11.もどき
なんて日だ。
家に着くなり俺の携帯電話が鳴る。知らない番号だったが、出てみると篝悠子だった。
「お前んちの、もう一つの爆弾。導火線に火が点いたかも知れん」
いま、あの妹は橋の上にいるらしい。そこから飛んでやるという電話がきた。あまりにも泣き喚いてうるさかったので、居場所だけ聞いて一方的に切った。
「お、お前、やっぱ悠子ちゃんと……」
「やってねえって、しつけえな。泣きそうになってんじゃねえ」
「じゃあ、なんで壮太の電話番号知ってんだ」
「お前の携帯でも盗み見たんじゃねえのか?」
え、という顔をして八千代は大人しくなった。
こいつの携帯には、家族以外だと俺しか登録されていなかった。もちろん俺は教えていない。輪をかけて気持ち悪いのは、登録だけして一度も電話やメールを発信していないことだ。メールの下書きフォルダに俺宛のメールがごっそり溜まっていたのを確認して、俺は内容も見ずに放り投げた。その携帯を見せてくれたのが妹の悠子だ。そりゃ、俺の番号くらい知っていてもおかしくはない。
「くそー。落ちたとき、携帯は壊れなかったのか」
口惜しそうにしている八千代を見て、まさか俺が妹とやったのどうので化けて出たのではないかと、少し不安になる。最悪、お祓いをしに行かなければなるまい。
「爺様が使ってそうなあの携帯、けっこう頑丈なんだな」
「かんたんフォンなめんな! スマートフォンがなんだい!」
八千代をからかいつつ、俺は制服から動きやすい私服に着替えた。八千代がガン見してくるのだが、もう慣れてしまった。
「壮太、ぜんぜん焦ってないな」
「爆弾つっても、最初から湿気てるから、あれ。たぶん放って置いても爆発なんてしねえよ」
あいつはきっと死ねやしない。たとえ、なにかで弾みがついて死んだとしても俺には関係ない。八千代のときのように、どうにかしたいとは思わない。ただイラつく。腹が立つのだ。だから、俺は自分の言いたいことを言いに行くだけだ。
「悠子ちゃんも押してあげる?」
「押さねえよ」
少し心配そうな八千代が意外だった。仲がいい姉妹だとは聞いていない。八千代は死に際、金輪際会いたくないとさえ言っていた。しかし、さすがに肉親となれば、少しは心配になるのかも知れない。
「お前は知らないだろうが、背中は押すほうも怖ぇんだぞ」
悩める誰かの背中を頑張れと押してやること。死にたがる誰かを屋上から落としてやること。俺にとってはどちらも等しく怖い。背中を押した俺の手が、そいつを地獄へ叩き落さないとは限らない。そうそう人の背など押せるものではないのだ。その点、八千代は実に押し甲斐があった。押した甲斐もあった。そのくらいでなければ、俺は誰の背中も押したくはない。
「そっか」
「あぁ。あんなやつ、俺は押してやらない」
よかった、と安堵した八千代は、ブレザーの胸元に手を置き、笑顔を浮かべる。非常に悪い顔だ。
「壮太が背負うのは、生涯あたしだけだから」
「うわ、超重いじゃないですかそれ……」
俺は、篝悠子がいるという橋を目指して、自転車をこいでいた。目指す橋まではまだ少し距離がある。眼下に神社を眺めつつ、土手の上を自転車で走り続ける。神社は真っ暗で人の気配はない。夜だというのに、しつこく鳴いているセミが一匹いるだけ。反対側の広い河川敷にも、人の気配はない。夜も遅くなり、歩行者と自転車しか通れない土手の上は、とても静かだった。
「わざわざ遠いとこまで行きやがって……」
「あの橋、すげえ高いからなあ。あたしも何度か行った」
