7.昼餐会
ギィと油の足らない鈍い音を立てて開けられた扉は、レーンディアの血を継ぐ者にしか立ち入ることを許されない部屋であった。
それは当主の私室の隠し扉から下に降りた地下室である。
敢えて明かりを少なめにされた部屋は小さな明かりが所々揺らめいて、視界を遮る。
後ろ手に閉められた扉は、重たい施錠音を鳴らして閉まった。
一度入れば、レーンディアの許可なしには抜け出せない牢獄。
そこには世界を手に出来るほどの莫大な財産が隠されている。
それが知らずの内に広まった噂であったが、実際にその部屋はレーンディアの屋敷に設けられた部屋の中で一番狭く、あるのは古びた木製のデスクと椅子、今にも崩れてしまいそうな埃の被った本棚であった。
金の一欠片も見当たらない部屋であるが、その噂はあながち嘘ではない。
その本棚にある書物の全ては、世界を動かす大金が手に入るレーンディアの心臓とも言える情報であったからだ。
その心臓を守るように鎮座する男はレーンディアの当主である。
揺らめく光に金髪がチカチカと光り、闇の中で赤い目が獰猛な獣のように底光りしている。
レーンディアの現当主――ウェーシュの前へと参上した男、レーンディア家嫡男のシスルは、つい先程前の父親に呼ばれて、出来れば赴きたくないこの部屋へと重い足を運ばせたのだ。
「急に呼び出してすまないな」
近寄りがたいほどの威厳を放つ体躯からは想像もつかない優しく慈愛の籠った声は、いつ聞いても言い知れない違和感を感じさせ、それは常に何かしらの恐怖と結びつかせていた。
一つ間違えれば、父の慈愛の籠った声色で命の宣告を付きつけられるような、そんな恐怖だ。
アヴェルヌスを統治する当主として、自分の父として、前の男は常に自分では到底到達出来ない位置に君臨するシスルにとっては絶対的な存在であったのだ。
だから、彼はウェーシュに甘えた覚えなど一度もなかった。
「いえ。何故、この部屋に私を・・・?」
その声はとても控えめだ。
シスルからの問いが予想外だったのか、ウェーシュは赤い目を瞬かせた後に何かを考える風に瞑目した。
荘厳にも取れる沈黙の中、シスルは息すらもまともに吸えないような緊張を余儀なくされ、ふとウェーシュは思い出したかのように、瞑目したまま口を開いた。
「そんな愚かなお前でもないだろう・・・シスル」
足される、否。強調するように呼ばれた名前にシスルは身を強張らせたが、はっきりと言葉の意味は理解していた。
父とこうして一体一で話すことはさして珍しくもなんともない。
しかし状況はクロエの屋敷滞在で大きく分かっている。
ウェーシュが父として、アヴェルヌスの統治者として‘取るべき選択’はただ一つしかないことも、シスルは重々承知であった。
答えないシスルにウェーシュは老いた細い両足で頼りなく立ち上がると、そっとシスルの傍へと歩み寄る。
一瞬反射的に身を引くか、膝をつくかという選択が脳裏に過ったシスルだが、ウェーシュの纏う雰囲気がいつもと違うのを察して、一歩下がろうとした右足をどうにかその場に留めることに成功する。
その様子に気がついたウェーシュは、目尻を下げて悲しげな表情を露わにした。
途端、シスルの脳は思考することを放棄した。
何故ならば、父のそんな表情をこの32年間一度も見たことがなかったからである。
前の年老いた男は、常に自分にとって絶対的存在であった。今のこの瞬間までは・・・
シスルは32年という歳月を経て、やっと一つのことを理解したのだ。
――そうだ、アヴェルヌスの統治者も一人のちっぽけな人間なんだ。
知らずの内に床に落とされていた視線に、皺が多くなった固そうな手が映る。
シスルは自分でも知らずの内にその手をそっと取っていた。
開かれた手の平は、剣だこが出来ていてゴツゴツしている。そんな手すら威厳の一つであったのに、今はこんなにも頼りなく映るのは何故なのか。
そっと顔を上げた先には自分より低くなった頭があった。
こんなに間近で父を見たのは随分と久しく、その容貌には昔の面影はあまり残っていない。
シスルの取っていた手とは反対の手が彼の頬へと伸びては、少しだけ掠めるだけで触れはしなかった。
それは躊躇からであったのか。
ウェーシュは依然として悲しみを帯びた表情のまま、絞り出すように言った。
「すまない。こんな選択しか出来ない父を許してくれ」
シスルは唇を噛んで、先ほど掠めた手を取ると、そっと頬に充てた。
