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8.亡霊からの奇襲


「警察の取調べ、思ったよりは厳しくなかったよ」

 八千代の家を出て、俺たちはなんとなく学校に戻ってきていた。紫紺色の校舎に囲まれて、裏庭ではしつこくセミの鳴き声が響いている。昼間の暑さがやわらぎ、涼しい風がプールを越えて髪をなでていった。

「もともと、警察は壮太を疑ってなかったんだと思う」

「そうか?」

 ストーカーの八千代が、学校の屋上から飛び降りて死んだ。そして、死ぬ直前、ストーキングの被害者と一緒にいた。この二つだけで、俺なら被害者がなにかしたのではないか、と疑うだろう。ストーキングの加害者が女性で、被害者が男性だ。体格差もあるし、逆上して突き落としたという可能性も、ない話ではない。

「屋上には、ほかに誰かがいた形跡、なかったんだもんな」

「あぁ」

「壮太の指紋とか、なかったんだもんな」

 含みのある言い方を続ける八千代。

 屋上の手すりは、なかなかの高さだ。身長百八十センチ近い俺の肩に届く。よじ登らなければ、その向こうへは行けない。手袋でもしていない限り、指紋は必ず残るだろう。

「俺の指紋なんてあるはずないだろ」

「そーだねー」

 八千代はどこか嬉しそうに、にこにこと笑っている。

「なんだよ」

 いま俺たちは古臭いベンチに座っている。右隣で空を仰いでいる八千代の横顔は、いままで見たことがないほど安らかだった。生前、俺たちが一緒に過ごした時間は、一日にも満たない。むしろ、こいつが死んでからのほうが付き合いが長い。それでも、生前の八千代がこんな顔で空を見上げるなんて、一度もなかったんじゃないかと思えた。

「あたしは、背中から落ちてったんだよ」

「え……?」

「ゆっくり倒れるみたいにして落ちた。ゆっくりと、なんの抵抗もしないで、“屋上”を見つめながら落ちたんだ。他殺なら、そうはいかない。壮太が疑われるはずないんだ」

 突然のことに、俺は息を呑んだ。空を見上げていた八千代の目が、すうっと流れる。流れて、俺の向こう側を見た。空に少し残った紫紺の輝きが、八千代の瞳に乗り移る。

「でも、あれほど怖かったのに、不思議なもんだ。変だよなあ? どうしてだろうなー?」

 俺たちが座るベンチから数メートル。俺の背後。八千代が頭をかち割ったコンクリート。暗がりよりもなお黒く、歩道にこびり付いたシミ。どれほど掃除しても落ちないらしく、この学校の七つめの怪異譚になっている。それは、あまりにも生々しい話だった。先日まで一緒に授業を受けていた女生徒の怪談。

「お前……、思い出したのか?」

 俺の目の前には、まさにその怪談の主役たる女生徒がいる。さすがに、最初は逃げた。だが、いまとなっては怖いことなどなかった。

 いま、俺は後頭部を誰かに見つめられているような気配に襲われている。それは、気のせいであるはずだ。そうでなければおかしい。シミの原因は俺の目の前にいる。俺を見ているし、俺も見ている。だから、後ろから見られている感覚など、ただの気のせいだ。


 思い出したよ、壮太。


 ぞぶぞぶと、脳みそに沈み込んでくるような八千代の声。彼女の口元はきつく結ばれたままだ。直接、耳の中に語りかけられ、俺はいまにも逃げ出しそうになった。

 学校の七不思議が誕生したこの場所に、なんの恐れもなく近づけたのは、八千代がそばにいたからだ。原因がそばで笑っていてくれることほど、心強いものはなかった。

「全部、なのか?」

 そのとき、疎らに設置されている裏庭の電灯がともった。省エネのためか、すべてが点いたわけではないようだ。相変わらず裏庭は薄暗い。

「う、うぁあ……。壮太、あたし思い出してる。どんどん思い出してるぞ……!」

 どこか苦しそうな表情に変わった八千代が、こちらへにじり寄ってくる。幽霊だとは思えないほど、その顔は上気していて、息が荒い。真一文字に引き結ばれた口は、いまにも愛か呪いの言葉を紡ぎそうだった。