隣町との境目には大きな河川がある。そこに架かる橋は長くて高い。そして、日中であればそれなりに車で混雑するが、夜も更けると街灯くらいしか見ているものはいなくなる。まさに、そういった事情に向いている場所ではあった。
俺が必死にペダルを回している後ろでは、幽霊が荷台に腰かけて口笛を吹いている。無理だとは分かっているが、おもわず手伝えと言いたくなってしまう。
「真っ暗だー。カエルうるせー。夜のドライブ楽しいなあ……」
「俺が言うのもなんだが、のん気だな」
まあね、と八千代は笑う。
「幽霊にならなかったら、こうして壮太の自転車に乗ることもなかった」
俺の腰に違和感がまとわりつく。どうやら八千代が腕をまわしたようだ。とくに気にせず、俺は橋を目指してペダルを回す。
「やっときたいこと、ほかになんかあるか?」
「心残りってやつ?」
「そう」
八千代は幽霊だ。ならば、この世のしがらみを断ち切れず、化けて出たのではないか。あのとき、すべてを断ち切ったと思っていたが、そうではなかったということだろうか。
「んー……。映画、観てみたいかも」
「おー、意外な回答。どんな?」
「ろくろ回すやつ」
「なんだそれ。タイトルは?」
「えー。タイトルとか知らんし」
まあ、なんでもいい。帰りにレンタルショップでも寄って好きなやつを選んでもらおう。遅くなった晩飯でも食いながら一緒に観ればいい。そうやって、ひとつひとつ潰していけばいい。そうすれば、いつか心残りに行き着いて、こいつは満足できるだろう。
ひとまずは、妹のほうに言いたいことを言ってやらねばならない。俺の気が治まらない。
「いたな、悠子ちゃん」
「あぁ……」
橋の中央あたりの欄干に腰をおろしている少女がいる。おそらく篝悠子だ。地元の中学校の制服を着ている。着たままなのか、改めて着たのかはしらないが、あの調子だと放って置いても補導されるだろう。
俺は橋のたもとで自転車を降り、息を整えながら広い歩道を歩いていく。息を切らせたまま行くなんてのは嫌だ。慌てて駆けつけたと思われたくないのだ。
やがて、向こうも俺に気が付いた。いままで腰かけていた欄干の上に立ち、街灯のポールにしがみ付いている。遠目から見ても脚がバカみたいに震えているのが分かり、「本当に飛び降りますよ! いいんですか!?」とでも言わんばかりだ。なんて腹立たしいのだろう。
「あー……、なるほど。いま分かった。死にたくないオーラすごいな。たしかにこれは放って置いてもよかったわ」
八千代が肩の上で話しているが、妹はもう目の前だ。さすがに会話をするわけにはいかない。俺は努めて妹にだけ意識を向けた。
「で、なにしてんの?」
自転車のスタンドを立てながら、ひどい仏頂面の妹に声をかけた。
「べつに……」
「お前、俺の写真集、八千代の部屋から持ってったろ?」
カッと妹の顔に紅が差す。気付かれているとは思ってもいなかった、そんな顔。
「コピーして、切り紙絵でも作んのか?」
「うるせえな! なにしに来たんだよ!」
まじで作ろうとしてたのかよ、と口をつきそうだったが、これ以上煽ると弾みがつきかねない。意地になって飛ばれたら、俺が押すのとそう変わらないことになる。
「お前が呼んだんだろ。で、なんで死にてえんだよ?」
ぱちぱちと明滅する電灯。待ってましたと喜んでいる妹の心情が表れているようで、イライラとしてくる。ときおり吹く風にも、妹はびくともせずにポールにしがみ付いてる。
「わたしには、お姉ちゃんの代わりになる人生しかないんだよ!」
「はぁ?」
八千代が至近距離でイラついた声を上げたので、俺は少しびっくりした。しかし、彼女は俺にしか見えないので、妹の怒声に驚いてしまったように見えただろう。
「なんでそう思うんだ」
「な、なんでって……!」
