聞いて
暇です。一昨日、宿を決め、報告書を書きました。昨日、「ブロンテ兄弟は遅くなるが待っているように」という内容の返信がきました。暑かったので窓を開けておいたら窓から紙飛行機が入ってきて驚きました。どうしてちょうど私の泊まる部屋まで飛んでくることができたのかが謎です。私が窓を開けていなかったらどうなっていたのでしょうか。
そんなことはさておき、ブロンテ兄弟を待つ時間が結構あるわけです。だから暇なのです。暇なら魔法の勉強をすべきなのはわかっています。ですが最近は気温がぐんぐん上がっていて、昼間は暑くてやる気が出ないのです。ああ扇風機が欲しい。一昨日と昨日は夜になってから勉強しました。今日もそのつもりです。
さて、夜になるまでに何をすればいいのでしょうか。勉強だってできないことはありません。学校の教室には冷房なんてありませんから、暑さに耐えて勉強するなんてことは毎年のことです。だから、勉強はやろうと思えばできます。でも今は授業中ではありません。一緒に暑さに耐えて勉強する仲間がいません。昨日は昼間にも勉強しましたが、暑くてすぐにやめてしまいました。扇風機があればいいのに。
中世ヨーロッパ風なファンタジーなこの世界は、ほぼ私の理想の異世界です。だからこの世界に来て私は幸せです。でも、ときどき技術が進んだ物が欲しくなります。今日みたいな日には扇風機が欲しいです。この世界にはいつになったら扇風機が登場するでしょうか。
ああ、扇風機が欲しい。望んだって出てこないので、教科書をうちわの代わりにしています。この世界で扇風機が作られたら、それは何で動くのでしょうか。やっぱり電気? それとも魔法?
ぼんやりと扇風機について考えていたらいつの間にかお昼になっていました。一階の食堂に行くと、そこは混んでいました。エドワードさんとジークさんはどこでしょうか。朝、体を動かしてくると言って外に出ていった二人は、お昼には戻ってくるから食堂で待っているように言われました。
あ、二人を見つけました。隅の八人座れる席に、暑さに負けずに爽やかなエドワードさんとぼうっとした感じのジークさんが座っています。もしかしたらジークさんは神様にいろいろと聞いているのかもしれません。二人の反対側にはテーブルに突っ伏た人が三名います。五人に近付くと、エドワードさんが私に気付いて手招きしてきました。私が席までたどり着くと、エドワードさんは人差し指を唇に当てました。静かに、ってことでしょうか。私はそっと椅子に腰を下ろしました。
目の前で突っ伏している三人はどちら様でしょうか。あー、とか、うー、とか呻いています。暑さにやられたのでしょうか。
声を出してはいけないと思ったので、指で空中に「この人たちは誰ですか」と書いてエドワードさんに尋ねてみました。エドワードさんはいたずらっ子のような笑みを浮かべると、私の書いた字を消し、三人に起きるように言いました。
最初に、私の前にいる人が呻きながら身を起こし、私を見るなり、
「うおっ!? いつの間に!?」
と大袈裟に驚き、その隣の人が大声につられたのか、がばっと身を起こして驚いた人を見て、さらにその視線の先にいる私を見て、ぽかんとした顔になりました。最後に、私から一番遠くに座る人がゆるゆると顔を上げ、驚いた様子の二人を見て、私へと視線を移して目を丸くしました。
あの、お三方は何をそんなに驚いているんですか? あと、そんなに見ないでください。恥ずかしいです。
「お前、いつからいたんだ?」
最初に驚いた人がそう聞いてきました。この人は茶色の髪と目をしています。歳は二十代半ばでしょう。
「ほんの少し前からです」
「どうやって来たんだ?」
「普通に歩いて来ました」
「お前は普段から気配を消してるのか?」
「はい?」
何言ってるんですか、あなた。私がそんなことできるわけがありません。
「違うのか? じゃあ来る時だけ消した?」
「そんなことはしてません」
気配ってどうやったら消せるのでしょうか。
「そうなのか? 俺、お前が来たことに全然気付けなかったんだけど」
あ、そういえば旅に出る前日に、私は気付かれにくいという話を聞きましたね。すっかり忘れていました。
「何で気付かなかったんだ?」
と首を傾げる茶髪さんに、
「お前が鈍感だからだろ」
と、二番目に驚いた人が言い放ちました。この人は青い髪で、左右で目の色が違います。右目が紫で左目が青です。男性か女性かわからないような顔立ちですが、声が低いので男性でしょう。この人も二十代半ばだと思います。
「お前だって気付いてなかっただろうが!」
反論する茶髪さん。
「俺は気付いてたよ。まさか女の子だとは思わなかっただけで」
「嘘吐け!」
あのー、茶髪さん、もう少し声量を下げてくれませんか? あなたのせいで他のお客さんがこちらを見てくるのですが。
「うるさい……」
最後に驚いた人が疲れきった声で呟きました。この人は髪はオレンジで目は緑です。十代後半に見えます。彼の呟きに茶髪さんは周りを見渡して、声を小さくしました。
「嘘吐くなよ」
「吐いてない。俺はお前みたいな筋肉野郎とは違う」
