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聞こえなかった。

 ユニコーンに会ってから三日が経ち、私たちは国境付近の町までやってきました。

 遅めの昼食をとるために食堂の類を探していると、前方から四十歳くらいの男性がフラフラと歩いてきました。真っ昼間からお酒を飲んで酔っぱらっているようです。うわ、こっち見た。男性は何を思ったか、にたあ、と笑いながらこちらに近付いてきて、さらには話しかけてきました。

「おじょーちゃん」

 うへえ、お酒臭い。何で私に話しかけるの。

「……何ですか」

「      」

「え?」

 男性が何か言ったようですが全く聞こえませんでした。まあいいか。酔っ払いの言うことなんて。

「聞こえなかったかあ?       って言ったんだよーう」

 ……あれ? 不自然な感じに男性の言葉の一部が聞こえませんでした。

 男性に対して何も反応しないでいると、エドワードさんが私と男性の間に入りました。男性はエドワードさんの後ろに隠れる感じになった私を見てつまらなそうな顔をすると、

「      !」

 何やら叫びました。その直後、目の前で殺気とでも呼べばよさそうなものが一気に膨れ上がるのを感じ、次の瞬間、

「ぐあっ!」

 男性が十メートルくらい吹き飛び、周囲の人を驚かせました。人が多い所で同じようなことになったら誰かに当たって危なかったかもしれませんが、ここは人が少ないので特に被害はありませんでした。

 どうして男性が吹き飛んだのかというと、エドワードさんに殴られたからです。ならばどうしてエドワードさんは男性を殴ったのかというと、たぶん怒ったからです。いいえ、“たぶん”ではなく“絶対”です。今のエドワードさんからは爽やかさを感じられず、全身から怒りのオーラが出ているように見えます。爽やかな青年から物騒な青年になっているのがよくわかります。一体、エドワードさんは今、どのような顔をしているのでしょうか。見てみたいような見たくないような……。

 男性は、エドワードさんに殴られたせいか、それとも地面にどこかをぶつけたせいかはわかりませんが、気絶したようです。

「まあ! すごいわ!」

 と、どこからか感嘆の声があがりました。私たちの近くにいてきょとんとしていた少年が我に返り、「すごいすごい」と言いながら拍手しました。拍手のお蔭でエドワードさんの怒りのオーラが少し引っ込んだように思えます。

「ありがとうございます!」

 通りの向こうからおばさんが小走りでやって来て、エドワードさんの手を両手でがしっと握りました。

「ありがとうございます。トロッター――あの男にはみんな困ってたんです」

 おばさんをきっかけにエドワードさんは大勢の人――主に女性――に囲まれました。どこにこんなに人がいたのでしょう。

 エドワードさんが囲まれている間に、男性――どうやらトロッターという名前のようです――がどのようなことを言ってエドワードさんを怒らせたのか質問しようとして、隣に立つジークさんに顔を向けると、なんと! ジークさんは苦虫を噛み潰したような顔をしていました!

「あの人、何て言ったんですか」

「……意味がわからないのか」

 おおう、ジークさんの声に不機嫌さがよく表れています。顔にも声にも感情が表れているとは珍しい。

「そうじゃなくて、聞こえなかったんです。壁か何かで完全に遮られた感じで」

「そうか。……聞こえなかったのなら、それでいい。わざわざ知る必要はない」

「何でですか」

「……下品だから」

 下品? エドワードさんが怒って人を殴り飛ばし、ジークさんが苦虫を噛み潰したような顔をして不機嫌そうな声を出すほどに? そんな言葉があったかといろいろな言葉を思い浮かべてみましたが、わかりませんでした。私が知らない言葉なのかもしれません。もしくは私にとってはそれほどのものではないのかも。

「そんな言葉の心当たりがないんですけど、そんなに下品なんですか」

「……良家の子女が口にしたら家から追い出されることがあるくらいには」

「ジークさんはどこでそんな言葉を覚えたんですか」

「本」

 なるほど、その言葉が書かれた本を読んで覚えてしまった、と。

「どんな意味ですか」

「知らなくていい」

 ジークさんは答えてくれる気はさらさらないようです。

「ジーク、レイちゃん」

 名前を呼ばれてエドワードさんに顔を向けると、

「お昼を奢ってもらえることになったよ」

 彼はいつもの爽やかな青年に戻っていました。



 昼食を奢ってくれると言った女性は、エドワードさんに殴られた男性について愚痴を交えながらいろいろと教えてくれました。

 あの男性は、真っ昼間からお酒を飲んで酔っぱらっては周りに迷惑をかけ、酔っぱらっていなくても迷惑をかけ、他人の言うことを全く聞かず、力ずくでおとなしくさせようとしても妙に強くてどうしようもできず、この町の人々にかなり嫌われているそうです。

「それでね、魔人ってすごく悪いこと考えてる人とか駄目人間がよくなるものでしょ? だからあいつのこと『魔人予備軍』ってみんな呼んでるの。あなたがぶっ飛ばしてくれて本当に良かったわ。これであいつも少しはおとなしくなるでしょ。――ところであなた」

 女性の言う「あなた」がエドワードさんから私になりました。

「よく怒ったりしなかったわね。あんなことを言われたのに」

「何でかわからないんですけど、その言葉だけ聞こえなかったんです」

「あんなに大声だったのに? 不思議ねえ。ま、聞こえなかったのならそれでいいわね。うらやましいわ。あーあ、何でこんな言葉を覚えちゃったのかしら」



「レイちゃんは神様にイリム語がわかるようにしてもらったんだよね?」

 食堂を出て女性と別れ、通りをのんびりと歩きながらエドワードさんにそう聞かれました。

「はい。頭をがしっと掴まれて流し込まれた感じです」

 あの時は本当に痛くて苦しくて気持ち悪かったです。マリアさんと会話が成り立ったことに驚いてすぐにそれらの不快な感じのものはどこかに飛んでいきましたが。

「それで、“あの言葉”の心当たりが無いんだよね」

「はい」

「もしかしたらだけどさ、神様はレイちゃんに“あの言葉”を覚えさせなかったんじゃないかな。奢ってくれた人も言ってたけど、覚えない方がいいし」

 エドワードさんがそう言うと、

「聞こえなかったのも神様のおかげかもしれないな」

 と、ジークさんが言いました。

 つまりあの神様は、私に複数の言語をただ覚えさせたのではなく、あまりにも下品な言葉は省いて覚えさせ、さらには聞こえないようにしてくださったと? 本当にそのとおりなら、すごく親切な神様ですね。

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