 八千代の瞳は、記憶の奔流に弄ばれているかのごとく小刻みに震えている。

「おい、八千――」

「あーーーーッ!」

 どっ、と八千代が鳩尾に頭を突っ込んできた。果てしない違和感が体を突き抜け、嘔吐感が食道を駆け上がってくる。

「ああー! 恥ずかしい! はぁずがじぃぃぃ! ぢぬー!」

「なんべん死ぬんだよ。……あぁ、あー、やめろ吐く」

 八千代の拳が繰り返し俺の鳩尾や顔面にめり込む。

「なあ、ズボズボすんのやめてくれます? 吐きそうなんだけど……」

 聞こえているのかいないのか、八千代はベンチから頭を抱えて転げ落ちた。

「軽薄で、自堕落なものに憧れたんだ……、じゃねえよ! 漂ってる……、じゃねえよ! バカかーーーッ!」

 どうやら、自分が死にたがっていた理由を思い出したらしい。過去からの羞恥心に転がり続ける八千代。過去というのは、幽霊の足にすら絡みつく。俺はそれをただ黙って見つめていた。とても、優しくて穏やかな気持ちであふれている。吐き気など、どこかへ行ってしまった。

「壮太をストーキングする気持ちは、まあ分かるけど……」

「そこは変わらねえのかよ」

「まあ、あれはやりすぎだけどな」

 幽霊の八千代は、生前の八千代とはかけ離れている。記憶を取り戻したとしても、それはたぶん変わらないだろう。すべてから開放され、なんのしがらみも無く、奔放に振舞うことのできる“もしも”の八千代。ずっと焦がれていた、軽薄で自堕落な八千代だ。

「なあ、八千代。自分の知らない自分を見つめなおすときの気分はどんなだ?」

「このザマだよ!! ケンカ売ってんのか!」

 可笑しくて、本当に可笑しくて、俺は笑い転げた。まだ深い時間ではない。居残っている生徒も教師もいるだろう。それでも、笑いはとめられなかった。紫紺に沈んだ裏庭で、俺は心の底から笑った。声も出なくなるほど、笑い転げた。

「笑ってんじゃねえよ!」

 やめろ、と八千代が覆いかぶさってきても、俺の笑いはとまらなかった。腹がよじれて痛い。笑いすぎで死ぬかも知れない。

 生前の腐り果てた八千代。そいつを自分で死ぬほど恥ずかしいと思えるのなら、死んだ甲斐があったと心から思えるだろう。

「よかった。ホントによかったよ」

「な、なんだよ……。壮太のそういう笑顔、知らなかったな」

 ばち、と八千代に両手で顔を挟まれる。

「や、やめろテメー。向こうで吐け……!」

 んふ、と笑った八千代の唇は、綺麗な三日月の形をしていた。




「んー、肝心なことが思い出せないんだわ」

 俺にヘッドバッドをくらわした八千代は、難しい顔をしてベンチに戻った。

「……まだなにかあるのか?」

 口に残る違和感を気にしながら、俺もベンチに座りなおす。八千代の言う肝心なこととは、思い出さなくてもいいことだと俺は思っている。たぶん、そこは肝心ではない。

「やっぱ、まだなにか隠してんなー。この期に及んでまだ隠すとは、さてはヘタレか」

「うるせえな」

 分かってはいる。この八千代に限ってそれはないと、ちゃんと分かっている。だが、たしかに俺は怯えている。ヘタレている。返す言葉が見つからない。

「あたしは、“屋上”の“誰”を見つめながら落ちたんだ?」

「月でも眺めながら落ちたんだろ」

「はい嘘。さっき嘘の味がしたもん」

 ぺろぺろと自分の唇をなめる八千代。

「最低ですね」

「壮太くん、ガチで引かないで」

 俺のなかの幽霊像をことごとく破壊していく八千代。しかし、幽霊として現れたのには、やはりそれなりの理由があったのではないか。いわゆる、心残りというやつだ。あの日からずっと抱えてきた罪の意識が、右肩の重みが、一抹の不安となって心残りと重なるのだ。幽霊(やちよ)は最初から、俺を殺すための理由を探していたのではないか。過去の記憶を探り、“恨めしや”を取り戻したとき、俺は死ぬのかも知れない。そんな不安が心の片隅で燻り続けていた。

「言え、壮太」

 八千代はもう勘付いているはずだ。それでも、俺をどうにもしないのだから、やはり大丈夫だ。俺の考えすぎだったのだ。慣れない出来事の連続で、俺は神経質になっていただけだ。ならば、もう隠すこともないだろう。

「……お前は、俺を見つめながら落っこちていった。俺がお前を落としたんだ」


「人殺し」


「そ……」

 八千代の言葉に、心臓が飛び跳ねる。二つに割れて、両耳の内側に張り付いた。


 人殺し。


「そ、それは。だって、お前……」

 銅鑼を鳴らされたみたいに、大きく頭に響いたその言葉。そして、乱反射する残響のように、幾度も、幾重にも、頭のなかへ叩きつけられる。

 人殺し。人殺し。人殺し人殺し人殺し人殺し。人殺し。

 隣を見ることができない。首が固まって動こうとしなかった。気が付けば、俺の右肩になにかが重くのしかかっている。そして、冷たい感触が背中を突き破り、俺の左胸に侵入した。

