Only five minutes(邂逅)
尾はまだ私を狙っている。ゆらゆらと揺れて、背中に乗っている私に照準を合わせようとしていた。
私は「SIN」の龍の背中に急降下した。着地すると、ひざまで苔のような堆積物に沈み込んで、もわっと何かが舞い散る。マスクをしておいてよかった。
龍の背は広く、野原に降り立ったかと錯覚する。ただ、ゆっくり見物する時間はない。
「くぬやろーーーー」
両足を堆積物から力一杯引き出しながら、私は左手を顔の前で伸ばして狙いを定め、射出のために叫んだ。
「婆ット、アロ--!」
「承知じゃ!」
すぐさま婆ットが滑空してきて、器用に私の左手首にからみつく。私の手首で丸っこく変形した婆ットから、猛烈な勢いで極細繊維のひもがついた矢が射出された。
矢の先にあるのは。
龍の胴体は横倒しになった「I」の形。だから当然、両端には上下方向に壁がそびえている。巨大な龍であり、壁も高さ20メートルはある。
緑色の壁だ。文字特有の地形を利用するのも「言葉狩り」のセオリーの一つ。頭側の壁に向けて射出した矢は上方へと向かい、見えなくなる。まさか壁の堆積物が深すぎて、中に呑み込まれてしまったのか・・・と危ぶんだ瞬間、着床した矢についたひもの巻き戻しが始まった。頼もしい手応えをともなって、私の体は再びぐわんと空中高くに引っ張り上げられる。
下方に龍の背をのぞむ。緑色の壁の頂上が見える。低木がたくましく生えていて、フロッグバードたちが巣を作っているのが見えた。
「このくらいの高さでいっか」
私は着色弾をにぎった右腕を振りかぶる。さっきは攻撃されて失敗したが、再びこれだけの高さがとれれば、龍を染め上げられる。詠唱の射程圏を考えても、絶好の位置取りだ。
私は意識を胸の底にストンと落とすイメージで、集中を深める。呪文とは言いがたい、くだけた語りかけを始める。
「Iが消えれば、SとNはそう、磁石の両極だよね。どうなるかは、子どもだって知っているはず」
これでいいんだ。言葉狩りがそれぞれ、自分が言いやすいようにアレンジすればいい。言葉の化け物を制するのに大事なのは「理屈」だ。
SINの龍を倒すには、私が考案した「磁石の理屈」なら一撃必殺。同じ内容を厳かに「汝は罪深き龍なり」と告げ始めるか、もっとライトに「ちーーーっす、あんた、うっとうしいよ」と始めるかは各人の自由だ。理屈さえ合っていれば。
私は成功を確信して、着色弾を放り投げた。
空中に投じるやいなや、着色弾から赤い液体が噴き出し、血の霧雨のごとく降り落ちて行く。その赤い霧雨は、高さを稼いだおかげで広範囲に舞い散り、巨大な龍の体、その中でも「I」の胴体を真っ赤に染め上げていく。
「瓦解せよ!」
私が翼で滑空しながら、のどが許す限り絶叫すると、龍の体に地割れのようにヒビが入った。「I」の胴体が着色弾によって封殺され、「字義」を失っていく。必然「SIN」の意味が失われていく。
言葉の字義崩壊。
連鎖して頭の「S」と尾の「N」が、互いに強引に引き寄せられる。私が定義し直した通り、磁石の両極としての意味を持ち始めたのだ。
「うっし」と私は小さくガッツポーズする。
「沙チ、まだだ!」
左手に張り付いている婆ットが、顔だけあげて叫んだ。
気づいたときには、龍の体が猛烈なスピードで私に向かっていた。そうか。龍が私の狙いを察して、最期に体を動かしたのだ。私をつぶせる位置へと。
空中で引き寄せられた頭と尾は、万力に挟まれるように--------急激に引き寄せられていく。私の起こした「理屈」の力で。
避けられない――――――。私はきつく目をつむった。
「馬鹿あきらめんなって!」
婆ットの声だけが聞こえた。ううん、私は「ハカセ」。理屈が編み出せるだけ。そんな私が、化け物と戦おうだなんて、無謀だったんだ。
