9.屋上より
八千代は、屋上から落ちたいと言った。
「学校って、ちょっとしたブラックボックスだから、壮太にも都合がいいと思う」
それに学校は好きなんだ、と八千代は笑う。なんだか意外だった。
「気にかけてくれる人だっているし。家にいるよりは好きだよ」
「そうか」
とはいえ、学校で自殺者が出ることによって、多方面に迷惑が及ぶことは確実だ。しかし、知ったことか、とも思う。八千代ひとりのために、大勢の数日間を犠牲にしてやればいい。残されたえぐみで、せいぜい数日間くらいは顔をしかめてもらおう。なんともガキっぽい所業だが、所詮、俺たちは思うように生きられなくて、ぐずって暴れるクソガキなのだ。
俺が大人だったなら、八千代をまっとうに救うことができただろうか、なんて詮無いことを少し考えた。
「壮太は登校するたびに、篝八千代を思い出すのですよ」
ひひひ、と八千代は笑った。数あるバリエーションのなかでも、屈指の気持ち悪さを誇っていた。
「そんなん、どこでやったって忘れられる気がしねえよ」
いまからこいつを突き落とそうというのだ。殺してやろうというのだ。きっと、ずっと忘れることはないだろう。少なくとも、数日や数ヶ月で忘れられるようなものではない。
「あ、あたしは……壮太の記憶に残る女に……」
「お前は本当に気持ちが悪いな。それを俺に隠さないところがすげえわ」
たった数時間で妙なことになったものだ。思いのほか、俺はこいつのことが気に入ってしまったんだろう。でなければ、今日話したばかりのやつを殺してやろうなどとは思わない。殺してでも助けてやろうなんて思うわけがない。ましてや、こいつは俺のストーカーだ。普通ならこんなことにはならない。歪みきっていて受け入れがたいが、あのイカれた行動だって、八千代の俺に対する一種の愛なのだ。さんざん気持ち悪いと思ったし、気持ち悪いと罵ってきたが、俺もずいぶんと気持ち悪い。
「壮太くん。じゃあ、また学校で」
「あぁ。気を付けて帰れよ」
そう言って、これから死ぬってやつにかける言葉とは思えなくて、ちょっと可笑しくなった。まるで、また明日会う友達との挨拶みたいだった。
深夜の学校は、想像していたよりもワクワクしない。状況のせいだろうが、少し残念だ。
「来ないかも、と思ってた」
俺はジャージに着替えてきたが、八千代は冬の制服のままだった。
「むしろ、腹が据わったぞ」
そう言ってやると、八千代はとても嬉しそうに微笑み、俺の腹をなでる。おもわず、つられそうになるくらいの笑顔だった。
「物理的に腹がどうこうなってるわけじゃねえよ」
「え?」
「……え?」
嘘だろ、と俺が顔を引きつらせると、嘘だよ、と八千代がまた笑う。
「お前、短時間でずいぶんと会話ができるようになったな」
「壮太くんのお陰ですよー」
待ちに待ったあの世行きに、八千代はごきげんだった。
ここだ、と八千代が示したのは特別教室に面した裏庭。ベンチが点在する広い歩道が真ん中を走り、向かって左に校舎、右にプールがある。プールの横を小さな川が流れていて、昼休みなどは賑わいを見せる人気の場所だ。
その裏庭にあるベンチの一つ。ちょうどその真後ろの窓を、八千代はゆっくりと引き開けた。からからと小さな音を立て、一階の廊下の窓が開いた。
「まじか……」
学校に入る方法がある。屋上の鍵も手に入れられる。八千代はそう言っていた。
「誰なんだ?」
「知らないほうがいい。お互いに。壮太、踏み台」
「あ、あぁ……」
俺は開いた窓の下で片膝を立ててしゃがみ込んだ。意外にも、八千代は助走をつけて一気に行こうとしている。つんのめって転びやしないかとヒヤヒヤしたが、ひょいひょいと俺を蹴りつけ、八千代は校舎に吸い込まれていった。ゲームで例えるなら、素早さと気持ち悪さにステータスを振りまくった特化型といえよう。
「壮太、早く」
俺はまず靴を脱いで、持ってきた袋に放り込んだ。それを中の八千代に渡す。
