4.スカベンジャー
リビングから廊下に出ると、気ぜわしいセミの声が聞こえてきた。それと共に冷房の効果が遠のいて、平穏な暑さが戻ってくる。死人を肩に載せ、遺族と気色の悪い会話をするなど、頭がおかしくなりそうだ。
俺は深く呼吸をし、階段に足をかけた。ぎし、と少し軋む階段。あの日、八千代が死んだ日にも上った階段だ。
「深雪」
「ん? ……引き返したいなら、それでもいいぞ」
八千代の沈んだ声に、俺のなかの不安が濃度を増した。自分の記憶から消えた自分というものを妹の口から聞かされたのだ。それが、ほんの少しの情報であったとしても、八千代にとってはショッキングだったに違いない。ましてや、俺が殺したんじゃないかなどと嘯かれては、腰が引けるのも頷ける――、
「うちの妹とヤったろテメー!」
「やってねえよ。ふざけんな。まだ中学生だぞ」
「うそつけ。いきなり他人にあんなこと言い出す人間がどこにいんだよ!」
「お前にそっくりじゃねえかクソ女……」
――などと、少し気遣ってみたらこのザマだ。
「頭んなかにピンクのキノコでも生えてんのかよオメーは」
「いや、意味わからんし。……でもまあ、なにがどうなってたって、いまさらなんも言えねえけどさ。あたし、もう死んでるしな」
取り憑かれて以来、最大級の重さが俺の右肩にのしかかっている。いまにも俺の肩が腐敗して朽ちていきそうなほどの腐った空気を、八千代は垂れ流していた。
「やってねえから。ふて腐れんなよ」
「じゃあ、あたしとはヤったんですかー?」
「は?」
取り憑かれて初めて、幽霊も頬を染めるのだと俺は知り、軽く頭にきた。
「やってねえよ! 気持ち悪ぃな。俺の幽霊像ガンガン壊すんじゃねえよ」
「そこはヤっとけよ! なんでだよ! ほら!」
「ほら、じゃねえよ。なんなんだよ、お前……」
俺は今日、またしても膝を屈した。
顔を覆って溜息を殺していると、リビングの扉が開き、階段の下に人の気配を感じた。
「深雪さん、大丈夫ですか?」
八千代の妹だ。おそらく、俺の声がいくらか聞こえたのだろう。
「あ、あぁ……、平気だ。ちょっといろいろ思い出しちゃってな」
「無理しないほうが……」
「おい、深雪。あいつヤる気だぞ」
八千代が余計なことを言うので、冷や汗が背中を伝う。
「大丈夫。申し訳ないが、少しだけひとりにさせてくれないか?」
「わかりました」
流し目で微笑みをくれながら、妹はリビングに戻っていった。あいつもあいつで、わりと気持ち悪い。
「要らんこと言うな。その短い前髪引っこ抜くぞ」
「似合ってるだろ」
「まあ、似合ってるな」
俺は改めて八千代の部屋に向き直る。“八千代”と墨汁で書きなぐられた半紙が、扉に釘で打ちつけられていた。“死んでます”と書かれたプレートが下がったノブに手をかける。もう冗談になってない。
「ホントにいいんだな?」
「もちろん。お前が入りたくないんだろ?」
そうだよ、とは言わないでおいた。どうせそんな返事など、言われなくても察しているのだろう。大変に忌々しくて、死んでますプレートを首に下げてやりたくなった。
ぎり、と渋い感覚が手に伝わり、ノブが回る。ここを開けようものなら、嫌でも八千代に知られてしまう。他ならぬ、八千代自身のぶっ飛んだ熱量を。その異常さを。どうか片付けられていてくれ、と俺は願い、扉を開けた。
息呑む。幽霊が呼吸などしているのかは知らない。だが、たしかに八千代は息を呑んだ。そして、早鐘を打つ心臓の鼓動のような音が、俺の頭に響き、満たしてゆく。八千代の鼓動は、いま、たしかに跳ねている。
「な……に、これ」
「俺だよ」
言って、俺はその部屋に足を踏み入れる。綺麗に整頓され、掃除もかかしていなかったらしい部屋。いまとなっては、さすがに少し埃が積もっていた。
まず、一番に目を引くのは、左の壁一面に張られた巨大な俺の写真だ。しかし、実際は写真ではなく、絵だ。写真と見まがうほどの精巧な絵。しかも、切り紙絵だ。遠くから盗み撮りしたであろう小さな俺の写真を、一枚一枚の色味などを踏まえて配置し、こちらに微笑みかけている俺の絵が作り上げられているのだ。
