5.雨とカッターナイフ
学校に忘れ物をして、取りに戻った俺は最悪の光景に出会う。衝撃的すぎて、しばらく眺めてしまったほどだ。
高校二年、梅雨の時期だった。帰宅した俺は宿題のプリントを忘れたことに気が付いて、静かな雨のなかを引き返した。
すでに日は落ちかけている。夕日も雨雲の向こうに隠れており、じめじめとした薄闇が教室を包んでいた。
「なにしてんの」
多少ためらったが、俺は声をかけることにした。教室にはそいつしかいない。すぐに自分にかけられた言葉だと理解し、持っていたカッターナイフを隠した。
「壮太……くん!」
俺はこいつの名前をすぐに思い出せなかったし、いままで話したことも、たぶんろくになかったと思う。それを、いきなり下の名前で呼ばれ、俺は少し驚いた。本人も気が付いたのか、深雪くんと言い直し、真っ赤になっている。正直、気持ち悪いと口をついて出そうだったが、俺は状況を鑑みて必死に堪えた。
「人の席ですげえことしてんな。やめようか」
そうだ。篝八千代、という名だったはずだ。自殺未遂を繰り返しているという噂を聞いたことがある。いま、まさに俺の席に着いて、篝は自分の手首を何度も薄く切りつけていたのだ。血は滲んでいるが、傷は浅く、すぐに止まるだろう。怖くてためらっていたのかも知れない。
「聞いてるか? とりあえず、やめようか」
「えっ。なに、引き止めてくれるの!?」
「なに言ってんだ。気持ち悪ぃな」
俺がおもわず本音を漏らすと、篝の黒目が大きくなる。薄闇のなかで彼女の瞳孔がすうっと開く。はっ、はっ、と過呼吸みたいな息づかいを始めたかと思うと、篝はまた懐からカッターを取り出した。
「待て。人の席で死のうとするな。とりあえず、今日はいったん帰って落ち着くといいと思う」
「ホント!? 一緒に帰ってくれるの?」
絶妙に会話がズレていて、非常に気持ちが悪い。しかも、いまさっき死のうとしていたやつとは思えないくらい、情熱的な笑顔を浮かべている。心の底から、拒絶感が湧き上がる笑顔だ。誰かを呪って死んだ者の幽霊が、まさにその本懐を遂げたとき、こういう顔で笑うのだと思わされる。幽霊みたいな女だ。
「俺に迷惑のかかる死に方をしないなら、一緒に帰……ってもいいだろう」
途中で、少し後悔した。
ふんふん、と篝は鼻息も荒く頷く。彼女はもう目の前まで迫っていて、断ろうものなら刺されそうだった。爛々とギラついた目は、生きているというより死んでいる。やっと死に場所を見つけ、喜んでいる猫みたいだ。
「いいから、早くカッターしまえよ……」
いったい、なんでこうなった。
俺は宿題のプリントをまた忘れて、陸橋を渡っていた。そぼ降る雨のなか、傘を持ってないと言い張る篝を、俺の傘に入れてやったまでは耐えられた。しかし、俺を陸橋から突き落とそうとしているのではないか、と疑うくらい密着してきたので、さすがに少し引き剥がす。
そんな篝は、隈のひどい目で俺を見つめている。一向に視線を外さない。前も、足元も見ない。俺にすべてを寄りかけた歩き方だ。
「前を見ろ。ちゃんと歩け。できないなら、これを掴め」
俺は傘を少し回して、柄の部分、“し”の字の先端を篝に向けた。しかし、なにを勘違いすればそうなるのか、こいつは俺の右腕に自分の腕を絡めてくる。ぐいぐい胸を押し付けてくるので、頭をかち割って陸橋から投げ捨てたい衝動に駆られる。だが、それではおそらく思う壺なのだ。
「やさしい……。やさしいね、壮太くん」
んふふ、と不気味に笑う篝。これはもう駄目だ。手遅れだ。正気ではない。
このまま、それとなく警察に駆け込もうか、しかし事件でもないのに相手にしてもらえるのだろうか、などと考えていると、篝の細さに気付いた。やたら胸ばかりぎゅうぎゅうと押し付けてくるものだから、神経がそちらに尖りすぎていたが、こいつの腕は折れそうなほど細い。長めのスカートから伸びる脚も、スレンダーなどと言うには、いささか色合いが不健康すぎた。顔も青白い。
「篝。お前、ちゃんと飯食ってんのか?」
「八千代」