やはりゴツゴツしてはいたが、生まれて初めて父の愛を直に触れたような気がした。
ウェーシュは取られた手を握り返すだけで、それ以上は何を言うではなく、まるで沈黙が謝罪の代わりだというように黙り続けた。
随分と静寂に包まれた錯覚があった。
しかし小さな明かりと一緒に揺らめく蝋燭を見るに、それほど長い時間でもなかった筈だ。
ほんの数分。それがまるで彼の人生に匹敵するようにも感じられる沈黙であった。
シスルは揺らめく蝋燭を見つめて、意を決したようにウェーシュの手を離した。
「御命令ください、父上」
慣れた動作で片膝をついて、命令を請う。
それが彼のけじめであり、2人の本来の在り方でもあった。
そのシスルを見下ろしたウェーシュは一瞬だけ悲しみに口元を歪ませるが、小さな嘆息と短い瞑目の後には、レーンディア当主の威厳を纏っていた。
「シスル・レーンディアに私からの最大にして最後の命令を言い渡す」
シスルは頭を垂れたまま、既に知っていた命令を噛みしめた。
「御意」
短くも敬愛の籠った答えを返すシスルにウェーシュは腰に下げていた剣をシスルに差し出す。
頭を垂れたままその剣を両手で受け取り、「下がれ」とのウェーシュの言葉に応じて無駄な動き一つないように心がけながら、その部屋を後にする。
その部屋に残ったのは、ただ立ちつくすウェーシュとシスルが右手に持って出た剣の鈍い輝きの余韻だけであった。
セキの予想が全て的を得ていたのは彼自身にも既に理解出来ていた。
レーンディア現当主のウェーシュとその妻の正式な子供が嫡男シスルであり、ウェーシュとの薄い血の繋がりを持ったロゼは養子としてレーンディア家へと入ることになった。
クロエに至っては妾の子であり、母が誰なのかはっきりしていないらしい。
クロエの母の正体、現状でそれを知ってるのはウェーシュだけであり、クロエ自身もそれを知りたいとは思ったことはないという。
同じ父の血を受け継いでいるからか、シスルとクロエは見た目も感じさせる雰囲気も良く似ていた。
しかし見た目に至っては当主ウェーシュに酷似したのは養子のロゼの方であった。
レーンディア家は黒髪が多い家系らしいが、ウェーシュはその中でも特例なのだということをセキは今さっき知ったばかりである。
今まさに始まったばかりの昼餐会で。
ちらりと遠目にウェーシュを見た時に思った疑問を全てフランクにぶつけて解決したセキは、慣れない雰囲気に内心は吐き気がするほど緊張していた。
ただでさえ沸点の低いクロエと顔を合わせる毎日は心臓に悪いというのに、そのクロエを育てた父親となれば、緊張せずにはいられない。
それに加え、アヴェルヌスを治めるレーンディアの当主である。
確かに世界の鍵という揺るぎない地位を獲得したセキは、現状では怖いものなしではあるが、やはり庶民育ちには荷が勝ち過ぎているのも事実であった。
まるで御もてなしのために作られたようなだだっ広い部屋には、今から結婚式でもするのかというほどの高そうなクロスが敷かれた円卓が数多く並び、その上には豪華な料理が控えめに、しかし食べきれないであろう量が並んでいる。
昼餐会と言っても、その部屋にいる面々は昨日とさして変わらない。
セキを含めた13部とロゼにシスルと各々の従者に、遠くから見えるウェーシュと側近らしき2人。
彼の奥様は体調が芳しくないために欠席することはフランクから聞いていたため。
合わせて約10名ほどである。
これならば、普通にテーブルを囲んで話せばいいと思うセキではあったが、想像してみるとそれもそれで気まずいことに変わりはない。
隣に控えてくれているフランクのお陰で少しは心強いセキの視界にふと、ピンクのドレスが映った。
ミルキーや、メイドならば何も訝る必要はないが、それが見えた位置からするにとても幼い子供が着るようなものである。
しかしすぐに部屋の外へと消えてしまった影にセキは緩やかに首を傾げて、フランクに尋ねようとした所、前からウェーシュが歩み寄ってきた。
咄嗟に小さく頭を下げる。
穏和な表情で微笑みを湛えながら深く礼をしたレーンディア当主。
セキはもう一度小さくお辞儀をすると、フランクも隣で執事のように胸に手を充て、頭を下げる。
「お初にお目にかかります。セキ様。
私はウェーシュ・レーンディア。レーンディア家の当主でございます。
我が三男がお世話になっているようで・・・」
