4.シスル
セキ。
名を呼ぶ声がする。
とても懐かしい声なのに、誰の声なのか分からない。思い出せないと言った方が正しいのかもしれない。
女性の声、次に男性の声。両親なのか?
そして、若い男性、最後は老爺の声である。
――セキ。後生だから・・・戻っておいで・・・――
耳ともで囁かれたように近い声は悲しみと自責の念に駆られていた。
・・・キ・・・セキ・・・・
「セキ!!」
唐突に目が覚めた。
目の前には整った面長の顔と、鮮やかな赤が降って来るように垂れていて、闇の中で碧が神々しいまでに輝いている。
しかしそこに映るのは不安の色だ。
「・・・え?」
心配そうに見つめたフランクはセキが目覚めたことに安堵するようにため息をついた。
そういえば迎えに来ると言っていたフランクの言葉を思い出して、咄嗟に時計を見る。
6時2分。
目を見開き上半身を起こすと意味もなく辺りを見渡し、最後にフランクを捕らえた。
その様子に反対に驚きを示したフランクはそっとセキの額に手を充て、熱を測るときのように自分の額と比べる。
セキは突然、病人扱いような真似をされて眉を顰めたが、実際彼の冷たい手が心地よかった。
「やっぱりちょっと熱があるんじゃないか?
起こしても中々起きねぇし、うなされてたから心配したんだ」
「うなされてた?」
ふと、先ほどまで見ていた夢を思い出した。が、ぼんやりとした霧がかかっているようにはっきり思い出せない。
ただ、感覚として覚えているのは、それは心地よい夢であり、決してうなされるような内容ではなかったことだ。
「悪い、フランク。心配させちゃったみたいで・・・
俺なら、全然平気だし、ちょっと疲れが溜まってたのかも。
ってことで!やばくねぇ?遅刻じゃん!」
とりあえず心配をかけたようなので、謝った後にすぐ話を切り替えると、息継ぎを忘れたように訴えた。
確か会食は6時からだ。
そして現在時刻はもうすぐ6時5分。
学校ならばギリギリ見過ごしてくれるかという所。
セキは眠ってしまった自分の不覚を呪って、勢い良くベッドから飛び起きる。
すぐに寝癖を直して、フランクの用意しているだろう上着を着て、と。
一瞬で考えた頭とは相反して、くらり、と体が並行を保てずに前へと傾いた。
ひとつ間違えれば頭から倒れそうなセキをフランクが咄嗟に支えると、動揺を押し殺してベッドへと運んだ。
セキの息は切れていて、少し脈が速い。
立ちあがっただけなのに、額からは汗が噴き出ていた。
フランクはその症状を見て、苦い顔をするとすぐにメイドを呼ぶ鈴を4度鳴らし、あらかじめ繋いでおいたミルキーの精神通信を持って、彼女へとセキの状況を伝えた。
ベル4回は緊急のサインであった。
急いで飛んできたメイドと執事はフランクを見て、一度軽く礼をするとフランクは手招きした。
「最近、ここらで流行ってる流行性感冒かもしれない。すぐに医者を連れてきてくれ」
近年、アヴェルヌスではこの真夏に差し掛かる季節に決まって性質の悪いウイルス性の風邪が流行っていた。
その心配を心に留めなかったわけではなかった彼だが「大丈夫だろう」と軽い気持ちでいた自分に眉根を寄せた。
(くそ、見過ごしていたわけじゃない。慣れない状況でしかもこの時期にアヴェルヌス(ここ)に来れば、こうなる危険だって低くなかった筈だ。
なのに、俺はそれを軽くみていた。これじゃあ、クロエに面目がたたない)
突如、自責に駆られたフランクは頭で言い訳を述べる自分を叱責し、セキへと呼びかける。
ミルキーへの連絡から、すぐにクロエとミルキーがやってきた。
その後ろにはフランクも驚いたことにロゼまで遅れて付いてきていた。