「み、深雪か、これ。お前はこんな顔で笑うのか」
これが作られたであろう時期、俺はこういう感じの微笑みをこいつに向けたことなどない。そして、いままで生きてきて、自分の笑顔を写真などで見てきたが、この絵の笑顔は、とてつもない違和感を覚える。下手くそだとか、似ていないだとか、そういう話ではない。これはおそらく――、
「お前の想像だろうな」
「ま……じか。そんなん、想像できるもんなのか?」
八千代は、しばらく無言でその絵を見つめていた。
そして、恐ろしいのは壁の絵だけではない。俺に対する妄執、妄念が形を成し、この部屋にはあふれている。なかでも、最も俺の恐怖心を煽り、拒絶感を高めるものが、“深雪壮太のよろず箱”と書かれたコンテナボックスである。
「深雪って苗字だったのかよー」
と、少し不服そうに笑った八千代も、中身を確認して絶句する。もう、俺の名前が壮太だったとか、そんな問題はかき消えた。
箱の中には、密閉できるビニール製の小袋がラベリングされて綺麗に収まっている。ご丁寧に、一つ一つに乾燥剤まで封入されていた。
『髪の毛』
『血』
『靴下』
『使用済みバスタオル』
『使用済みストロー』
『使用済みナプキン』
……etc.
おもわず、灯油をかけて火を放ちたくなる代物だ。いったい、どれほどの執念と根気があれば、こんなものを俺に気付かれずに集められるのだろうか。なかには、身に覚えのあるものもあって、自分のうかつさに頭を抱えてしまう。大きなダンボールほどの箱に、そんな妄執の塊がぎっしりと詰まっていた。
「どっかで避けてたけど、これはもう……。深雪、あたしって――」
篝八千代は、俺のストーカーだった。
「あぁ、そうだ。強烈だろ……」
頭が妙な浮遊感に包まれ、視界が黒く侵食されていく。貧血で倒れる寸前に似ていた。俺はたまらず、しゃがみ込んだ。改めて見ると、やはりこの部屋は強烈で、さまざまな感情が刺激される。
「ごめん。そりゃ、こんなとこ来たくないよね。無理言って、ホントごめん」
気持ち悪いくらい、しおらしくなった八千代。
「いまのお前は知らなかったんだから、仕方ないだろ」
「言ってくれればよかったのに……」
「知りたかったかよ、こんなの?」
死にたくてもなかなか死ねなくて、生きなくちゃいけない理由を、あろうことかこんな風に見出して、助けを求め続けた八千代。生前の闇色みたいな八千代が、血色も良くなってカラカラと笑っているのだ。誰だって、それで良い、それが良い、と思うはずだ。たとえ、この世に何かを忘れて、迷った幽霊としての姿であったとしても、下品に笑っている八千代のほうが、良いに決まっている。
ほら見ろ。そんな顔を俺は見たくなかったんだ。
「ごめん。恋人だなんて嘘まで吐かせて……」
そう言った八千代は、口と眉根をゆがめて、目の端に涙を溜め込んでいる。
「まったく……。飯食ったり吐いたり泣いたり。俺の幽霊のイメージ返せよテメー」
うるせぇな、と嗚咽をもらしている八千代。しかし、視線の先でなにかを思い出したようで、顔を腕でこすりながら自分の机に移動した。
「う、おぅ……。あたし、気持ち悪すぎる」
八千代は、机の上に転がっている棒付きキャンディーを指し、うえぇ、という顔をする。おもわず、俺も同じ顔をした。
それは、飴の部分の包装を、わざわざ別のものに取り替えてあった。登校時に盗撮したと思われる俺の写真がプリントされているのだが、股間の部分が飴の頂点に位置するように調節されていた。包装には、商品名のように、“深雪壮太の○○○○”と書かれており、無駄に妄想を煽る仕上げになっている。
「発想キレすぎだろ……。ここまでくると逆に笑えてくるな」
しかし、八千代の興味はすでに移っているらしく、机に手を突っ込み、引き出しをカタカタと小さく揺らしていた。霊障というのは、こういう行動からきているのかも知れない。
