面目なところが好きだった。頭が良いところも好きだった」
返事をしようとして、声が詰まった。視界が揺らめいて、私はそれを堪えようとする。先輩がそんな私を見てオロオロするから、当時同じように困っていた先輩の姿を思い出して、何だか可笑しくなってきた。泣きながらプッと吹き出すと、先輩は、ますます訳が分からないという顔をした。
「どうしよう、ごめんね。嫌だった? いや、そうでもないか」
「そうでもないです」
私は涙を拭って、先輩を見た。
「私こそごめんなさい。自分に自信が無くて、傷つくのが怖くて、先輩のこと困らせちゃったから」
「いいよ、そんなの」
先輩はホッとしたように言った。最初の緊張感が溶けて、まるで十年前のあの時間が、そのまま帰って来たような感覚になった。あの時と今がこうして交差する不思議を感じながら、もう一度先輩を見る。先輩もこちらを見た。
「もう一度、最初からやり直したいって言ったら、ダメかな?」
気まずそうに、照れ臭そうに頭を掻きながら、そう言った。
「いいですよ」
そう答えると、彼はパッと目を輝かせた後、一瞬泣きそうな顔になり、最後に目を糸みたいに細めて、「ハッ」と笑った。その笑顔は幾分大人びていたけれど、当時の彼と同じ笑顔だった。私は久しぶりに見たその笑顔が眩しくて、思わず目を細めた。この十年、本当はずっと、この笑顔を見たかった。私が求めていたものはこれだった。その時やっと気が付いて、情けなくて、でも心底安堵して、私も思わず微笑んでいた。
「で、この第二ボタンはどういうこと? もらえなかったんじゃないの?」
中一になった娘が聞いてくる。
「パパね、第二ボタン取っておいてくれたのよ。ママのために」
「えっ大人になっても!?」
「そ、大人になっても」
「未練タラタラじゃん!」
「ね、タラタラだよねぇ」
「あんまりパパの事いじめるのヤメテ!」
「いいじゃん、結局はママにちゃんと『好きだ』って言えたんでしょ? まぁ時間はかかったけど」
「かかりすぎだよね」
「ママのいじわる! 俺の事避けてたくせに!」
「パパが誤解させるのが悪くない? 皆に優しすぎるのはダメだよ。ね、ママ」
「ママもそう思う」
「ひどい! 女同士で結託して、いつもそう!」
「でもさぁママも相当だよね」
「えッママが? どうしてよ」
「こんなボタンなんかいつまでも取っておくなんてさ!」
「それは……」
「ママも俺のこと大好きだってことだよ。ね、ママ」
夫と娘が楽し気に笑い声を立てる。私は揚げ足を取られてむくれていたが、その光景を見ると、すぐ機嫌が直ってしまう。二人はそっくりだ。笑うと糸のように細くなる可愛い目で、八重歯が覗く。あぁ、幸せだ。心からそう思って、気が付くと私も一緒に微笑んでいた。




