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ショート日本の歴史

ショート日本の歴史 第7回 黒田官兵衛孝高

作者: よしだともじ

 慶長5年西暦1600年10月 

徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍がぶつかりあう関ヶ原の合戦が近づこうとしている時、

九州の一角でどさくさに紛れて天下を取りに動いた男がいます。

その名前は、黒田官兵衛孝高くろだかんべえよしたか、 

言わずと知れた豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献した軍師だった男です。 


 軍師だったと過去形になるのは、天下をほぼ手中に収めた豊臣秀吉が、

武将たちとの世間話を楽しんでいた時、

「もし今後、動乱などが起きたら次に天下を取るのは誰だと思う?」

と聴きました。

ほとんどの武将は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、

「秀吉は黒田官兵衛じゃよ」

 と言ったとか言わないとか。

ただこの話を後で聞いた黒田官兵衛は長男の長政に家督を譲り、

その後は大阪城で秀吉の補佐役としての活動に転じてしまいます。


確かに、秀吉の天下取りに大きな貢献があったにも関わらず、 

五万石しか与えなかったことを思うと、秀吉は頼りにしつつ、

何かしら感ずるところがあり、また一番恐れていた男なのかもしれません。


 黒田官兵衛は元々は播磨国 姫路を基盤とする一豪族の家に生まれます。

早くから、領主の小寺マサモトに認められ頭角を表し、小寺家の家老に抜擢されます。

 

 時代は織田信長が中央で隆盛を極め出した時、

中国地方毛利征伐に羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が抜擢されます。

その時、官兵衛は、今後は織田信長の時代になると領主の小寺マサモトを説得し

秀吉に自分の拠点であった姫路城を差し出します。

直、姫路城といいましても現在の世界遺産の姫路城ではなく、

当時は小さな砦のような城でした。

秀吉はこの姫路城を拠点として、中国攻めを進めていきます。


 その後は、織田信長の強固な対応により、

領主であった小寺マサモトが恐れて出奔しゅっぽんしてしまったり

他の豪族たちが裏切って毛利方に寝返るなど、一進一退はありましたが、

秀吉の片腕として頭角を表し、

本能寺の変後の秀吉天下取りに多大なる貢献をします。

逸話ですが、本能寺の変を聞いてた秀吉が泣き喚いている時、

「今こそ秀吉様が天下をお取りになる時だ!」

 と言って、その言葉を聞いて

秀吉が驚いて官兵衛を見返すシーンがテレビドラマでよくあります。


その後、秀吉の九州平定後は17万石に加増され九州中津に拠点となる

中津城を築城します。


 慶長3年西暦1598年8月豊臣秀吉が死去します。 

この時、上方の状況を知らせてきた吉川広家に

「このような時は世の中が乱れるから、しっかり準備が肝要」と返答しています。


 いよいよ慶長5年西暦1600年7月大阪城では、家康の上杉征伐の留守をつき

石田三成が挙兵します。

関ヶ原の合戦に向けた前哨戦の始まりです。

その時、黒田官兵衛は息子の黒田長政と同様、家康に前もって味方として

中津城の留守居役を務める約束をしています。


 あくまでも、息子と同じく、東軍としての動きをするのですが、

本人は、この戦いは長期戦になると考えていたようで、

上方で合戦が長引いている間に九州を奪い取り、

その後は中央に進出するような考えをもっていた気配が伺えます。

まず、黒田の当主は息子の長政ですので武将のほとんどを引き連れ、

上杉征伐、関ヶ原の合戦へと出陣しています。

官兵衛は中津城の金蔵を開き領内の百姓などの支度金を与え

9000人ほどの軍を作り、西軍側の城を次々と奪っていきます。

もしこの時、関ヶ原の合戦が一日で終わらず、長引いていたら、

官兵衛は九州のほとんどを手中に収めていたことでしょう。


 しかし、結果はご存知のように、短時間で石田三成の西軍は負け、

徳川の時代が始まりました。 

関ヶ原の結果を伝え聞いた官兵衛は、残念そうな表情を浮かべたようですが、

気持ちを切り替えその後は西軍の拠点を落としつつ

徳川家康に報告しているようです。


最後に、逸話とは思いますが、

後日、息子の長政が九州に戻り父官兵衛に戦勝報告をしていた時、

息子の長政が

「家康様が私の手を握りしめて武功を褒めていただきました」

と自慢げに言った時、官兵衛は、

「その時、もう片方の手は何をしていた」

と言って、長政を白けさせています。

言いたかった事は、なぜ片方の手で家康を刺し殺さなかったと

匂わせたらしいのですが、あくまでも逸話です。が、

この時の官兵衛の残念な気持ちを端的に表しているのかもしれません。


関ヶ原の合戦後、家康は官兵衛の多大なる貢献に対し、

50万石以上の恩賞を提示しています。しかし官兵衛はこれを辞退して、

その後は、中央の政治に関与することなく慶長9年西暦1604年死去します。

享年59歳でした。


黒田官兵衛孝高

歴史は秀吉の天下取りに大きく貢献した男としての評価しか与えませんが、

もしかすると戦国時代では稀な子供みたいな冒険心を持ち続け、

いつも天下をゲームの様に狙っていた男だったのかもしれません。 

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