1.始まりの地
ガッシャーン
「誰だいこんな所にバケツなんて置いたのは!?」
白髪混じりの髪を後ろにまとめて結え、皺が目立つ女が周囲に怒鳴り散らす。
女がバケツを蹴ってしまった事でバケツから溢れた水が高級な絨毯に染みを作ってしまっている。
その様子を見た使用人達は、青い表情を浮かべる。
「誰だいと聞いてんだよ、私は!さっさと、名乗り出な!」
一向に名乗り出ない使用人に更に怒りが増した様子の女。
「あ、アイリスが…置いてました奥様」
1人の使用人が冷や汗をかき、小刻みに震えながら犯人を明かす。
「アイリスぅ〜?ちっ、こっちに来なアイリス!」
「…はい、奥様」
アイリスと呼ばれた者は、薄紫が混じった銀髪のまだ幼い少女であった。齢7歳。その子は子供らしからず、どこか儚げで折角綺麗な顔をしているのに、髪はボサボサで手入れされておらず身なりも他の使用人に比べボロボロであった。
バチーッン
部屋に肌のぶつかり合う音が響いた。女がアイリスの頬を叩いたのだ。叩かれた勢いでアイリスは床に倒れる。
「いつもいつもいつもお前は、手がかかる奴だね!罰として今日の晩飯は抜きだよっ。後、そこの片付けしときなっ」
「はい…」
奥様は怒鳴り散らすとズカズカと部屋から出て行った。使用人達は、緊張が解けたのかほっと息をつく。
「あそこにバケツ置いたのあんたでしょ?シンリー?」
1人の女が先程、奥様にアイリスが犯人だと言った女に声をかける。
「そーだよー?すっかり忘れてたんだよねー。あー危なかった」
「あんたも酷い子ね。いつか反撃されたらどうするの?」
「ないない!あったとしてもこんな落ちこぼれなんかに負けないよー!あっはっはっはっはっ」
んじゃ、よろしくー。とアイリスに一言残すとシンリーは、部屋から出て行った。他の使用人達は、アイリスを哀れむような目で見て何も言わず部屋から去っていった。
アイリスはいつもの事なので気にせず掃除を始めた。
ヨーシュアリ王国東部にある、ツァーベルという小さな町にこの屋敷は建っていた。40代の夫婦と息子、使用人の何人かがこの屋敷に住んでおり、アイリスは養子として3年前の4歳の時にこの家に引き取られた。両親が亡くなり身寄りのなくなったアイリスを遠い親戚に当たるこの家の主人ルベルトが引き受けてくれたのであった。そんなアイリスを奥様は大変気に食わないらしく日々、アイリスに強く当たっていた。養子なのに使用人の真似事をしているのも奥様の言いつけであった為だ。
絨毯に染みた水を丁寧に拭いていると勢いよく扉が開き、この家の嫡男が入って来た。町長をしているルベルトは、ちょっとした小金持ちらしく嫡男のラーブはアイリスと違い身なりが良い格好をしていた。
「おい、落ちこぼれ!遊びに行くぞっ」
齢5歳でアイリスよりも年下なのに、完全に舐められていた。
「ラーブ様、今私は奥様に言いつけられた片付けをしておりますのでもう少々お待ち下さい」
「ダメだ!今すぐ俺と遊ぶんだ!」
「ラーブ様…」
全く聞く耳を持たないラーブに困ってしまう。
「落ちこぼれのくせに俺に歯向かって良いと思ってるのかよ!?」
奥様の影響なのか、ラーブの横柄な態度が目立つ。いよいよ聞き分けがないラーブにどうしようかとあぐねているとコンコンと静かに扉を叩く音がした。そして1人の男性が入ってくる。
「お父様っ!今日はお早いのですねっ、おかえりなさい」
部屋に入ってきた人物、この家の主人でありツァーベルの町、町長のルベルトが仕事から帰って来たようだ。部屋に入って来たルベルトに可愛らしく抱きつくラーブ。
「ははは、相変わらず元気だなラーブは〜。ただいま。良い子にしてたかい?」
抱きついて来たラーブを優しく受け止め頭を撫でるルベルト。
「はい!いい子でした!」
「本当かい?さっき、ラーブの怒鳴り声が聞こえた気がしたんだが…?」
「う…それは…また落ちこぼ…アイリスが粗相をしたから叱りつけていたのです」
濡れた絨毯を指差しルベルトに説明するラーブ。
「これは…どうしたんだい、アイリス?」
絨毯を一瞥しアイリスに説明を求める。
「床に置いてあったバケツの水が溢れて染みを作ったのです」
「そうか…。ラーブ、私はアイリスと話があるのでお部屋に戻りなさい?」
「分かりました!」