フランクはレーンディア家の次男を見て、咄嗟に姿勢を正して礼をする。
それは幼いころから躾けられた反射の一つでもあった。
「アラン、今はいいから。セキが流行り病に侵されたって・・・」
フランクの態度をすぐに制したのは、頼りなさそうに言葉を紡いだロゼである。
クロエも兄が心配しているのを放っておけなかったのか、はたまたフランクの知らない理由があるのか。
その前にロゼとセキは面識があったのか。
フランクは真っ先にセキの横たわるベッドの脇に来たロゼを見て、小首を傾げた。
「今、メイドが医者を呼んでいるところです」
事務的に返したフランクの声色をロゼは気にも止めずに、セキへと呼びかける。
セキは意識が朦朧としているのか、その呼びかけに苦しそうに呻いた。
「申し訳ございません。この事態を想定出来なかったわけないのに・・・」
どう謝罪を述べたらいいのか。やはり言い訳がましくなってしまったフランクは自分の言葉に顔を顰めた。
「お前一人が悪いわけじゃあねぇだろ。俺達も配慮が足りなかった。
良く良く考えて見ると、セキ(こいつ)は俺達より、随分年下だったってことも忘れてた」
あまりに生意気な口を聞くからな、と嫌みを一言付け足したクロエはロゼの隣に並んだ。
フランク一人の責任ではない。
その言葉に少し救われた気がした彼だが、次は主人に気を使わせてしまったことに唇を噛んだ。
ミルキーはそんなフランクの心情を察してか、彼女より幾分背の高い彼の肩に手を置くと
「考えすぎよ、アラン。
いつもクロエをからかう時みたいにふてぶてしくしておきなさい」
元来勇ましい彼女だが、今のフランクには聖母のように映った。
いつものように。彼女はそう言ったが彼がそうなれなかったのは、久しぶりに訪れたレーンディアの屋敷のせいでもあったのかも知れない。
ここには良い思い出も苦い思い出も、幼くして経験せざるを得なかった悲しい思い出も、その全てが詰まっていたからである。
13部にいた時には薄れていたレーンディアへの忠誠が、屋敷にきて、彼を苛めていた。
フランクは項垂れるように頷くとミルキーは困ったように目尻を下げて、彼の前―クロエたちの一歩後ろへと進み出た。
「アラン」
暗い部屋に明かりをつけた人物。
自身の部屋の窓際に設けた椅子に腰かけ、テーブルに頬杖をつきながら月を見上げていた彼―フランクリンルーズヴァルト・アランはその声に咄嗟に立ちあがった。
カーペットに邪魔された椅子は、上手く後ろへとスライド出来ずに倒れてしまう。
フランクはすぐにその椅子を直して、彼を呼んだ人物の元へと歩み出ると、慇懃に礼をする。
頭を上げないフランクに、男は困ったように目尻を下げて彼を見やった。
「アラン」
優しく、怒られて反省している子供を窘めるような呼びかけに、フランクはそっと顔を上げた。
まっすぐに伸びた黒髪がさらりと揺れて、空のような瞳はいつもとは違い、憂いに満ちて曇っている。
穏和な表情が特徴で、大天使ガブリエル(実際は女の姿をした天使とされるが)とも称されたその表情にはいつもの余裕を持った微笑みも見られず、目を伏せていた。
「シスル様」
恐る恐るという感じで紡がれた名前。
シスル・レーンディア。
レーンディア家の嫡男であり、本来ならばウェーシュの後を継ぐ次期後継者であった男だ。
その長男、シスルにフランクは罪悪感のような後ろめたさを感じている表情をしていた。
確かにシスルの方が4つ上ではあったが、次期当主であるクロエと対等に話すフランクがシスル相手にこれだけ委縮しているのは、第3者からすれば異常にも映るかも知れない。
「アラン。昔のように戻れないのか?
