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奏太の「ありがとう」という言葉にハッとした。
今まで、私は何をしてきたんだろう。
気を使わせてばかりで、私の方がいつも「ごめん」とか「ありがとう」を言っていた。それだけ、奏太に負担をかけていたのかもしれない。
奏太の抱えている痛みを、私はどれだけ見ないでいたのだろうか。
時折考えごとをしているのか、真面目な難しい顔をしているとき、そっとしてあげた方がいいのかなと思って、声をかけたりすることができなかった。
譜面を見ながら、何度も何度も繰り返し、悩みながら練習しているとき、邪魔したら悪いしと思って、音を控え目に出したりしていた。
触れたらいけないかなと思って、必要以上踏み込むようなことを聞かずにいた。
奏太に「ありがとう」って何回言われたことがあっただろうか。回数が何かを計る基準ではないけれども。私は何をしてあげられるのだろうか。何ができると問われても、何がとは言えないけれども。
「あのさ、奏太。」
「ん?」
なんて言えばいいのだろうか。うまく言葉が見つからない。けれども、何か、奏太の心を軽くしてあげられたら、そう思った。なんて言えばいいのか分からない。けれども、いつも思っていたことをぶつけてみた。
「たまには、逃げたっていいんだよ。なんて言うか、たまには、頼ってよ。頼りないだろうけど。」
奏太の動きが止まった。
沈黙の間が、何だか怖くて、とりあえず奏太の手を取って、ぶんぶん振り回して、先に行こうと試みてみた。
「は~らへった~、は~らへった~」
つないだ手が、心の中を伝えてくれたらと思うけれども、それは無理なので、次の言葉を探した。ずっと思っていたことをぶつけてみた。
「たまに難しい顔してるとき、声かけていいか分からないんだよ。私、頭悪いし、気が利かないから、どう聞いたらいいか、ずっと分からなかった。」
「頭悪いってことはないだろうけど。」
「でも頭悪くてよかった。奏太よりは単純だし。」
「なんだそれ。」
もう、どうすれば伝わるか、一体何がしたいのか、訳が分からなくなってきた。ふと今朝の夢を思い出した。とりあえず、奏太のほっぺをつねってみた。
「いたたたたた」
「どーだどーだ痛いだろー」
「いたい」
「あの時、私も痛かったけど、ほっとしたんだ。」
たまには、逆の立場になれたらいいんだけれども、どうすればそういう存在になれるか、よく分からない。でも、あの時、もう何もかもやめて逃げたいと思った時 みたいに、奏太が辛いとき、心を緩めることができたら、そういう存在になれたらと思っている、ということを伝えたかった。
…もう少し、話したい。とりあえず、仕切り直したい。
「トイレ行ってきていい?お寺さんで借りれるかな?」
「たぶん大丈夫だと思うけど。」
「ごめん、ちょっと待ってて。」
トイレに行くふりをして、こっそり奏太の様子を遠くから眺めてみた。昨日より、ちょっとはラクになったのか、真顔だけど、少しだけ柔らかい顔をしている、ような気がした。気がしただけであって、違う可能性も高いけど。
のども渇いたので、バスから降りた時に見かけた自販機へ行き、お茶を2本買って、もう一度奏太の様子をみた。