ラーブは、ニヤリと笑うと部屋から出て行った。ラーブがいなくなった事で部屋が一気に静かになる。
「アイリス、また何か嫌な事をされたんじゃないのかい?」
「いえ、そんな事は…」
「ふぅ…君は良い子だね」
アイリスの頭をポンポンと撫でるとルベルトは、苦笑する。
「折角こんな綺麗な髪なのにまたお風呂を使わせて貰えなかったのかな?」
「……」
ルベルトの言う通り、アイリスは使用人達と同じ時間に大浴場に入る事が出来るが、使用人達が意地悪し度々お風呂に入れない事があった。
「私から注意しとくよ」
「やめてっ!…下さい…」
ルベルトの腕を掴み制する。
(そんな事したらもっと酷いことをされてしまう…)
実際に過去、アイリスへの皆の態度をルベルトが注意した所、アイリスがルベルトにチクったと思われ酷い経験をした事があった。
「困ったね…あっ、そうだ。今夜は、私の部屋へおいで?私の部屋にはシャワーが付いているから使わせてあげるよ」
「いえ…そんな事して頂く訳には…」
「何を言っているんだい。アイリスは、私の娘でもあるんだよ?娘がお父さんの部屋に来て何が悪い?」
「…わかりました」
確かにルベルトの言っていることは正論であった。普通の家庭であれば子供が親の部屋に行くのなんて何も不思議ではない。それにここ何日もお風呂に入れず濡れたタオルで体を拭くだけで済ましていた為、さっぱりしたかった。
その夜。言いつけ通りアイリスは寝間着を持ってルベルトの部屋に訪ねてきた。コンコンと小さく扉を叩くと内側からいらっしゃいとルベルトが出迎えてくれた。それに笑顔で失礼しますと答える。
ルベルトの寝室は部屋を掃除する際に何回か入った事があった。奥様とは部屋を分けているらしくルベルトの物しかない。部屋の中はルベルトの温厚な気質に合う優しい色合いの家具が揃っている。
「さあ、存分に入っておいで?」
そしてルベルトは、椅子に座ると読みかけの本を開き読み始めた。
アイリスはお言葉に甘えて隅から隅まで丁寧に洗い数日分の汚れを落とした。長い時間入りすぎてしまい怒られるかなと思いながら寝間着姿で部屋に戻るとルベルトはにこっと笑い本をテーブルに置いた。
「髪を乾かさずに出てきたのかい?風邪ひくよ?さ、おいで。私が乾かしてあげよう」
ルベルトの元に素直に行くとルベルトが先ほど座っていた迎えの椅子に座らされる。そして手に込めた生活魔法の温風でアイリスの髪を丁寧に乾かし始めた。ルベルトの手つきは優しくそのまま意識を手放してしまいそうになる。
「さ、乾いたよ。どうかな?」
10分もすると湿り気は一切なくなり完全に髪が乾いていた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「良かった」
ルベルトは、にこりと笑う。
「これから毎日私の部屋においで。この髪も毎日私が乾かしてあげるよ」
「いえ…そこまでして頂くわけにはいきません…」
「どうしてだい?君は、魔法を使えないだろ?だから私がしてあげるよ?」
そう、アイリスは魔法を一切使えない体であった。先程ルベルトが使った生活魔法の温風は初歩的で少し鍛錬すれば誰でも使える魔法だ。アイリスを除いて。
この国では、生き物は皆魔力を持って生まれ魔法を使い生活している。早い者で2歳から魔法を扱う者もいる。遅くても4歳までには何らかの魔法を使えるようになっているはずなのだが…アイリスはどういうわけか7歳になった今でも一切魔法が使えない。この国に生まれた限りこんな事は前代未聞であった。その為、皆アイリスを魔法が使えない落ちこぼれだとバカにして来た。歯向かう様な事をすれば魔法で返り討ちにあってしまう。
そんな中ルベルトだけは、今日みたいに唯一優しく接してくれた。アイリスの心の拠り所であった。
「ルベルト様にはいつも良くして頂いてます。これ以上甘えられません」
「どうしてだい?甘えていいんだよ?私では嫌かい?」
ルベルトが意地悪な質問をしてくる。どう答えようか困っているアイリスを抱えると向かい合うように自分の膝に乗せた。
ルベルトは、白髪混じりの髪を後ろに流しこれといって特徴がない顔だが優しさが滲み出ている出で立ちであった。そんなルベルトに直視される。
いつも助けてくれるルベルトに感謝こそすれど嫌なんて思った事はない。
