1.嘔吐
よう、ってな具合に、死人がそこにいた。
うちのマンションの入り口で、ちょこんと地べたに座っている制服姿の女。そいつは、スカートを押さえていた腕を片方だけ上げて、本当に――、
「よう」
と喋った。
俺は震えをともなった深呼吸をする。そして、ゆっくりと空を仰いだ。
「こんにちは」
晴天を真っ二つに切り裂いて、飛行機雲が進んでいく。その騒音がいまは心地よかった。
「おーい。ひさしぶり。無視すんなよー。相変わらずお前は……。お前は……誰だっけ?」
ジェットの轟音が遠雷のように続いている。俺はまぶたを硬く閉じ、目を刺すような青色を視界から締め出した。真夏の日差しは、見上げ続けているには当たりが強すぎる。
「みゆき?」
俺の名を呼ぶ声。
今度は、両手で耳をふさいだ。頭皮を伝ってきた汗が妙に冷ややかだった。
「お、聞こえてるな? みゆき。みゆきー。無視すんなよ――」
み ゆ き
と、塞いだはずの耳の中へ、その女の声は届いた。俺の両手から発せられたのかと思うほど、声は間近に感じられた。
たまらず、俺は塞ぎ込んだ世界から飛び出して、アスファルトを猛烈に蹴り出した。
がちがちと歯が鳴り、脚がもつれそうになる。鬱陶しい日差しも、焼けたアスファルトの照り返しも、いまは感じない。ただうそ寒い感覚が、ずっと俺の背中を凍らせていた。それを振り払うため、陽炎に追いつきそうなほど走った。すべては熱にやられた幻だと、そう決め付けて、走り続けた。
やめて。
ぶるっと全身が脈打ち、転びそうになる。
振り返ってみても、人の姿は見えない。曲がってきた角の住宅、その陰から、いまにもあの女が現れそうだった。気味の悪い雰囲気だけが、凄まじい速度で俺を追ってきているかのようだ。
幽霊など信じたくはないが、あの手合いは、恨めしやと相場が決まっている。足を止めたら最後、俺は呪い殺されるだろう。
やめろ。
また、聞こえた。間近で、女の苦しそうな悲鳴が俺の頭に響いた。痙攣のような動きで、自分の両耳をはたく。まとわりつく羽虫を追い払うみたいに、舞い上がった埃を払うみたいに、絡んで取れない悲鳴を毟ろうとした。
やめて。やめて。やめてやめて。
どんどん加速していく呪わしい言葉。いまにも、俺の肩に女の幽霊がまとわりついてきそうで、小さく悲鳴がもれる。
みゆき。みゆき。みゆきみゆき。
俺はおもわず叫んだ。恐怖の迸り。どうしても抑えられない腹の底から上がってきた絶叫。
白昼の町なか、奇声を発する異常ぶりを省みる余裕もない。俺はもつれる脚を前へ運び続けた。通り過ぎたコンビニの裏手。パニックになりかけていた俺は、側溝に足元を掬われる。売り地の立て看板にタックルを試みるようにして、派手にすっ転んだ。
低いうめき声が尾を引くように迫ってきていた。俺を殺そうとしているような女の呪詛。
ふと、目の前が翳る。アホくさいほど晴れ渡った空も、憎たらしいほど暑苦しい太陽も、すべて見えているのに、俺の視界が翳った。
「み、みゆきぃ……」
右肩への激痛と共に、今度こそ本当に目の前が遮られ、俺を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
「く、来るな!」
恐怖は頂点に達していた。あの女――八千代の蒼白になった顔が、倒れた俺を覗き込んでいる。八千代は、その全体重をもって俺にのしかかってきた。そして――、
「お、ぉえぇぇぇぇぇ……」
あの日、死んだはずの女。火葬にされ、骨になり、墓に入れられたはずの女。恋人だったその女は、いま俺の耳元にゲロを吐きかけている。げぇげぇと、えずいていた。
鼻水と涙をほとばしらせ、八千代は恨めしそうな視線を俺に向ける。
「なんで……。やめろって言ったのに……」
重なった八千代の肌は冷たく、顔に触れる黒いショートカットも、どこか冷やりとしていて涼しかった。
空を裂いていた白線は端っこが少し滲んでいて、ジェット機の轟音はもう聞こえない。
土の上に引っくり返っている俺に、八千代が覆いかぶさっている。ゲロを撒き散らして号泣する死んだはずの女。全力で喚き散らすセミの羽音が、八千代の存在をかき消してはくれないかと望んだものの、げぇげぇと再び俺の耳元で八千代は吐き始めた。
「あ゛ー、あ゛ー……ぎもぢわるいよぉー」
「死んでるくせに、なに食えばそんなことになるんだよ」
「あー……! やっぱ、あたしのこと知ってるな? なあ、みゆき。知ってるんだろ?」
俺は暑さで参っている。狂ってしまった。いやそれにしてもひどい幻覚だ。そんな、淡い希望を抱き、俺はもう一度まぶたを閉じる。
「寝るなあ、みゆぎぃ……うぇっ!」
顔面に、ゲロを噴きかけられた。
「……つめてえんだよ」
その冷たい吐瀉物は、蒸発するようにみるみる舞い上がって空中で消えた。
暑さで頭がおかしくなって、神経もどこかおかしくなって、冷たいと感じたいがために俺の脳は幻覚を見せている。
そうだ。そういうことだ。
まったくもって、そういうことではなかった。それから数日経っても、俺の現実はイカれっぱなしだった。