「しかし、壮太もあたしに嘘ついたり隠したりするなら、もっとちゃんとやれよなー。雑だろー」
「突然すぎるんだよ。化けて出るなんて予想できるか」
まったくだなごめんな、と八千代は言いながら、まだ引き出しをカタカタいわせていた。
「なにしてんだよ」
「この部屋の物、なんかうまく触れられない。深雪、開けて」
「は、はあ。ろくなもん入ってねえだろ、どうせ……。まあ、わかったよ」
気は進まないが、俺は引き出しに手をかけ、思い切って引いてみる。すると、そこにはなにも入っていなかった。
「なんもないですけど」
「……ないな」
「だからなにが?」
「お気に入りの、深雪壮太の厳選写真集!」
「この期に及んでそんなのがお気に入りかよ。普通だな」
「知らねえよ。生前のあたしに言え。あたしは思い出しただけ。たしか、プールの写真とかお気に入りだったはず」
「言わなくていいわ。聞きたくねえって」
なにかの拍子に部屋からなくなったのだろう。たとえば、警察が資料として預かり、まだ返還されていないということもあり得るのではないか。なんにしろ、そろそろこの部屋から出たくてたまらなくなってきた。
「八千代。そろそろ帰ろう。もういいだろ」
「やっと名前、呼んでくれたね」
「うるせえから」
出口に向かう俺の背後、八千代は剣呑な眼差しを絵の張られていない壁に向けている。俺の抱き枕が置かれたベッド側だ。
「なにして――」
八千代はその壁に頭を突っ込んだ。みるみる壁にめり込んでいき、壁から尻が生えた。なにが行われているのか不明だったので、俺は八千代の尻を眺めて待つ。やがて、尻を見るのに飽きて、スカートのプリーツの数を数えようかという頃、ようやく八千代は顔を出した。たぶん、時間にして一分強くらいだったと思うが、絵面がひどすぎて時間の流れが遅かった。
「なにしてんだよ」
「帰ろ、深雪」
一抹の不安を覚えたが、それはこの家を出てから明確にすればいい。俺は開放感の溜息をつき、部屋を出た。右眼下には階段があり、玄関とリビングのドアが見える。妹に挨拶をしなければな、そう思って部屋のドアを閉めたとき。
「帰りますか?」
その声に、俺は跳ね上がりそうなほど驚いた。閉めたドアの向こう、自分の部屋と八千代の部屋の間に、妹の悠子が突っ立っていた。にこり、と俺を見て笑う。その笑顔に、俺の背中は真冬の行水のような冷たさであふれる。生前の、骨身に染みる八千代の笑顔に少しだけ似ていた。
「あ、あぁ……、そろそろ帰る」
一歩踏み出して来そうな妹の気配を感じ、俺は慌てて階段を下りた。
「また、来てくれます?」
「いや……」
俺は靴を履き、玄関のノブに手をかける。
「たぶん、もう来ないと思う」
階段半ばの妹にそう言って、俺は八千代の家を出た。
炎天下に生きた心地を覚えるというのも少し変だが、俺は全身を蒸す暑さに安堵した。心なしか、背中がまだ少し冷たい。それを振り払うように、俺は体を少し揺すった。
「お゛……っ!」
「ん?」
おろろろろろろ、と八千代が嘔吐した。みるみる背中に冷たいゲロの滝が流れる。
「ああっ! お前のせいかよ!」
「あ゛ー、あ゛ー、ぢぬー……!」
「もう死んでんだろ!」
普通なら吐くものなどもう胃には残っていないだろう。幽霊特有の体液があるのだろうか。なんにしろ、考えるだけ無駄に思えた。
「写真集……。深雪の厳選写真集……」
「まだ言ってんのか」
はぁはぁと喘ぎながら、嗚咽から立ち直った八千代は、俺の肩に這い上がる。
「壁、すり抜けるの気持ち悪いんだろ? なんで頭なんぞ突っ込んでたんだよ」
「あっちにある気がして」
「あっちって? なにが?」
言いながら、あの壁の向こうは位置的に妹の悠子の部屋だと思い至る。
「うちの妹が、深雪の写真集持ってた」
「な、なんでだ……」
「しかも、切り紙絵、作ろうとしてた痕跡があった」
幽霊がここにいるというのに、俺は生きている妹にこそ恐怖を感じた。それは、走っている回線が憤りに近くて、いまにも飛び火しそうに、ひりひりと俺を蝕んでいた。