「匂い嗅いだら怒るよね?」
「まじでやめろ」
俺は窓枠を掴み、地面を蹴って飛び上がる。両手を逆手に変え、鉄棒のように前へ倒れる。体は斜めに倒し、同時に下半身を極限まで折りたたんだ。窓枠を蹴りつけないよう注意しながらくるりと回り、腕で体を少し押し出して廊下に着地した。
「今日のために練習したろ?」
「するかよ」
忍者だな、とか呟きながら、八千代は廊下に設置してある消火器を持ち上げた。どう考えても俺が持ち上げたほうがいいのだが、ぶるぶると真っ赤になって消火器を持ち上げている八千代が面白くて、俺は黙っていた。
消火器の下には鍵が置いてあった。俺は、消火器の底を支えながら、その鍵を掴み取る。家に転がっていた軍手をつけてきていたので、指紋などは気にしなくてもよかった。一応、軍手はあとで燃やしてしまえばいい。
「屋上の鍵か」
八千代はぜいぜいといいながら頷いた。
「一生分の体力使った……」
「そんなんじゃ、火事になっても消火器使えねえな」
「もう終わるからいいのです」
そうだな、と少し笑って、俺たちは屋上を目指した。
手すりから見下ろす裏庭は真っ暗でなにも見えなかった。居残っている人間など想定していない時間なので電灯も消えている。下にいたときは、月明かりがかろうじて裏庭を照らしていたが、屋上からでは俺の目にまで景色は届かなかった。
「吸い込まれそうとはこのことだな……」
風鳴りなのか、ときおり低いうなり声のようなものが聞こえる。
「壮太が落ちたら駄目だぞ」
「死にたくねえから気を付ける」
振り返ると、八千代は少し緊張した面持ちだった。何度か、ここにも足を運んだらしい。しかし、その度に手すりを越えられず、八千代はまた俺をついばむ行為に没頭した。人間の、安全を確保したい欲求が、八千代の意思とは無関係に働いてしまうのかも知れない。落ちれば死ぬ。純粋な恐怖というのは、単純明快で実に強力なのだと思わされる。
さらに、八千代が面倒なのは、死にたいくせに生きる努力をしていたことだ。いままでは、親のために生きなければならないという負い目が、こいつを生かしていた。だが――、
「いままでで一番穏やかな気持ちだ……」
と、八千代はゆっくりと手すりに近づく。
「最後の瞬間まで壮太がそばにいてくれると思うと、なにも恐怖なんて感じない。あたしは今度こそ落ちていける」
大きく、この世で最後の深呼吸をする八千代。
「お前が震えても、俺がしっかり突き落としてやる」
「うん」
さあ、行こうか。
その八千代の言葉と共に、俺は手すりの下で膝をついた。
「手すりの向こうに、ちょっとした出っ張りがあるから、そこで待ってる」
「分かった。テンション上がってさっさと落ちてもいいんだぞ」
ぐっ、と八千代の全体重が、俺の右肩にのしかかった。こいつは、同じ背丈の女よりも軽いだろう。それでも、八千代の足は俺の右肩に重くめり込んでいる。
「やだ。せっかくだから壮太の顔、見ながら落ちたい」
右肩から重さが消え、顔を上げると、手すりの向こうで八千代が笑っていた。まるで、遊園地を目の前にして、早くおいでよ、と言っているみたいだ。もしもこれが映画で、こいつが幽霊だとしたら、完全に俺が落ちて死ぬという最後を迎えるホラーだったろう。だが、こいつは嬉しくて仕方がないのだ。自分の命が尽きるということに、人生最大の喜びを感じている。そして、それは自分だけだと理解もしている。死にたくないと言っている俺を引きずり込もうはずがない。
俺は細心の注意をはらって手すりを越えた。月明かりを頼りに、出っ張りに足をつく。そこは思っていた以上に広かった。おそらく、手すりから六十センチほどもあるだろう。しかし、この暗がりで目測を誤れば、足は空を切ることになる。
「待て待て。おい、危ねえって」
俺が出っ張りに着くや否や、八千代はすぐに思い切り背伸びをして、俺の首に巻きついてきた。
「そのまま裏投げとかすんなよ」
「なんすかそれ」