「飯食ってんのか?」
「八千代」
「うるせえから」
「や ち よ」
しつけえ。なんて面倒なやつだ。
どうして、こいつはこうも距離が近いのだろうか。いったいなにがそうさせているのか、妙に興味がわいた。面白半分、怖さ半分、そういったところだろうか。しかし、俺が猫ならば死ぬかもしれないので、十分に注意が必要だ。
「八千代。ちゃんと飯食ってるんですかね?」
「あまり食べてないです」
「食えよ」
「時間ない。いっぱい勉強しないと、あたし、すぐ頭悪くなるから」
「いや、飯は食えよ。頭悪くなるぞ」
ぬろっ、と手首に熱い感覚が走る。雨とは違う水気を含んでいて、ぎょっとして手首に視線を向ける。篝が吸い付いて舐め回していた。
「気色悪ぃな! ナメクジかよ……」
あまりのことに、俺はおもわず飛び退いた。
「いや、冗談ですけど……。驚きすぎじゃないですかね、壮太くん」
「いや、冗談になってねえから。寸前で止めて驚かすから、フツー。やっちゃったら別物だろ」
「えっ?」
やはり、どこかちぐはぐな会話。篝は本気で分からないという顔をしている。どうも、早く逃げ出さないとまずい気がしてきた。日常に現れた篝という非日常に、少し後ろ髪を引かれながらも、俺は引き返す。
「俺、こっちだから。傘はお前にやる。じゃあな」
有無を言わさぬよう、俺は唐突に傘を篝に押し付けた。陸橋を渡りきったところで、俺は橋の下をくぐる道を素早く歩き出す。じゃあな、と挨拶はしたが、返事など求めていなかった。
そして、たしかに返事はなかった。代わりに、ずりずりと重いものを引きずる音がした。腰周りにヘドロでも絡み付いているような感覚。たまらず、俺はつんのめって足を止める。
「ま、待って。おねがい。待って……」
篝が俺にすがりついていた。
「離れろ」
そして、あろうことか、俺に密着してスンスンと深く呼吸をしている。そうとうに気持ちが悪い。反射的に、俺は篝のわきの下に腕を差し込み、そのまま投擲してしまった。
「あ。すまん」
という、俺の声が聞こえたかは分からない。篝はふわっと飛んで、そのまま不恰好に水溜りへ転がった。制服も髪の毛もべしゃべしゃに濡れたまま、うなされているかのように、待って待って、と呟いている。完全に幽霊のそれである。この薄暗い時間帯、なにも知らずに遭遇していたら、悲鳴を上げていたかも知れない。
「ひとに密着して深呼吸してんじゃねえよ」
「責任とって」
「は? ……クリーニングってことか?」
「ご飯食べさせて」
「意味わからん」
「お腹空いた」
「帰って食えよ。母ちゃん待ってんぞ」
「あの人のご飯は味がしない」
ひでえ話を聞かされた。聞きたくもない話だ。母ちゃんの飯に味を感じないというのは、たんに料理が下手なのだと思いたい。しかし、突如増した雨脚が、それを否定しているようで、俺は暗澹たる気分になった。
こいつに俺はなんの縁もない。ただクラスが同じというだけだ。しかし、なにをとち狂ったのか、こいつは一方的に馴れ馴れしい。会話が妙に噛み合わないことや、冗談にもならない冗談を言う篝を見ていると、人との距離感を把握するのが異常に下手なのではないのか、と思う。だから、急に壮太などと呼ぶのだ。
正直に言うと、俺は少し篝に同情し始めていた。好奇心もある。
深くかかわれば、面倒ごとに巻き込まれることは確実だ。なにより、篝に対してそこまでする義理はない。死にたくなるような状況から助けてやれるとも思えない。だが、飯もうまくないのでは、たしかに俺も死にたくなる。
「自分の言葉には責任もてよー、壮太ー。ご飯食べさせてー。お腹減ったよー、責任取れよ」
ひどい言いがかりだ。あたり屋かよ、と思う。
「あんま金ねえから、ハンバーガーとかでいいか?」
「いいよ! 食べてみたい!」
「食ったことねえのかよ……」
少し、泣けてきた。
「分かったから、早く立て。風邪引くぞ」
はい、と篝は良い返事をして立ち上がる。
「デートですねー、壮太くん」
「くそ面白くねえけど、冗談の言い方はそれで合ってる」