だけど。
次に私を揺さぶったのは、轟音と灼熱だった。熱に肌を焼かれながら、吹き飛ばされる。
龍の頭と尾は、激しく衝突。さらに、その衝突面からもうもうと黒煙があがっている。誰かが爆発を起こし、私を吹き飛ばしてくれたのだ。
私はぐるぐる旋回する体を立て直し、さっと、あたりを見回した。誰かは、察しが付いている。私を助けてくれる人なんて。
見えた。私が飛び出した芝生敷きのビル屋上に、猫のような丸い瞳が光っている。
タカダ・トキ野だ。
私と同じセーラー服姿で、ライフルを肩にかけている。真っ白い肌、紺色の髪が、風に揺れている。とても長距離射撃の名手には見えない、といつも思う。現場力がめっぽう高い、私とは真逆の適性の持ち主。
トキ野は無表情のまま、右手中指をガッと突き立てた。手間かけさせんなって、ことか。
龍の体は強い磁気を帯びているが、それで倒壊するようなビルはアヴァロンにはない。ある意味、こうした事態は慣れっこなのだ。けれど、高層階で外に出しっぱなしにしていたのだろう。金属製のハサミやじょうろが空を舞い、強い磁力を帯びた龍の体に吸い寄せられていくのが見える。
崩壊が始まった「言葉の化け物」はもろい。言葉で存在を定義されているのに、全ての文字が崩されてしまったのだ。壊れた龍は、大量の砂塵と化してゆく。
私は空中に漂う砂の層を滑空して、ゆっくりと高度を下げていった。
アヴァロンの最下層、とどのつまり私たちがいつも行き来している道路に着地する。見上げると、残骸は残りわずかだ。
降り立った幹線道路は、可動式の鉄柵で封鎖されている。数人の監視官以外、人の姿は見当たらない。
・・・・と、どこからともなく、せわしない靴音が聞こえてきた。
私の兄貴が全力の笑顔でやってきた。規制中の直下エリアなのに。名をイシマル・悟と言う。
辺りを見ると、龍の崩壊が進んで、磁力の呪縛から解放された鉄製ハサミなどが、数は少ないが凶悪なスピードで自由落下してきて、アスファルトにぶっ刺さっている。言葉の化け物との戦闘エリアは、直下を含め戦場なのだ。
そんな危険地帯を、頭にハンチング帽をかぶり肩からカメラを下げた兄は、悠然と駆け寄ってくる。
「沙チ!」
5歳年上の兄貴は、私の目の前まで来ると、にやりと笑った。
「よかった間に合って。沙チ。今日は・・・学校帰りだったのかい。勤労奉仕の精神、ご苦労さま。一言コメントを、どうぞ」
「どうぞって・・・」
うだつのあがらなかった兄貴。いつも新聞の三面記事ばかり書いていた兄貴。私が言葉狩りになったから、次のネタにしようっての。ちゃらんぽらんな兄貴が考えそうなことだ。
だけど、あまりに雑なフリに、メラメラと答えたくない気持ちがわき上がってきた。兄貴はにやりとした表情でペンを握っている。
「めんどくさいな。適当に・・・いや適切に! 書いといて」
気づけば私の目から、汗が流れていた。そんな体質だったっけ?私。
「好きに書いちゃってよ・・・」
兄貴が死んで以来、久々の汗だ。幽体離脱して眺めているような、第三者的な気持ちで自分を見ている自分がいる。でも目から汗は止まらない。
けれど当の兄貴は、特別な反応をするそぶりはない。今の兄貴は、止まらない録画映像なんだ。
「さあすが、兄貴を信用してくれてる!いやー楽な取材だわ」
私は鼻をすすって答える。
「信用ってか、面倒くさいだけだって」
あたりには、落ちてきた黄色い砂塵が色濃くただよっている。何十年も開けていなかった倉庫に忍び込んだような乾いた臭いも。
私はあごひもを外して、赤色のヘルメットを脱ぐ。トキ野と違って、私の髪は茶色い。ヘルメットの中にまで砂塵が入り込んで、すっかりパサパサになってしまった。
