三話 高いとこ走る
一緒に走るから降ろしてくれとと提案した。今、手首を思い切り握られながら走っている。これはこれでものすごく恥ずかしい。あと走りにくい。若干なぜ手じゃなくて手首を握られたのか気になるが、それこそ放せババアとかあばれることが出来たかも知れないのに。
泣きわめく夏目の声を後ろに聞きながら、冬原はというと口元がにやけている女性のことが凄く気になっていた。
冬原が光を遮るサングラスをじっと見つめていることに気付いた女性は口元を引きつらせた後、片手で隠すように口を押さえた。
「おばさん、何考えてるのさ」
ぴくりと反応があって、口を隠していた手が外れた。
「あたしまだ二十代だってば」
それも前半だしと半分隠された顔には不機嫌が宿っていた。
後ろで鼻で笑うのが聞こえた。
「シュウ! なにわらってんの」
吠えるような声に三人担いでいるにもかかわらずまだまだ余裕の有りそうな朗らかな笑顔が返される。
「どうせ老け顔よ」
「泣くな。中学生にしてみれば年上はみんなおばさんだ」
男の言葉が全然フォローになっていないことは手首の痛みが冬原に教えてくれた。
冬原の手は少し前を進む女性に乱暴に引かれ、そのままの勢いで角を曲がる。
「おいおい、その道は作戦と違うぞ」
首を伸ばして後ろの巨漢が尋ねる。それでも足は止めない。
「バカねアンタ、その頭は何を記憶しているの?」
後ろの巨漢に罵倒を浴びせながら女は目前のはしごを登るように冬原に指示をした。先に登ると真下で彼女は一段足をかけたまま、遠くへ走っていったパートナーの男に対し叫び声を上げる。
「アンタはどうぞ、作戦通りに進んで。サポートするわ」
返事を待つことなくスーツ姿にも影響を受けない軽やかな足取りはペンペンペンとはしごを登る。途中から高さのあまり動きの鈍っていた冬原を叱咤する。
登り切った先は廊下に沿っておかれていた背の高いロッカーの上部分だった。掃除ロッカーと比べれば三倍は広そうだし丈夫そうだが、中が空洞のせいで足音は響くし、二人で一つの区域に乗ると踏み破れそうで怖い。
天井にかろうじて手が着くのでそれを頼りに立っている様な状態だ。
硬直している冬原の周りをぱたぱたと小走りで走る。
彼女が踏み抜いたりしないか内心怖がっていたが、そんな冬原の不安は彼女の体重を感じさせない軽やかな足取りとともにいつのまにかどこかへ飛んでいた。
数ブロック進んでいた彼女は腰元から何かを取りだし天井へ向ける。何カ所かで細かい作業を終えると、天井に四角い穴が開いた。
「早くこっちへ来な」
ぽいっと廊下へ天井の一部だった鉄板を捨てる。
足を使わずとも胸元から飛び上がるような豪快な落下衝突音に気を取られている間に、目の前にいた女の姿が消えていた。
見間違いかと目をこすってから再度前方を見る、今度は天井から手が一本生えてきた。
ワンテンポ遅れてバサッと長い髪が垂れ下がってくる。
このときばかりは彼女の長いポニーテールを恨んだ。
どうやら鉄板を投げてから落ちるまでの一瞬で彼女は天井裏に姿を消していたようだ。その身体能力に今ひとつ納得行かない冬原は、天井に手をつきながらこわごわ先を行く。
「いました。上ですよ」
はるか下方から声が上がる。見ると大勢の足音が響いてきた。金属がこすれる音が非常に不快だ。
「見つかったじゃない、何してるの、早く」
お言葉だが、見つかったのは彼女のせいだ。
焦っても進む速度は変わらない。むしろ怖すぎて立っているのも辛い。このまま腰を折り足下に手を置いたら最期、二度と立ち上がれない気がする。
さっき足元を見たせいで正直動けない。高いのだ、ここは。狭いのだ、ここは。
ひいいと情けない声を上げている間に敵は手持ちの武器をこちらに向ける。
猟銃よりはコンパクトな筒が一斉に冬原を向いた。
とっさに壁際にしゃがみ込む。
もうやだ動けない。放っておいてくれ。
「バカ!」
罵倒が聞こえる。手は一度引っ込んでいた。
下からの連打が止まる。
「装填の隙よ。今しかない早く」
僕の目はまっすぐ天井に開いた穴をとらえた。
片膝が持ち上がる。そのままの姿勢から、右足を踏み切り、ただ彼女の元へ。
「……と、届かない」
いや、正確には届いている。
穴の真下に立ち、天井には手は届いている。
問題は、腕の力が足りない。
身体が持ち上がらない。
やめてくれ、体育の授業で一度も懸垂が出来ず三分間ぶら下がった嫌な記憶を呼び出すのは
手から力が抜ける。
下方を見ると、再度砲筒がこちらを向いていた。
誰か、助けてくれ。
目をつぶると、変な浮遊感を味わった。
死の瞬間って意外と悪くないと思ったところで、それが死とは全然関係ないことに気付いた。
両肩が引っ張られている。
「まーったく、世話の焼ける」
そのままずるずるっと引き上げられていく。
されるがままに、天井裏に腰を下ろした。
「重たいなあ、もう」
ぺんぺんと跳弾が鉄板を叩く。
それが先ほどまで自分に襲いかかろうとしていた凶器だと言うことがひどく他人事に見えた。