13.エピローグ ~ 日常戦線かわりなし ~
高校三年の春。
冬の寒さから解放された生き物たちがアホみたいに踊っている。俺は、学校の裏庭のベンチに座って、道行く元気な蟻んこたちを眺めていた。
「壮太ー! 学食行くけどお前は?」
「すまーん。俺はここでいいー」
「はいよー」
友達が後ろの窓から声をかけてくれたが、俺はすでにパンをかじっていた。わざわざ特別教室方面まで迎えに来てくれたというのに、我ながら薄情者である。
牛乳をストローで吸いながら、俺は空を見上げた。首が折れそうなほど後ろに傾いでも、屋上の手すりは出っ張りの陰になって見えない。そのうち、俺はむせて激しく咳き込んだ。
ここで笠井に会ったあと、屋上の鍵は間もなく取り替えられた。笠井は過失を咎められていたが、八千代の件だけは露見せずに逃げ切れたようだった。これで俺も安泰である。そして、俺が隠し持っていた鍵は、友達と海に行った際、海の中へぶん投げた。よほどのことがない限り、二度と出てくることはないだろう。
すっかり、肩の荷が下りた。
春の陽気に誘われて、裏庭では様々な生き物がうごめいている。しかし、人間はといえば、俺しかいない。あれからずいぶんと経った気もするが、八千代の痕跡はいまだ裏庭を生徒たちから遠ざけていた。例のシミはもうない。八千代と二度目のさようならを交わした次の日、シミは綺麗さっぱり消えていた。だが、それはそれで、なにも知らない人間からすれば恐ろしかったのだろう。相も変わらず、八千代は学校の七不思議の主役となっていた。
そんな、ひとっこ一人いない裏庭に、真新しい制服の少女が踏み入ってくる。学校の怪談を知らないわけでもないだろう。
俺はすぐに視線をそらし、新しいパンの封をきる。それにかじりつきながら、足元の蟻んこ観察に精を出す。八千代と俺の人生が交差した瞬間から、短期間でいろいろなことが起こった。それでも、俺の高校生活はさほど代わり映えせず、平々凡々と過ぎていた。
「うわ……、なにしてんですか、先輩。気持ち悪い」
裏庭に踏み入ってきた新入生は、俺を扱き下ろしながら隣に座った。変わったのは、うるさい下級生がいることくらいだろうか。
「なあ、見ろって、こいつらめっちゃ頑張ってんだよ」
「知らないですよ。気持ち悪い。蟻にでもなりたいんですか?」
「俺たちは蟻になんてなれねえよ」
「あたりまえですよ」と俺に言い返し、がさごそとそいつは自前のビニール袋を漁る。そして、猫のキャラクターが描かれた菓子パンを取り出した。カスタードクリームが詰め込まれた甘そうなやつだ。
「お前、猫好きなー」
「は? 別に好きなわけ……、っ!」
新入生は突然、シコを踏み出した。たぶん違うんだろうが、とにかく、地面を激しく踏んでいる。怒っているのだろう。面白いので、俺の前に現れたときはいつも弄って遊ぶのだ。こうむった迷惑を考えれば、このくらいは許してもらえるだろう。
「誰かに言ったら殺すから……。いいですね!」
やはり、こいつは八千代とは違う。
「相変わらず元気いいな」
八千代によく似た、違う顔。黒い髪をなびかせて憤る姿は、篝悠子であり、決して篝八千代ではない。
「あの日、先輩に止められたから、わたしはずっと大変な目にあってるんですからね」
「え、俺、止めてねえけどな。……なに、まだ死にてえの?」
う、と気勢をそがれる悠子。
「わたしはお姉ちゃんと違って、親には反発しまくりなんで。むしろ殺す勢いなんで」
「殺しは駄目だろ……」
俺が言うのもなんだが、やめたほうがいい。
「お姉ちゃんは、どうしてできなかったんだろ……」
「え、殺し?」
「反発です! 反発! ……嫌なら嫌だって言うしかないですよね?」
自分をずっと養ってくれている親。こうあって欲しいという親の期待に、うまく応えられている気がしない自分。ただひたすら、それに負い目を感じ、ひれ伏していた八千代。
「お前と違って根が良いやつ過ぎたんだろ。まあ、最後の最後にどでかい反発してみせたけどな」
この学校に、妹に、両親に、強烈なシミを残した八千代。その死に甲斐あってか、篝姉妹の両親は、話によると以前よりかなりマシになっているそうだ。もっとも、八千代とは違い、嫌なことには反発しまくり、言いたいことは言いまくりの悠子の影響も、そうとうあるのだと思う。以前にも増して、悠子はよく反発するようになったと、本人から聞いた。まるで自分が親を教育しているみたいだと言って、憤然としていた。
「わたしが、もっと前からいまみたいにしていれば、お姉ちゃんは……」
「たぶんな」
「だよね……」
悠子は考え込むように、猫の菓子パンにかじりついたまま動かなくなった。俺もこいつも、シミに囚われてはいけない。八千代の残したシミは、どちらかというとポジティブなものだ。あの落っこちていくときの笑顔をこいつにも見せてやれればいいのだが、それは望むべくもない。
「おい、やめろ。あんま死人のことでネガティブになりすぎると足引っ張られんぞ。お前まで死んだら、俺はとても迷惑です」
パック牛乳のストローをくわえながら立ち上がり、俺はそのまま歩道を歩いていく。
「んっ! 待ってくださいよ」
「ついてくんな。お前、友達いねえのか?」
「いますよ!」
「じゃあこっちくんな。ストーカー被害で訴えるぞ」
「もう真似してませんから!」
俺は、お前の代わりがいない日々を生きていく。いずれ、爺様になって終わりの日が来たら、俺はお前に会いに行くだろう。よう、ってな具合に。
それまでは、せいぜい胸を張って生きていく。
―― おわり ――