2.屋上にて
「こっから飛んで、お前は死んだ」
なんて薄ら寒い台詞なんだろうか。自分の口から出た言葉で、頭がおかしくなりそうだった。
俺が通う四階建ての高校。その屋上。下は裏庭になっていて、校舎から少し離れたところにプールがある。プールに続くコンクリートの歩道に、なにかを跳ね散らかしたようなシミがあった。うちの学校でも、七不思議のようなオカルト話はそれなりに横行していて、たしか六つほどあると聞いた。先日まで、七不思議とは呼べなかったそれらに、記念すべき七つ目が加わることになった。
その怪異譚の主役が、こいつである。
「まじか……。おっかねえ。落ちたら死ぬだろ、これ」
俺の肩越しに下を覗き込んで、もう死んだ女が吐いた台詞が、またずいぶんとイカれている。
「実際、お前死んだから。頭、木っ端微塵だったぞ」
俺からしたら、お前のほうがよほど怖い。赤く開いた八千代の首から上を思い出し、くらりとめまいがした。
そんなこと言われてもなあ、と八千代はぼんやりした声で呟きながら俺の肩に腰かける。先日から、右肩が異様に凝っていた。
夏の屋上には、ひとっこ一人いない。日差しに焼かれる赤茶けた手すり。影のコントラストが激しいコンクリート。すべての音が遠く向こうにある。まるで、廃墟にでも迷い込んだみたいな錯覚に陥る。こんなところに長居はしたくなかった。
「おわっと! 急に動くなよ」
もういいだろ、とばかりに俺は踵を返して出口へ向かう。立ち入り禁止のテープや、バリケード代わりの机と椅子に触れないよう、そっとそれらをくぐる。そして、来たときと同じく、制服の袖でノブを掴み、俺は校舎に戻って屋上の扉を閉めた。
ガチリ、と鍵をかけ、階段を下りようとしたところで右肩に違和感が襲いくる。
「深雪……」
ぞっとするような冷たい声。慌てて右肩に視線をやると、んふふっと少し困った顔で笑う八千代が、キスでもしそうな勢いで俺に迫っていた。
「吐きそ……!」
「やめろよ……」
低く、地を這うような、地底から這い上がるような、とにかく、禍々しいうめき声で、八千代は吐瀉した。
俺は顔を覆い、その場に膝をつく。
「もうやだ。なんなのお前。吐くなら俺のカツサンド食ってんじゃねえよ」
「おばっ……!」
「あ?」
「おばえが! お前が、あたしに気を遣わないで動くからだろ。壁すり抜ける時の気持ち悪さ知ってんのかよ!」
「知るかよ……」
そのとき、顔を覆った手の隙間から、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。少し伸びてきた前髪が緊張で震える。
「深雪」
笠井、という国語の教師だ。
俺は鼻をすすり、うつむいたまま心臓を落ち着かせる。屋上はもともと立ち入り禁止であり、さらにいまは飛び降り自殺の現場ともなっている。そんなところでひとり佇んでいれば、なにごとかと怪しまれたり心配されたりしてしまう。
「大丈夫か?」
笠井は、俺を気遣うように近寄ってくる。
「なんだったら、もう少し休んでいてもいいんだぞ。お前は普段きちんとしているから、多少の欠席はなんてことない」
八千代が死んでから、俺と彼女の担任である笠井は、なにかと気にかけてくれていた。とても優しくて、物腰の柔らかな教師だ。昔から教師のなかでは一番好きだった。
「平気です。ちょっと通りかかったら思い出しちゃっただけなんで……」
俺はできるだけ平静を装い、そう言った。
思い出したというのは嘘だ。だが、それ以上のものが、いま俺の右肩に憑いている。思い出が向こうからやって来て、無理やり頭を掘り起こすのだ。まるで、俺を責め立てているかのようで、落ち着かない気持ちになる。
「辛かったら、話してみてくれ。力になれるかは分からないが、聞くだけなら聞ける」
それは、この先生の常套句ではあるが、相談すると熱心に自分の出来る範囲のことを検討し、実行してくれる。だから俺はこの先生が好きなのだ。
しかし、八千代とのことだけは誰にも話すつもりはなかった。
「ありがとうございます。大丈夫です」
俺はそう言って、顔を上げる。
すると、八千代がひどい顔で俺を見ていた。
「おっ……!」
俺は驚いて再び顔を覆う。
「大丈夫か!?」
八千代は自分の鳩尾あたりを俺の頭に載せ、そこを起点としてくの字に折れ曲がり、逆さまで俺を見つめている。幽霊にも重力が作用するのかなんて知らないが、髪が逆立ち、顔の肉が少し下がり、今までで一番恐怖を誘う人相だった。
「変だなあ」
と、つぶやく八千代の声には反応しないよう努めた。
「大丈夫です。ちょっと、むせただけです」
「変だなあ。なあ、深雪。なんで屋上の鍵持ってんのよ、お前。それに、あのノブの掴み方。おかしいなあ……」
「そうか、無理するなよ。先生、もう行って大丈夫だな?」
「変だなー。おかしーなー」
「ええ、大丈夫です。すみません」
