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あの時、私は一人で追いこまれていた。無意識のうちに自分を追い込んでいた。
気がつくと、誰もいない練習部屋で、携帯で帰る路線を調べていた。合宿の宿泊先の最寄駅、そこから家へ帰るにはどうすればいいのか、いくらかかるのか、自分の財布にいくら入っているか。
「お、早いじゃん」
顔をあげると奏太がいた。うなづくことしかできなかった。
帰りたい。一刻も早く、ここから消えたい。
楽しかったはずの音楽に、ここまで苦しめられるなら、もうやめたい。楽器を始めた中学の時からここまで、辞めたいと思った事は一度もなかった。でももう耐えられなかった。うまく演奏できない自分や、周りに迷惑をかけている自分に。
「どうした?暗いけど。何見てんの?」
「奏太、お金貸して」
「いくら?何に使うの?」
「帰る」
「どこに?」
「家に」
思いもよらない答えに、楽器を組み立てていた奏太の動きが止まった。
「そんなに金持ちじゃねーんだけど」
「じゃ、駅で借りる」
少し考えたあと、私の頭をぽんぽんと叩きながら、奏太はこう言ってくれた。
「晴香が帰ったら、僕が困る」
「がんばって」
「なんだそれ。自分一人ぐらいいなくて平気とか思ってんのか?無理だから。晴香ほど音量ないし、一人で3rdパートできるほど、度胸も技量もない。大体、ギリギリ人数でやっている部活で一人消えたら、どんだけ大変か、分かってるだろ?」
「でも、楽器が嫌いになるほど辛いのに、続けなくちゃいけないものなの?」
「嘘つけ、嫌いになれないくせに。何をそんなに背負い込んでるんだよ?」
「あれこれ」
目をつぶって少し考えた後、奏太が私の前に立った。
次の瞬間、両手でほっぺをつねられた。
「いたい!なにふんの!」
「口角上げさせてんの」
つねりながら、なぜかニコニコ笑う奏太にむかついた。
「えーと、そうだな」
容赦なく痛い。でもなんだかニコニコしている。心底腹が立ってきた。
「とりあえず、笑え」
「なにいってんの?」
「笑う門には福来たるっていうじゃん。」
「は?痛いんだけど!離してよ!」
なかなか離してくれなかった。
「はーなーせー、いてーよ、ばか」
「やだ」
離せ、イヤだの押し問答が続いたが、ほっぺの痛みに耐えられず、私が折れた。
「練習なんだから、間違えたっていいんだよ。怒られている原因は一人じゃなくて、パート全体なんだから。責任は、晴香だけじゃない。」
「…分かったよ、帰らない」
その言葉を聞いて、奏太はつねるのをやめてくれた。
「コンクールまでの辛抱じゃねーの。ダイジョウブ、なんとかなる」
そうだった。
痛みとイラっとした気持ちの中で、自分の責任じゃないと言われて、心底ほっとして、また頑張ろうって気持ちになれた。奏太はなぜか私の心の緩め方を知っている、なんでかな、って思ったんだったな。