妹は絶句する。
「分かるでしょ……?! お姉ちゃんが死にたがってた理由、知ってるでしょ!」
「飯はうまいか?」
「はぁ?」
「お前のせいで晩飯まだなんだよ。お前は食ったのか、晩飯?」
妹は首肯する。意外と素直なので、ちょっと笑いそうになった。
「八千代はもう飯の味なんて感じてなかったよ。体重も、背の低いお前のほうがよほど重いだろうよ」
「うるせえな! 殺すぞ!」
死にたいのに殺すとは何事か。八千代が横から、「体重とか言うなよ」と耳打ちしてきた。「それであたしも蹴られた」
「お前は悠子だろ。八千代じゃない」
「だからなんだよ」
「真似してんじゃねえよ」
ぐしゃっと悠子の顔が歪む。自分でも驚くくらい冷たい声だった。そんな俺の剣幕に驚いたのか、なんなのか、みるみると悠子は涙をためていく。
「死にてえならテメー勝手に死ね。八千代に乗っかってんじゃねえよクソが」
「べ、べつに――!」
俺が身動ぎしただけで、「来るな!」と悠子は震えだす。がくがくと脚が震えていて、まるで人殺しであるかのように俺を見ている。正解ではあったが、こいつにとっては不正解だ。
「そうやってお姉ちゃんも突き落としたのか?」
悠子が立っている欄干の向こうは真っ黒な世界だ。かすかに川の音が聞こえる。この橋はそうとうな高さで、川の流れも速い。川べりで釣りをしていた人が、毎年のように流されて死んでいる。落ちればまず助からないだろう。
「突き落としてなんかない。あいつはテメー勝手に死んだだけだ」
そう言って、俺はゆっくりと欄干に近づいていった。悠子はしゃくり上げながらこちらを見下ろしている。俺の怒りはだいぶ治まってきていて、欄干に両腕を載せて溜息をついた。
「お前を突き落とすつもりもない」
八千代はそんな顔で泣いたり喚いたりしなかった。いざ死ねるとなったとき、穏やかな顔で安堵していた。
「お前じゃ、八千代の代わりにはならねえよ。だから、あいつの真似なんてやめろ」
そう言い吐き捨てて、俺は立ち去ろうとした。八千代にとてもよく似た、違う顔。どうやったって同じ人間にはなれやしない。
「待って!」
悠子は不満そうに俺を睨んでいた。怒鳴ったり泣いたり睨んだり、忙しいやつだ。
「待てと言われてもな……。俺の用はもう済んだし」
「ふざけ――っ!」
濃紺の生地が、俺の眼前で舞い上がった。強い風が悠子のスカートを引っくり返したのだ。
慌ててスカートを押さえた悠子は、ぐらっとバランスを崩す。俺は咄嗟にその腕を掴んで、どうにか歩道側に引き寄せた。
「危ねえな」
悠子は俺の足元にへたり込み、呆然としていた。
「まじか。なんか可愛いプリントしてあったな。猫さんかな。小学生のときはいてたやつだろ。ひでえな」
八千代が素早く下着の分析と罵倒を始めた。
「まあ、色気のねえ下着ではあるな。可愛くていいんじゃないでしょうか」
いつものノリで、八千代に同意するように本音を口にしてしまった。悠子は真顔で、完全に血の気の引いた顔色をしていた。信じられないものに遭遇した、そんな顔で俺を凝視している。
「洗濯が間に合わなかったんです」
「そ、そうなんだ……」
なにやらひどく落ち着いた声で弁明を口にした悠子は、無言で自分の自転車をこいで、あっという間に遠ざかってしまった。
「ねえよ。いくらなんでも直球すぎるだろ、壮太」
「い、いや……まあ、そうだな。いまのは俺が悪い」
「ちなみに、あたしがはいてたのは壮太との尋常ならざる瞬間のために、ずっと前から買っておいたやつな。普段は悠子ちゃんよりヒドイ」
でも猫さんパンツって、と八千代は大笑いしている。
「俺、ちょっと死にたい……」