八千代は、立ち去る笠井を見つめて顎に手を当てている。こいつは記憶のほとんどを喪失していた。笠井のことも憶えていないのかも知れない。
「本当に自殺なのか、あたし?」
「あぁ、そうだ……。たまに、手すりの前に突っ立って、お前を思い出す」
俺は警察からも隠し通した屋上の鍵を、今も持っている。しかし、事件から一ヶ月近く経過している現在でも、鍵が変えられていなかったことに俺は少し驚いていた。
「自殺した恋人を思い返すために、たまに屋上に来るってこと? だから、鍵を隠し持ってるってこと?」
八千代は少し訝しそうだった。
「まあな。我ながら気持ち悪ぃやつだな、とは思ってる。自殺じゃないなら、いまごろ犯人を追っかけてたかもな」
「ふーん……、そうか。よし来い。チューしてもいいぞ」
「しねえよ、胃酸くせえ」
八千代の口元では、きらきらと汚物が昇天していた。
「ツンツンしてんじゃねえぞ。早くデレろ」
両腕を広げたまま、八千代はけたけたと笑った。空中で霧散していく吐瀉物の残滓が、輝きながら彼女を囲む。まるで浮世離れしたイラストのようだった。袖口からのぞいた白い手首には、幾筋もの切り傷が走っている。八千代は、自殺未遂の常習者だった。
いまここで、にこやかに笑っている八千代からは、生前の鬱蒼とした夜の森みたいな雰囲気は感じられない。記憶の喪失が彼女を変化させたのか、もともとはこういう人物だったのか。それは定かではないが、俺は後者だと思っている。
笑いながらぴょんぴょんと階段を下りていく八千代。
「ぁぁあああっ!」
が、四階の廊下へたどり着く前に、悲鳴を上げてすっ飛んできた。文字通り、飛んできた。スカートを花のように咲かせ、足から俺に向かって飛んでくる。まるでドロップキックだ。
咄嗟に俺は受け止める体勢を取った。しかし、八千代は俺の腕をすり抜け、右肩にすとんと収まる。やはり、こいつは俺から一定以上の距離を取れないようだ。初めて幽霊として会った日も、俺に引きずり回されてゲロを撒き散らしていた。見えないなにかで、俺の右肩とこいつの足が繋がっているようで、ひどく気持ちが悪い。
「……いま、セクシーだったな?」
八千代が意地悪い声色で、どうでもいいことを尋ねてきた。俺は無視を決め込む。
「いま、セクシーでしたね、深雪くん?」
気が重い。八千代は、俺の肩の上で長めのスカートを捲り上げている。ふんふん、などと頷いている。俺はバリバリと頭をかいて、大きな溜息を吐いた。
「あたし、死んだとき、けっこうえぐいやつ履いてたっぽい」
「うるせえな」
「セクシーだった? 教えてよ」
「知らねえよ」
「教えてってば」
「知らねえって」
「なんであたしは自殺したの?」
教えてよ。
俺の頭に、直接響いてきた八千代の声。ごくり、と喉が鳴る。
「知らねえよ……。むしろ、俺が知りたいくらいだ」
「嘘だな」
即座に断定する八千代にぞっとした。あまりに人間味があるため忘れそうになるが、こいつは幽霊であり、俺に取り憑いているのだ。それを思い出させるかのように、鬱蒼と、夜の森のように、ざわざわと八千代は笑った。
「嘘だって思うんだけど、どうなの、深雪?」
生前からそうだったのかは知らないが、八千代は妙に勘が良く、鋭く抉るようなことを言う。こいつは、幽霊の第六感じゃないかなと笑っていた。それがあるから、下手なことは考えないようにしている。なにを見抜かれるか分かったものじゃない。
「嘘じゃねえよ」
「あ。いまイヤらしいこと考えてたな!」
「考えてねえよ、なんだそれ!」
小さく声を殺し気味ではあるが、あまり一人で喋っていると、いらぬ誤解から心配されかねない。笠井以外に見られる前に立ち去ろうと、俺は今度こそ階段を下りた。
「あたしのパンツ何色だった?」
「ワインレッドと黒のツートン」
「がっつり見てんなー、あの一瞬で。まじかー」
「生地少なすぎだろ。頭悪そうな」
「あたしもそう思うわ」
遺書、と呼べるかは不明だが、八千代は自殺する直前、宛名のないメールを残していた。それはポエムめいていて、若人が迸った何かをぶつけた青臭いもののようにも見えるし、始まったばかりの人生に嫌気が差しているようにも見える。まるで、中高生が好きな歌の詞にでも影響されて、SNSに書き込んでいるような類のものだった。つまり、よくある風景だった。
しかも、八千代の場合はそれ一件だけではない。何度も似たようなメールが作成されていた。そのたび、八千代は腕に傷を増やして救急車が呼ばれた。橋の欄干に立っては、歩行者の度肝を抜いて警察が呼ばれた。皿を割ってストレスを解消するかのように、八千代は自らを傷つけていた。
だから、八千代が死んだとき誰もが、「あぁ、ついに」と思ったのだ。
思っても、誰もやめさせようという手を差し伸べることはなかった。あるいは、届かなかった。
ねえ、と八千代は俺の頭に肘をつき、頬杖でぷくっと膨らんだ顔で言う。
「あたしの自殺の真相、調べよっか」