12.さようなら、ブギーマン
俺たちは並んで帰路についていた。自転車は右側で押し、八千代は左側を歩いている。いまさらだが、幽霊にも足がある。八千代以外の幽霊を知らないので、こいつが一般的かどうかは知らない。
「こんなに笑ったのは初めてかも知れん」
八千代は猫さんパンツがいたく気に入ったようで、道中ずっと笑っていた。さすがに妹が不憫に思えてくる。
「もう許してやれよ……」
もともと八千代はひどい性格ではあったものの、幽霊になってからは悪化しているように思う。いままで抑圧されていたぶん、爆発しているのかも知れない。そう思うと、仕方ないと諦めがついた。それに、これはこれで面白くもある。
「さ、映画でもレンタルして帰ろうか」
「うん」
八千代は嬉しそうに飛び跳ね、自転車の荷台に座る。俺もサドルにまたがり、自転車をこぎ出した。日が沈んでずいぶん経つが、空気はいまだ熱く湿っている。背中の八千代がほどよく冷たくて、とても気持ち良かった。
「ありがとね、壮太」
「いきなり、なんすか」
「んー、いろいろ。いろいろあったから。死ぬ前も、死んだ後も」
「あいよ」
きいきいと、さび付いた音で自転車は坂道を下っていく。土手を通り過ぎて、もう一つの橋のたもとから続く、長い下り坂だ。
「あ……。それだわ」
「ん?」
「あたし、それだけ言いにきたんだわ」
「な、なんだ。どういうことだ?」
なんとも言えない焦燥感が俺の背中を伝う。
「あたし、壮太にお礼言いそびれて落っこちてったじゃん。だから、ありがとう」
「それだけか? そ、そんなん伝えるために、お前は幽霊になったのか?」
「へっへっ、そうみたい。幽霊って、けっこうみみっちいもんだな」
「……まったくだぞ、アホかお前は。そんなもん、お前を突き落としたとき、ちゃんと貰ったわ」
「え?」
あの夜、闇のなかへ溶けていった八千代を思い出す。フィラメントが切れた瞬間みたいに、鮮やかに輝いた笑顔を俺は忘れられない。
「あんな良い笑顔で落っこちていくやつがあるかよ。手まで振りやがって」
だから、感謝なんて、その笑顔からとっくに届いていた。
「おかげさまで忘れらんねえよ」
「うわー……、いまさらだったか。まじかー。あたし恥ずかしいな。……でもまあ、せっかくなんで、恥ずかしいついでにもう一つ」
「待て。まだ映画観てないだろ。飯も食ってない。お前、腹も減らねえのによく食うだろ。その話は明日にでもしよう」
「聞いてよ、壮太」
我ながら、呆れるほど詮無いことを口走ってしまった。なにをいまさら、俺は焦っているのだろうか。
「分かった。聞こう」
「うん。あたしは壮太を許すよ。ほかのどんなものが、どんなに壮太を糾弾したって、あたしだけは絶対に壮太を甘やかす」
痙攣し、しゃっくりみたいに急激な鼻呼吸が起こる。まぶたの震えは必死に堪えた。
「だから、気にしないで胸張って生きなよ」
「…、………あぁ。そうする」
「うん。あたし、先にいってるから。じじいになった壮太に会えるの、いまから楽しみだわ」
殺したやつと、殺させたやつ。あの世で笑い合うには、ちょうどいい話の種かも知れない。
「あの世でもお前に付き合うのかよ。死になくねえな。どうにかして不死身になるわ」
実は、けっこう気に入っていた。八千代を肩に乗せて過ごす日々も、なかなか楽しいと思っていた。
「まじかよー、ツンツンしやがって。そんときは迎えに行くからな」
「うるせえ。こっちくんな、クソ女」
この世に、しがらみなんて何一つ残すな。お前はもう、こっちの理屈など気にしなくていいんだから。
「ばいばい、壮太」
「じゃあな、八千代」
そして、呆気なく坂道は終わった。
忌々しいほど、今夜は暑い。眠れそうにないな、と俺は小さく呟いた。