「私はいつも与えられるばかりで何もお返しが出来ません」
魔法が使えないアイリスでは出来ることが限られていた。
「お返しか…本当にアイリスは良い子だね。君を養子にして正解だったよ」
「へっ?…ちょっ、ルベルト様、…何をっ!?」
「何ってアイリスは、私にお返しがしたいんだろ?」
「だからって…これは…」
ルベルトは、いつもの様ににこにこと笑いながらアイリスの太ももをさすっていた。そして寝間着のワンピースの裾を捲し立て直に肌に触れて来た。
突然のルベルトの行動に戸惑ってしまう。ルベルトは、いつもの様ににこにこと微笑んでいる。それが逆に恐怖を覚えた。
「嫌っ、やめて下さい。ルベルト様」
「何で嫌がるんだい?アイリスは私の娘だろ」
心底不思議だと言わんばかりの顔をされる。
「これを言ったら傷つけるかもしれないが、事実だから教えてあげるよ。アイリスみたいに魔法を一切使えない異端児を引き取った私に感謝こそされど嫌がられる筋合いなんてないのだよ」
「だからってこんな事…」
「じゃー君の利用価値って何があるの?」
「利用価値…」
アイリスの事を物としか見ていないルベルトの発言に驚きが隠せない。
「そう。だからアイリスは黙って私に愛されていればいいのだよ?」
「そんなっ!ルベルト様には奥様がいらっしゃるではありませんかっ」
必死に逃げ道を探し、既婚である事を指摘する。
「ああ、いいんだよ、あいつは」
これまでにこにことしていたルベルトの表情から一切笑顔が消えた。そして今迄に聞いたことがない低い声を出される。
「私にはアイリスがいればいい。まだ早いが今から育てれば立派な淑女になれるよ」
今度はうっとりとした表情でアイリスを見つめ、薄紫がかった銀髪の髪をくるくるといじり始めた。
ルベルトが怖くて堪らない。ルベルトの一挙一動にびくびくと怯えてしまう。
「ああ、こんなに怯えてしまって…何て可愛いんだ」
髪をくるくると弄っていた手を止め再び太ももに触れられる。更にその奥に手を進められ様とした時、アイリスは勇気を出してルベルトの手を振り払った。
バチーンと肌がぶつかり合う音が部屋に響いた。
「やめて!触らないで!」
ルベルトの膝から飛び降りドアへ向かって走り出す。
「待ちなさい!」
「きゃっ」
肩甲骨迄ある髪がなびいた所、ルベルトに掴まれてしまった。
「いたっ…」
ギリギリと髪の毛を引っ張られ地肌が悲鳴をあげる。
「私から逃げようとするなんて…これだから落ちこぼれはっ!」
今までに見たことない程取り乱しているルベルト。完全に目が座っていた。
「こっちに来なさいっ。お仕置きします」
髪の毛を引っ張りズルズルとベットへと向かう。
「ルベルト様っ、痛いです!おやめくださいっ。ルベルト様っ!」
アイリスが泣き叫ぶが全く聞く耳を持ってくれない。命の危機を感じたアイリスは逃げ道を探す。そして、ベッド脇の棚に置いてあるハサミが目に付いた。
(あれだっ!)
ベットに着くまで後2メートル。必死に距離を測った。ベット下に着きルベルトが歩みを止めアイリスを抱きかかえた。
(今だっ)
アイリスは必死に手を伸ばしハサミを手にした。そして思いっきりルベルトの背中に突き刺した。
「ぐあっ!?」
突然の背中の痛みにルベルトが奇声を発する。そしてアイリスから手を離しベットに倒れこんだ。アイリスはすぐ様扉へ向かって走り出した。部屋から出ると割り当てられている自室に急いで走った。
アイリスの部屋は屋根裏にあった。落ちこぼれのアイリスと誰も相部屋になりたがらなかった為、この部屋を割り当てられたのだ。逆に人に気を使わなくて良かった為アイリスはありがたかった。部屋に着くと内鍵を掛ける。そしてベット下に置いてあったリュックを背負うと窓から外に出た。追っ手が来た際に時間稼ぎをする為だ。
屋根の上に登り出来るだけ静かに走って移動した。そして、密かに設置しておいた縄梯子をつたい地上に降りた。
建物の中の様子は伺えないが次にルベルトに捕まったらタダでは済まないだろう。アイリスはこの家から出て行く事に決めた。
(この家で生きていくよりはマシだ。取り敢えず近くの山へ逃げよう)
夜の山は危険であると同時に視界が悪く身を潜めるにはぴったりであった。屋敷の敷地を抜けると一心不乱に山を目指した。