お前の主人は家が決めたことであって、お前が悪いわけじゃない。
お前が俺に後ろめたさを感じることなんてないだろう?」
説得というよりは懇願にも似た声色だった。
仲互いをした友達と仲直りをしたいと願うような。
俯いたまま答えないフランクにシスルは小さく息を吸い込み、意を決っしたような表情をすると
「ルーズヴァルト」
と小さく呼んだ。
ハッとシスルを見上げる。
するとシスルはいつものやんわりとした穏和な笑みをたたえて、次は少しだけ首を傾げながらその名を繰り返した。
その名を聞いたフランクは思わず目尻を下げて、懐かしむようにも悲しむようにもとれる表情で笑いを漏らす。
唇を引き結んだフランクの眉は寄せられて、泣きだしてしまうのではないかという儚さも孕んでいる。
シスルはそれ以上、名を呼ぶことはせずにフランクの‘応え’を待った。
その彼の意を知ったのか、フランクは一度項垂れた後ゆっくりと顔を上げると、クロエには見せたことのない幼い表情で微笑んだ。
「シスル」
「まったく、人騒がせなやつだ」
クロエは自室のソファーでワインを呷っていた。
隣のロゼにそう吐き出して、足を組み替えた。
珍しく一人掛けようのソファーに随分、背へと体重を傾けて座るクロエの忌々しそうな表情に向かいの広いソファーに座っているロゼは苦笑を洩らした。
「でも治って良かったじゃないか」
2人のいつ終わってもおかしくない途切れ途切れの会話はセキの病因であった。
流行り病ではなく、ただの疲労と少しばかりの風邪であったのだ。
風邪でもこじらせたら命に関わるものの、医者の能力――レーンディアのお抱え医師は治癒の能力を持つ――によりすぐに全快して、今はぐっすり眠ってしまっていた。
おかげで会食は明日に先伸ばされ、自動的に留まる日数も一日増えたクロエは不機嫌の絶頂である。
八つ当たりしようにも、先ほどまで病人であったセキを叩き起こすのはさすがに出来なかったようで、こうしてアルコールを呷り、ロゼ相手に愚痴をこぼしていた。
明かりは最小限に抑えられた部屋で、ワインを飲む2人は絵になっている。
両者ともスタイルはずば抜けてよく、闇に溶けるような黒髪と反して闇の中で一点の曇りもなく輝く金の目。
かと思えば、僅かな明かりに反射して太陽のように光る右肩の位置で一結びにされた比較的長い金の髪に、闇と同調して輝くアメジストの目。
実際、レーンディア家と仲の良い画家が3兄弟を描きたいとの申し出も沢山あったほどだ。
そんなレーンディア家、次男と三男。眉根を寄せるクロエと同じワインを嗜みながら、呑気に返したロゼ。
クロエは兄をちらりと一瞥した。
自分より少しだけ背は低く、柔和な表情は長男のシスルにも似ている。
しかし決定的に違うのは、シスルは長男であった責任からか、何でも物事にははっきりしていて他人にも自分にも厳しい父のような人柄である。
一方、次男ロゼはあっち行ったりこっち行ったり芯がなく、良く言えば中庸と言えるのかも知れないが、持ち前の優しさが過ぎている部分もある。
率直に言えばレーンディア家次男としての威厳が足りないのである。
そう兄2人の立ち位置を見定めている三男にして次期当主クロエは、残念なことに3人の中で一番救いようがない性格だ。勿論、本人も自覚していながら変えようとはしないのだが。
約10年前の成人の儀で未来永劫揺るぐことのない次期当主の座を確保してからというもの、色んな葛藤があったにせよ、その性格は日々を増すごとに悪化していった。
傲慢で利己主義、相手が何を言おうと自分が決めたことは是が非でも付き通す。
世界は自分を中心に回っていればいい。そう考え・・・否、そうやってのけてきた非常識人であった。
だからこそ常識と道徳を重んじるミルキーには目の敵にされているのだ。
「そう言えば、母上には会ったの?」
ふと、話を転換されたクロエは口に運んでいたグラスの手を止めて眉根を寄せた。否、一層眉間の皺を深くした。
何気なく尋ねたつもりのロゼはクロエに睨まれたのにも関わらず、キョトンと首を傾げる。
諦念を感じてため息とともに、眉間の皺を取り除くとグラスを呷った後に答えた。
「ああ。あんだけ弱ってるのに、気の強いところは全く変わっちゃいなかったな」
長くないんじゃないか、と続けそうになってクロエは咄嗟に口をつぐんだ。
さすがに仮にも母親に対してそれは言ってはいけないと理性が止めたのだ。
「クロエが僕以外の家族を敬遠してるのは知ってるけど、時々は家にも顔見せてあげなよ?」
「自惚れんなよ、お前だってその一人の内だ」
ぴしゃり、と言ったクロエ。
頼りない兄に諭されるというプライドに反した言葉に思わずクロエは反駁したが、すぐにそう言った自分に顔を顰めた。
咄嗟にムキになって八つ当たりのように言い返すのは子供のやることであり、プライドが傷ついたのはそれが図星で後ろめたさもあったからだ。
そんなクロエの心情を全て知っているように、ロゼは目尻を下げて続けた。
「それでも、僕にとってクロエは自慢の弟だからね」
真正面から真顔で恥ずかしい台詞を告げたロゼに、クロエは一瞬だけ目を丸くした後、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽ向いた。
束の間の沈黙にロゼがクロエのグラスにワインを注ぐ音と、お互いにワインを飲むコクリという小さな咽喉音が広い部屋を彷徨った。
そっとグラスをコーヒーテーブルに置いたロゼが、何やら真剣味を帯びた声色で前のクロエを見据え、唐突に切り出した。
「クロエ。世界の鍵のこと、どうするつもりなの?」
あまりにも漠然とした問いに、わけがわからないとでもいうようにクロエは訝しむ。
その表情が引っかかったようにロゼは少し顔を曇らせ、続ける。
「知ってるんでしょう?