その語調は淡々としていて、媚びるような声色では全くなかった。
どちらかといえば、社交界デビューを果たした新人貴族のお手並みを拝見しに来たようにも窺える。
シスルやロゼの対応とは違うそれに、セキは拍子抜けしながらも慣れない笑顔を作って応えた。
「こちらこそお世話になってます。セキと申します」
少しでもボロを出さないようになるべく短く言ったセキに、ウェーシュはとある席へと勧めた。
どうやら少し話がしたいようである彼にセキは断る理由もなく、またその術を知らずにそのまま勧められた椅子へと腰を降ろした。
使用人は真っ赤なワインを各々の前のグラスへと注ぐ。
ウェーシュはそっとグラスを持ちあげると、乾杯を促す様にセキを見たため、彼もそれに倣うように持ちあげては、ワイングラスを傾けると綺麗な反響音が響いた。
「遥々我が屋敷へご足労頂き光栄でございます。
もう慣れましたかな?この世界には・・・」
「あっ、はい」
一口嗜んだウェーシュに、セキはワインに一口もつけずにテーブルへとグラスを置いて答える。
緊張丸出しの声色にウェーシュは小さな苦笑を洩らすと「緊張なさらずに気軽にお話ください」と気を使った。
セキは少しばかり赤面するが、その気遣いに甘えていつも通りに話すことにした。
ロゼやシスルに言ったのと同じく、ウェーシュにも普通に接してほしいという要求に心良く頷き、他愛のない話を選びながらも気を使わせないように、話を展開していくウェーシュを見ながらセキは一方で感心していた。
話す度、除々に緊張が解けて行き、随分と気軽に話せるようになった時、ウェーシュはそっと使用人に目配せした。
セキはそれに気が付きながらも、敢えて言及はせずに少しばかり首を傾げるだけであったが、すぐにウェーシュの意図を理解出来た。
使用人がワイングラスを下げて、葡萄色の液体が並々に入ったワイングラスをセキの前へと置いたのだ。
「ワインは苦手だったかな?それなら飲みやすい筈なのだが・・・」
あまり乗り気にはなれないセキではあったが、せっかくのウェーシュの配慮なのでグラスに軽く口を付けて見た。
すると予想外の味が舌を刺激する。
濃厚な葡萄のジュースに炭酸を割ったような飲みやすい味にほんの少しだけアルコールの味がする。
驚いてウェーシュを見やると、彼は依然として穏やかな笑みを浮かべた。
それはとても居心地の良い微笑みで、まるで祖父とでも話しているかのような感じにも似ている。
(お祖父ちゃん・・・か・・・)
記憶にはない祖父のことを想い浮かべてみた。
漠然とした記憶から何故か似てると感じとったということは、祖父とは仲が良かったのかも知れない。
「セキ君」
「セキでいいですよ、ウェーシュさん」
ふと考えを巡らせていたウェーシュからの呼びかけに対して、セキは穏やかに答えた。
元来、距離を置いたような呼び方があまり好きではないために、セキは色んな人とそうして仲良くなってはきたが、やはりウェーシュに対してのそれは無謀であったか。
言った端から自分の言葉を検閲してしまう癖があるセキは、そっとウェーシュの表情を窺うように一瞥した。
覗き見する筈ががっちりと彼と目が合ってしまい、瞳に驚きの色を露わにしてしまう。
そんなセキの心情がバレバレなのか、ウェーシュは失笑のような笑みを浮かべるとゆっくりと頷いた。
「セキ、と呼ばせてもらおう」
「あっ、はい」
まさかの答えにセキは驚きと歓喜を混ぜて頷くと、ウェーシュは満足そうに頷き返した後、表情を除々に変えて行った。
どこか思いつめたような表情である。
セキは小首を傾げるが、問いかけを投げる前にウェーシュがゆっくり尋ねた。
「セキに・・・クロエはどう見えるかね?」
「クロエ、ですか・・・?」
親としてクロエが13部でどうしているのか、気になるのだろうか。
確かめるように返すと、ウェーシュは目尻を下げて彼を見つめ「セキの意見を正直に教えてくれればいいんだが・・・」と付け足した。
正直に。それはウェーシュの求めるものならば、セキはそれに応えなければいけない。
意を決したように一度瞑目し、息を吸い込む。目を開くと偶然ウェーシュの遠く後方にいたクロエと目が合ったが、セキは吸い込んだ息の勢いに任せて一気に話し始めた。
「最初の印象はもう、最悪でしたね!いきなり睨んでくるし・・・あ~、こいつとは絶対仲良くなれないって思いましたもん。
