10.代替少年
ベンチの真後ろ。一階の廊下。その開かれた窓から顔を出したのは、笠井だった。俺の好きな国語の教師だ。
「やっぱり、深雪か……」
笠井の言ったその言葉は、どこか妙なニュアンスをもっていた。そこにいたのは深雪だったのか、というものではない。どちらかといえば、なにかしらの行為に対し、やったのは深雪だったのか、というようなニュアンスを含んでいるように思えた。場所が場所だけに、過敏になっているのだけかも知れない。
「こんばんは、先生」
「こんな時間にどうした?」
気が付けば、ずいぶんと長く裏庭にいた。帰宅部である俺が学校にいると、不審に思われてしまうような時間だ。
「いや、なんとなく、ぼうっとしたくて……」
ひどく苦しい言い訳だった。そして、俺は咄嗟に付け加える。
「宿題のプリント、忘れちゃって。取りに来たついでに、ここでぼんやりしてました」
嫌な汗がびっしりと浮かんでいた。
「そうか……。大丈夫か?」
笠井はそう尋ねて、あのシミに目を移した。他意はないように思えた。おもわず、といった感じだ。
「はい。きっと、すぐに忘れられます」
「まじかー。呪うぞおらー」
八千代の残念がる声が耳に届く。
「分かった。しつこいようだが、無理はするなよ。聞くだけなら聞けるから」
「はい。ありがとうございます」
「協力者。屋上に行けたのは笠井先生のおかげ」
このタイミングで、八千代がとんでもないことをそっと耳打ちしてきた。
「ところで、深雪――」
「はい?」
八千代のほうに意識を向けすぎて、声が上ずってしまった。
「先生、このあたりで屋上の鍵を失くしちゃったんだ。知らないか?」
緊張に喉が鳴る。八千代も息を呑んだ気配。あの日使った窓から顔を出して、消火器が設置されている方向を指差している。これは、「八千代を屋上から突き落としたか?」と聞かれているようなものだ。
「……それ、無いと困りますか?」
どちらとも、俺は答えなかった。その返答に、わずかながら笠井の目が驚きに開いた気がした。
「いや……。もういいんだ。気にしなくていい。私にできなかったことを、誰かが代わりにやってくれたようだ。ありがとう」
最後の“ありがとう”は、どっちに対してのお礼なのか。鍵探しの質問に時間を割いてくれたことか、それとも、“代わりにやってくれた”ことに対してなのか。
「いえ」
とだけ答え、笠井がその場から立ち去るまで、俺はずっと頭を下げ続けていた。
「すげえタイミングで現れたな、あの先生」
八千代は廊下の奥を覗き込むようにして言った。
「ホントだよ。もしかして、様子見られてたか……」
俺は背後から感じた視線を思い出していた。もし見られていたのだとしたら、ひとりで喋る俺はそうとう参ってみえただろう。急に泣き出したり、笑い転げたりと、我ながらひどい有様だ。
「気を付けろよー。気持ち悪いやつだと思われてイジメられんぞ」
「わかった。これからはすべて無視する」
「イジメかよ」
ベンチに座りなおし、俺は足を投げ出した。妙な緊張感で、どっと疲れてしまった。
「先生、お前のこと知ってたんだな」
「うん。聞くだけなら聞けるっていうから、全部話した。あ、壮太の名前は出さなかったぞ。エライだろ」
「出したら話が脱線しそうだもんな」
ストーカー行為の成果を熱く語る八千代を思い出し、苦笑いしかこぼれなかった。
「でも、まさか協力してくれるとは思わなかったわ」
「あの先生は変わってるからな」
だから俺は好きなんだけどな、と笑うと、八千代も同意するように笑った。
「すぐに、家庭訪問するって言い出したしな」
「まじか……」
八千代の部屋の惨状を思い出し、俺はまた変な汗をかき始めた。一部の教師はストーカーの事実を知っているが、さすがにあれを直接見られるのは少しこたえる。
「ダイジョブだって、さすがに部屋には入れてない。親と話してすぐ帰ったよ」
「それで……、お前に協力してくれることになった?」
「うん。『屋上の鍵は先生が管理しているので、使用したくなったら言いなさい。先生はそこまでしかできません』って」
八千代の話を聞き、その親に会い、まっとうには救えないと判断したのか。親を糾弾したり、引き離そうとしても、八千代は生きている限り両親をかばい続けるだろう。それなら、彼女の望みを叶えてあげよう、そのために少しでも背中を押してやろう。俺より大人である笠井ですらそう思ったのだ。俺としてはとても喜ばしいことだった。もっとも、笠井が一般的な大人の部類に入るかどうかは分からない。
「教師がそこまでしてくれんのか、って思うよなフツー」
笠井を煙たがる教師や生徒がいるのもまた事実だ。尖れば強いが誰かに刺さる。
「まったくだな。ありがてぇ先生だよー。あの先生に救われた人、あたし以外にもいっぱいいそうだ。警察にチクったら駄目だからな、壮太」
「そんなことしねえよ」
「壮太もだからな」
「どういう意味?」
釘を刺すような台詞。珍しく真剣な雰囲気の八千代に驚く。怒りに近いような顔で俺を睨んでいた。薄い眉がつり上がっていて、非常に怖い。
「自首とかすんなよ」
「そういう意味か」
正直、それは何度か考えた。だから、俺は屋上の鍵など隠し持っていたのだ。しかし、八千代が望み、俺が叶えたことは、罪になるのだろうか。法の上ではもちろん罪になるだろう。ならば、法の埒外であればどうだ。罪と罰は誰が、あるいは何が決めるのだろう。宗教だろうか。しかし、とくに信心深いわけでもない俺にとって、あれはあれで大雑把に言えば法と変わらない。
法でもない。宗教でもない。やはり、道徳、倫理といった類のものだろう。内罰的な意識が、俺を殺そうとするかのように、責め立て続けていたのだ。
だが、俺は俺の罪を認めない。
「おい、壮太!」
「大丈夫だ」
俺は悔やまない。間違っていたかも知れないと、不安に駆られることもない。八千代という人間を殺してしまった罪悪感に、これからもずっと苛まれ続けたとしても、永遠に耐え切ってみせる。なにより、死んだ本人が俺の前で死んだ甲斐を見せてくれた。もし、これから誰かに責められることになっても、俺は絶対に罪を認めない。俺が幽霊を否定できるわけがない。
「自首なんてしねえから。安心しろ。幽霊がこの世の心配してんじゃねえよ」
「いやいや、幽霊だからだろ。この世になんかあるから幽霊になるんだろうが」
と、自分で言って、八千代はきょとんとした顔になる。
「あれ? あたし、なんで幽霊になってんの?」
「お前まじか……」
少なくとも、自分の死の真相を確かめる、なんてものではなかったようだ。もしそうなら、八千代はとっくに帰るべき場所に帰っているはずだ。
「とりあえず、帰ってから考えよう」
腹も減ったしな、と俺はベンチから立ち上がった。
「うん、そうしよー。今日の晩ご飯はなんですかねー!」
「お前の分なんてねえから」
「どうせ分けてくれるくせに」