なんでもねえよ、と俺は間近で八千代を見る。左手で手すりを掴み、背中を預ける。右手が支える八千代の体は、枯れ枝かと思うほど痩せていた。いまにも闇に溶け込みそうな黒いショートカットが、月明かりに揺れている。風にさらわれた短い前髪。密かに、いい形だと思っていた額が、赤く腫れていた。
「デコ、どうした?」
おぉ、と八千代は俺の首から離れ、自分の額を触る。
「悠子ちゃんに、団扇ではたかれた。こう……、縦にびしっと」
「あいつ……」
「いいのいいの。悠子ちゃん、なんか勘付いてたみたい。虫の知らせ的な。泣いてたわ」
姉の尋常ではない何事かに、妹として無意識に抵抗したのかも知れない。なんにせよ、妹の涙の意味までは、さすがに俺では分からない。なにしろ、姉のこいつですら、まともに話したのは今日が初めてなのだ。
「お前ら、仲良かったのか?」
実は仲の良い姉妹だったというのなら、分からない話ではない。
「金輪際、会いたくないくらいには」
「じゃあ、どうでもいいな」
「うん、まったくだ」
八千代は、猫みたいに俺の鳩尾に顔をごしごしとこすり付ける。
こいつは変に優しくて、そういったしがらみをずっと捨てられずにいた。親だけでなく、実は妹にも負い目があったのかも知れない。だが、それももう、八千代の背後に佇む闇の彼方へ消えてしまった。しがらみのために、生きなければならないと、奇怪な努力することも、もう必要ない。
「壮太」
八千代が俺を見上げた。それが合図だった。
「あぁ……」
俺は、背中を預けていた手すりから、わずかに体重を前へ移動させる。一度だけ八千代はぶるっと震えたが、その顔に怯えは見られない。
「あたしがこんなんじゃなかったとしても、壮太のことはストーキングするくらい好きになってたかも」
「そうか? 俺はそうは思わん。でも、ストーキングだけはやめてくれると助かる」
まあ、なんにせよ。いまとなっては――、
「ただの世迷言だ」
「まったくだな」
俺は右手をゆっくりと八千代から離していった。俺にすべてを寄りかけている八千代の体は、同じ速度で背中から倒れていく。そして、完全に俺の支えをなくした八千代は――、
「ばいばい」と、さようならを告げた。
「じゃあな」
と、俺もまた、さようならを告げる。また明日、みたいな挨拶を交わして、八千代は闇のなかへ加速していった。
俺は左手をあとで引き戻せる限界のところまで伸ばし、闇に溶けていく八千代を見下ろす。消した瞬間の白熱灯みたいに、すうっと余韻をともなって、八千代は暗がりへ消えていった。
やがて、命の終わる音が鳴ったのを聞いて、俺は来た道を引き返した。存外に、重たい音だった。
俺は来たときとは違う窓から外に出た。幸い、一階にある男子トイレの窓が開いていた。少し窮屈だったが、無事に脱出を果たす。というのも、飛び散った八千代のなにかしらが、付近の校舎の窓にへばりついていたからだ。見たところ、来たときの窓は無事だったが、念のために俺は別の出口を探したのだ。
そして、慎重に、近づけそうな限界まで八千代に近づく。見事に頭から接地したらしく、死体は頭が砕け散っていた。一目で体中の骨が折れていると分かるくらい、ひん曲がっていて、ぐったりと横たわっている。もう、それには生前の面影はない。
ついさっきまで笑っていた八千代が脳裏をよぎり、頭から血が落っこちていく感覚をおぼえた。たった数時間しか一緒にいなかったやつに、人はこれほどまでに感情移入できるものなのかと驚いてしまう。
八千代のスカートが裏返っていて、赤と黒の下着が丸出しになっていて少し不憫だった。しかし、直してやることはできない。余計なことをして、八千代と、手伝ってくれた誰かさんの配慮を無駄にはしたくなかった。
長居は無用である。俺はもう一度だけ小さく、「ばいばい、八千代」と言って、振り返りもせずにその場から逃げ去った。
そして、俺は自分の部屋で一晩中ごみ袋に嘔吐し続けた。