この寛大なセキさんに初対面でそこまで思わせるやつなんて、初めて!もうギネス級みたいな。
それにいつも自分勝手だし、機嫌良い時なんて見たことないし八つ当たりはするわ、自分は勝手きままにしてるくせに、俺がちょっとどっかいなくなるとすぐに怒鳴るわ。
味覚障害かよってくらいに甘党だし、好き嫌い多いし、でもなんでか後輩とか女性構成員には好かれてるのが納得いかないんだけど・・・
とにかく世界が自分中心に回っていればいい!って思ってる勘違い野郎です!」
一息で言いきったセキの息は、100m走を全力疾走した並に切れていた。
ウェーシュは呆気に取られていたため息が整う間くらいの間は沈黙が守られるが、ウェーシュが反応を口にする前に、セキは整いだした息でゆっくりと続けた。
「ちょっと言い過ぎたかもしれませんけど・・・俺だって人のこと言えるほど出来てないし。悪口言えって言われれば、クロエの場合は限りなく出てきますけど。
でも・・・クロエ(あいつ)は顔面険悪だけど、結構人のことちゃんと見てて色んなことに的確に指摘してくれるんです。
それが後輩に人気ある理由かなぁって思ってみたりもするし・・・
仕事に対しては凄く真面目で責任感あって。一回、13部とは全然関係ない班のミスだったのに、クロエは自分から補佐を買って出て徹夜で仕事に取り組んでたこともあったし。
悪いやつじゃないってことは皆、ちゃんと分かってると思います。
ただ、ちょっと自分の感情に素直すぎるって言うか・・・言いかえれば我が儘なんだけど・・・。
優しい面も頼りになる面も十分あるんです。
最初から最後まで含めて、これが俺の本音」
セキはゆっくりと紡いだ言葉に、両の手の平を上にして肩を竦める。
自慢するようにも、恥ずかしそうにも取れる動作とその表情に、ウェーシュは目を瞬かせた。
セキはまだ続ける。
「だから、クロエのことは心配ないと思います。
俺が口を挟めることじゃないけど後を継がせることに躊躇いがあるなら、それはもう何の心配もないと思いますよ。
クロエにはフランクって優秀な友人もいますし・・・」
そう言って、やっと口を閉じた。
するとウェーシュは思わず笑いを零したように、小さく口の中で幾度が笑った。
セキはそんな様子のウェーシュに首を傾げる。
正直な感想と意見と述べただけなのだが、何か笑えることでもあったのか。
さすがにクロエを馬鹿にしすぎただろうか。
小さな不安とは裏腹に、ウェーシュの表情は何かが吹っ切れたような澄みきった表情をしていた。
「ありがとう、セキ。
ミルキーにも昨日言われたんだよ。どうやら私は少し過保護過ぎたようだ」
納得を思わせる微笑みを湛えて、ウェーシュは後ろにいるクロエへと呼びかけた。
セキは今になってクロエの存在に気が付き、ハッと後ろを向いて目を逸らすとそこには腹を抱えて笑っているフランクがいた。
「いや・・・お前、最高・・・」
セキの座る椅子を掴んで抑えきれない笑いに耐えながら「腹が・・・つる・・・」と訴えるフランクを無視して、セキはもう近くにいるだろうクロエのいる方へと、恐る恐る振り返る。
それはおそらく、油の足らない機械のような動きだったに違いない。
そこには不満そうな表情を浮かべながらも、決して怒ってはいないクロエがいた。
セキは一度合った視線と咄嗟に右下へと逸らし、再びチラリと垣間見る。
すると勿論のように再びかち合った視線であったが、再び逸らすのは躊躇われた。
仕方なく苦しい弁解を述べようとしたところウェーシュの咳払いが突如、介入する。
クロエはそれが合図と取ったかのようにセキとウェーシュの間へと移動すると、その場に膝を折る。
さすがのあのクロエでも自発的に当主の前では膝を折る。
その事実にセキは目を瞬かせてウェーシュを見るが、セキの視線に気が付いているだろう彼の視線はクロエへと注がれるばかりで、セキを気にも留めない。
「そういうことだ、クロエ。
世界の鍵であるセキとあのミルキーまでもが同じことを言った。
お前もそろそろ覚悟を決めてくれはしないか?」
ウェーシュの言葉が何故かセキには引っかかった。
イヴアールの言葉が反芻する。
――公爵に当主の座を明け渡して貰えないんですよ――
彼の言葉とウェーシュの言葉は食い違っている。
ウェーシュの言葉はまるでクロエが後を継ぐのを嫌がっているようにも聞こえるではないか?