「うあ……! あっ」

 白い腕が、俺の左胸から突き出ている。心臓をもぎ取られたような心地だった。もはや完全に暮れた裏庭。電灯にぼんやりと照らされた白い腕。やはり、八千代は幽霊だった。どんな理由があれど、此岸の理屈が彼岸にも通ずるなど、思ってはいけなかったのだ。此岸の俺には理解することもできない道理で、八千代は彼岸から舞い戻ったのだ。俺を殺すために。

 右の耳元でほくそ笑む息遣いが感じられた。生前の、死んでいるような八千代の笑顔を思い出す。この世に恨みを抱き、その本懐を遂げた瞬間の笑顔。骨身に染みる、致命的な笑顔。

「やっぱり壮太だった。壮太があたしを突き落としたんだなあ。なあ、どんな気分だった?」

 全身が寒気に覆われ、いくら夜だといっても、夏とは思えないほど俺は震えていた。冷たい汗がだらだらと流れ始め、呼吸も覚束ない。この高校に出来たばかりの七不思議。俺が、最初で最後の犠牲者になるのだろうか。

「うお、やべっ……」

 ずぼっと腕が消える。

「ごめん、壮太。やりすぎたわ……、ダイジョブ?」

 突然の開放感に、忘れていた呼吸が急激に戻ってくる。喉が奇怪な音を発して、貪るように酸素を取り込んだ。まるで水攻めの拷問から救われた捕虜だ。俺は芝生の上に這いつくばって、しばらく咳き込みながら呼吸を整える。息が楽になるにつれ、じわじわと怒りがわいてきた。

「冗談になってねえんだよクソ女!」

 苦しさと安堵と怒りで、目の端から涙がこぼれてくる。

「ごめんってー。あー……、よしよし。泣くことねえだろ」

「泣くだろ……、こんなもん」

「あたしが壮太を恨むわけない」

「知ってるわ! 分かってたよ。でも、お前幽霊だろ。もしかしたらって、ずっと心の端っこで考えてたんだよ……」

 ふへへへ、と八千代は笑う。俺の頭を抱きかかえながら、「壮太のお姉ちゃんもアリだな」などと気持ちの悪いことを言う。

「ねえよ。お前、もう死んでるから。俺が殺したから」

「うん。あたしは、“屋上の壮太を見つめながら”落ちていったんだ。うん。これで、全部分かったよ」

 あの日、手すりを越えさせるため、八千代に俺の右肩を踏み台にしてもらった。食い込んだ足の感触。篝八千代という人間の重みが、右肩に張り付いて消えてくれなかった。

 ずっと俺は怯えていた。人を殺してしまったという倫理的な罪悪感。八千代を殺したこと自体は、いまでも間違っているとは思っていない。法的な問題、他所からの倫理的な呵責などクソくらえだった。だから、俺自身の倫理的な罪悪感も大したことはないと思っていた。しかし、俺が思っていた以上に、それは俺を苛んだ。

 篝八千代が怖くて断りきれなかった。だから、彼女の家に行ったし、一緒にハンバーガーショップにも行った。俺は、警察にそうやって嘘までついて、人殺しの事実から逃げてきた。自首したくなったらいつでも罪を告白できるようにと、証拠になりそうな屋上の鍵まで隠し持って、俺は逃げ続けた。八千代が死んでから、俺は一度も屋上には行っていない。

「壮太、ごめんね。もう平気?」

「あぁ……、大丈夫だ。まったく、お前はそんなイタズラ好きだったのか」

「んー。覚えはないなあ。幽霊の(さが)みたいなもんかも知れないな。なんか、驚かせずにはいられないんだ」

「嘘だろ……。まじか。だから、あいつら普通に登場できねえのか」

「いや、知らんけど。なんすかそれ。……待って、だれか来た!」

 しっ、と八千代は口元に人差し指をあてた。別に隠れるようなことはなにもしていないが、反射的に俺は黙って息を潜めてしまう。

 裏庭に面した校舎は特別教室ばかりで、明かりは点いていない。その暗い廊下を、小さな懐中電灯らしき光がさまよっていた。

 そして、ちょうど俺たちが座っているベンチの後ろ、一階の廊下の窓がゆっくりと引き開けられた。

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