父上はもうすぐ・・・いや、明日にでも当主の座をクロエに引き渡す意向のようだ。
もう年でもあるし、何より機関をクロエに任せてからその機会を窺っていたみたい。
そうなれば世界の鍵を任せられるのはクロエ、君になるわけだ」
先程とは違い、淡々とした論調でクロエから目を離さずに強く告げるロゼにクロエは狼狽えた。
13部に籍を置いて一年に数えるほどしか顔を出さなかった彼であり、約一年越しに見た兄の姿は今、見違えるほどに逞しく威厳があるように思えたからだ。
気が強く、高慢な弟の機嫌を取ることしか出来なかった頼りない兄が、自分に面と向かい合って自分の意思を問うている。
それも考えないように思考の隅に追いやった現実を的確に指摘するかのように。
「どうするだって?よく言うな。
俺に選択権なんてないんだろう?」
皮肉めいた言葉に、より一層口調で覆い隠して凄みを加えて言い放った。
ロゼはそっと失望した時のように顔色を消して、視線を下げた。
それはまるで軽蔑にも見える動作でクロエの血を煮えたぎらせたが、グッとそれを押さえこみ兄の次の句を待つことにした。
「クロエ。僕は二度同じことは言わない。これだけは覚えておいてほしいんだ」
ゆっくりと上げられた瞳には懇願にも似た色が映っている。
まるで役者だ。思わずそう思った。
一瞬前までは失望の色を宿し、失望した相手に懇願をする。
クロエは訝しむようにその瞳を凝視した。
それが了承と取ったのか、ロゼは一度閉じた口を再び開いた。
「レーンディアが躊躇えばアランが剣になる。
レーンディアが道を間違えばアランが盾になる。
レーンディアが死を恐れれば、アランが死を選ぶ」
それは両家の間にある暗黙の了解のような決まりごとであった。
アランは何においてもレーンディアに従い、主を優先する。
それが騎士の家系の家訓であり、主人への忠誠とされている。
クロエはロゼが何を言いたいのか理解していた。否、言われずとも知っていたのだ。
ただ、それを思考することから逃げていた。
クロエは残ったワインを飲みほして、空になったグラスを床へと叩きつける。
鮮やかなほど景気の良い音を立ててグラスは粉々に砕け散り、破片が揺らめく闇の中で宝石のようにきらきらと光った。
クロエは感情を宿さない瞳でロゼを見据える。
すると今度はロゼが狼狽える番であった。
レーンディアを背負う威厳にも似た畏怖を感じさせる瞳。
ロゼの眉がぴくりと跳ねる。
「出てけ」
一言。ほとんど口を動かさずに発せられたそれは、まるで人間が発した言葉ではないように思えた。
話していた時と変わらない声の大きさに、冷たいほど抑揚も感情も籠らない、ただ一言。
瞬間で金縛りにあったように動かなかったロゼはクロエの瞳へと見開いた目を見張った。
蛇に睨まれたような錯覚に陥る。
それは死を前にした時のような恐怖。
あまりにも自然に視線を引きはがしたクロエに、ロゼは咄嗟に我を返して立ち上がり、逃げるようにしてクロエの部屋を出た。