どういうことなのか?
セキは疑問を口にしようとしたが、それより先にクロエがはっきりとした口調で反駁した。
「俺は犠牲を払ってまで当主になりたいとは思わない。
何度もそう申し上げた筈です。
俺には13部で鍵の資格所有者としての責務だけでも荷が勝ち過ぎている。
当主は嫡男であるシスルに継がせればいいのではないのですか?」
語調はいつものクロエとは違い、とても冷静で芯の通った聞いたことのない声色だった。
ちゃんと自分という器と立場を見定めた上での信念の籠った言葉。
しかしウェーシュはクロエの意見を甘いとでもいうように一蹴する。
「お前は自分の立場を正確に理解出来ていない。
レーンディア家は代々、鍵の資格を有するものが後を継いできた。
その栄えある伝統をお前が破ることがあってはならんのだ」
年の差を感じさせる低い声がクロエの頭上で響く。
依然として頭を下げたままのクロエに反駁の言葉はない。
おそらく・・・否、間違いなくクロエはその栄えある伝統を知っていた。
それでも譲れない何かがあるのかも知れない。
答えないクロエを見て、ウェーシュは尚も続ける。
「機関の仕事がアヴェルヌス統治の妨げになるのならば、それは世界の鍵であるセキに任せればいい。
鍵の資格とは所詮、世界の鍵には到底及ばない紛い物だ。
代々の当主は機関の仕事もレーンディアの当主としての責務もちゃんと果たしてきた。
お前は自分の器を過小評価しすぎている」
「父上がどう言おうと俺は・・・当主なんてならない」
まるで子供が駄々をこねる様な言い分を告げた後、クロエは立ち上がって踵を返すと速足で逃げるように部屋を出て行った。
セキは訳が分からず、クロエの後を追おうとするが後ろのフランクに止められる。
そこには先ほどの爆笑していたフランクはおらず、真剣な表情で眉根を寄せて緩やかに首を左右に振っていた。
そしてフランクはウェーシュへと向き直り、慇懃に礼をして口を開いた。
「恐れながらウェーシュ様。
主は既に覚悟をお決めになっているようです。
あなた様が決められた道こそ、主が進むべき轍。
もしも主が非情になりきれないその時は・・・アランが責任を持って影となることを誓い申し上げます」
「頼む。アラン」
セキの間で交わされる言葉の羅列に、痺れを切らした彼は大きな音を立てて立ち上がった。
その表情には不満と怒りが露わになっている。
「皆してどういうことだよ!?
何?クロエがなんで後を継ぎたがらないわけ!?
ただ荷が重いってだけじゃないだろ!?あいつはそんなくだらないことでルールを破るやつじゃないのは皆知ってるだろ!?」
たった2ヶ月ではあるがセキは皆と同じ時を同じ場所で過ごしてきた。
腹を立てたり喧嘩したことも多い分、お互いに分かったことも多い。
セキの未熟な責任感がクロエの葛藤を放置することを許さなかったのだ。
――このまま成り行きに任せていたら、取り返しのつかないことになる――
セキの直感がそう告げていた。
「セキ。お前はまだこの世界について何も知らない。
だから・・・」
「だからなんだよ!?」
諌めるフランクにセキは牙を剥いた獣のように食ってかかった。
「俺は何も知らない。だから無関係だって言いたいのか?
だったら最初から世界の鍵だなんて祭り上げてんじゃねぇよ。
だから大人ってやつは嫌いなんだよ。都合のいい時だけ利用して、悪くなったら関係ないって・・・
もういいよ!俺がクロエに直接聞いて解決してくるから!」
セキはそう言い捨てるとその場を走り去って行った。
制止の声が後ろから数多く聞こえるが、全て聞こえないふりをしてクロエの消えた方の扉を開いた。