思わず私が髪を手ぐしで漉くと、フラッシュがたかれた。
「・・・・おい」
「いいじゃん、いいじゃん。誤解を恐れず言うと、女子高生って紙面映えするんだ。スタンドでの売れ行きも上がるぞお」
「誤解を恐れろよ。兄貴は三流記者でも、新聞は一流紙を標榜してんだろ」
「いい! 不景気なご時世、ぜいたくは言えない。そのポーズのまま、しばらくストップ」
「貧すれば鈍するとは、このことだな」
兄貴は、ばしゃばしゃとシャッターを切っている。孤児院で育った頃から、変わらない光景だ。兄貴はどこからか古びたカメラを手に入れていた。私はいっつも本を読んでいた。図体がでかくなっただけで、根っこは変わらない。兄妹、お互いに。境遇は随分変わってしまったけれど。
私は求めに応じて、髪に手ぐしをするポーズで固まっている。
頭に浮かぶのは、やっぱり理屈だ。
言葉の化け物を倒した言葉狩りは、しばしば不思議な光景を目にする。死者の姿が、見えるのだ。理由は化け物が黄泉の国から死者を連れてくるからだとか、はたまた化け物が残す砂塵には幻覚効果があるのだとか、諸説ある。ともかくも見える死者の姿は、化け物の組体となっている「言葉」に影響を受けるのだが・・・。
今回は「SIN」つまり「罪」。
能天気にシャッターを押している兄が、カメラを下ろした。そして言った。
「沙チ。先に死んじまって、ごめんな」
・・・・来た! 私は兄に近寄り、手をつかもうとした。しかし、手応えは無い。
「兄貴!兄貴は誰に、何に殺されたんだ?」
兄貴は、少し困ったような表情を浮かべ、首を振った。
「言えないんだ、沙チ」
「なんで兄貴が、食い殺されないと、いけなかったんだよ!」
「この件には決して深入りしないように。ああ、やっと言えた。そうか。沙チに死ぬ前に『注意』できなかったことが、俺の罪悪感になっていたんだな」
「一人で納得してんじゃねえよ!ちゃんと教えてよ」
砂塵の中で、兄貴の姿が段々と薄らいでくる。覚悟していたことだ。5分間の邂逅。これでも、言葉の化け物が見せる映像としては長い方だ。
もう兄貴の姿は見えない。私は声がする方向に今度は両手を差し出した。
何にも触れず、つかめるものもない。
兄貴の声が、傷ついたレコードみたいにとぎれとぎれに聞こえる。
「沙チの・・・・ためなんだ。トキ野とシュ宇と、平和に暮らせよ」
それが最後だった。
瞬間、考え込んでいた私の体は横っ飛びに吹き飛んだ。
轟音。
路面にたたきつけられ、目を開くと、私を腕の中でかばって転がる監視官の顔があった。
さっきまでいた路上を見ると、そこには鉄製ベンチが自由落下して、アスファルトにシャレにならないクレーターを作っていた。
「ぼうっとしてんな! ここは直下だぞ!」
監視官が怒鳴る。タカダ・シュ宇。さっき、銃撃で私を救ってくれたトキ野の兄だ。
「ありがとう。シュ宇」
助けてもらったのに、そぎ落としたように無駄な肉のついていないシュ宇の顔が、怖く感じてしまう。シュ宇はトキ野のように中指を立てたりしない。ただ、私の瞳をじっと見て。
「言いたいことは山ほどあるが・・・それは『査定』のときにやろう。覚悟しておけよ」
私が内心震えると、シュ宇が無表情のまま肩をぽんと叩いてきた。
「ともかく、無事でよかった」
「あ、ありがと」
特別な余韻もなく。シュ宇はくるりときびすを返すと、同僚に「道路封鎖の解除準備、はじめ!」と指示を飛ばし始めた。
空を見上げると、もう砂塵は消え去っていた。日常が、戻ってきた。
パシャ。
最後にもう一度だけ、どこからかフラッシュがたかれた気がして、私はあたりを見回した。
見慣れた高層ビルだらけのアヴァロンの街は。
静かに夕暮れを迎えようとしていた。