茶髪さんの顔に血管が浮かびました。そんな茶髪さんに青髪さんは、はあ、と溜め息を吐きました。そして、どういうわけか私をじっと見てきました。居心地が悪いです。しばらくしてから青髪さんは口を開きました。
「君、名前は?」
「小林怜です」
しまった! 苗字から名乗ってしまいました。エドワードさんの時は途中で気付けたのに。
「どこからが苗字?」
「小林が苗字です」
「じゃあ、レイが名前?」
私が頷くと彼は不思議そうな顔をしました。
「苗字から名乗るなんて変わってるな」
私にとっては普通ですよ。
「君は」
青髪さんが続けて何かを聞いてこようとしたその時、
「おまちどおさまー」
この宿を経営しているご夫婦の娘さん二人が料理を運んできました。二人は同じ顔をしています。おそらく一卵性の双子なのでしょう。まだ小五、六に見えます。二皿ずつ料理を持っています。全部同じもののようです。
「残りはちょっと待ってくださいね」
そう言って双子ちゃんが立ち去って十秒も経たないうちに今度は息子さんが料理を運んできました。彼は中学生くらいに見えます。
「ごゆっくりどうぞ」
彼はにこやかにそう言って立ち去りました。
運ばれてきたものは麺料理です。黄色の麺にきゅうりとトマトと金糸卵と何だかよくわからない紫の食材がのっています。……これ、冷やし中華に見えるのですが……。料理をじっと見つめていると、エドワードさんが簡単に説明してくれました。
「これは、この国に昔から伝わる料理なんだって。夏に食べると特に美味しいらしいよ」
「名前は?」
「これの名前かい? えーっと、なんだっけ……ヒヤシンスじゃなくて、ひ、ひや……」
エドワードさんが料理の名前を思い出せずに困っていると、青髪さんが代わりに答えてくれました。
「ひやしちゅーか」
ひやしちゅーか……やっぱり冷やし中華ですかあああ! しかも日本語ですよ! 一体何がどうなって……偶然でしょうか。本当にこの世界は不思議です。異世界の冷やし中華を前に考え込んでいると、茶髪さんが覗き込んできました。
「どうした? 食欲が無いのか?」
「えっと、その、故郷に似たような料理があって、それを思い出していました」
「へー」
さて、冷やし中華をいただいてみましょうか……ってこれ、フォークで食べるのですか? 冷やし中華をフォークで? お箸は……残念、無いようです。冷やし中華をフォークで……フォークで冷やし中華……スパゲッティのように……むう……仕方がありません、フォークで食べます。
謎の紫の食材をフォークで刺したちょうどその時、青髪さんが、
「レイ、君は人間じゃなくて神使だって聞いたけど、本当か?」
な、な、何をいきなり! 何で神使のこと知ってるんですか?
私はとりあえず首を傾げてみました。
「その話、どこで聞いた?」
少しばかり警戒した声でエドワードさんが問うと、
「最近いろんな所で」
という答えが返ってきました。どうしていろんな所でそんな話を聞くのでしょうか。
「神使の話はかなり広まってるみたいだな。信じてないやつの方が多いようだけど」
だから、どうして?
「何でそんなに不思議そうな顔してるんだ?」
と、茶髪さんが私とエドワードさんを見て言いました。
「何で、と言われても……」
エドワードさんは返事に困っているようです。
「もしかして、知らないとか?」
それまで黙々と冷やし中華を食べていたオレンジ髪さんが顔を上げてそんなことを言いました。
「何を?」
エドワードさんが困惑したような声で尋ねると、オレンジ髪さんはわかりやすく答えてくれました。
「ニールグに神使が来て、仲間と一緒に魔王を倒す旅に出た、っていう話をニールグが細々と広めてるのを」
あの国王め! そんな話を広めてどうする。
「どうして私がその神使だと思ったんですか」
と、聞いてみると、今度は青髪さんが答えました。
「神使は強い青年と赤毛の少年と一緒だ、って聞いたから」
なるほど。
「で、神使っていうのは本当か?」
どうしましょう。エイミーに聞かれた時は、教えてやるもんかという気持ちで「神様に聞いてみれば」と答えましたが、別に嫌いでもなんでもない人にはどう答えるのがいいのでしょうか。私は、自分が神使という生き物だということはもちろん否定したいのですが、アーサーさんは「受け入れてほしい」と言いました。私は職業として受け入れたつもりですが、それはアーサーさんに言われたからそう思っているだけで、他人から見れば、私が神使という生き物だということを受け入れたことになっているのだと思います。だとしたら否定するのもどうかと。
「どうして何も答えないんだ?」
青髪さんがせかすように言ってきました。ああもうどうしよう……よし、ごまかそう。
「私のこと、どう見えてますか」
「……昔、勇者と一緒にいたっていう神使を連想させる」
え、昔にも神使が?
「その話は初めて聞いた」
エドワードさんも初耳だったようです。わずかに身を乗り出しました。
「この大陸には記録が残ってないだけで、他のとこにはちゃんと残ってる。絵本にだって出てくる」
青髪さんの説明に、エドワードさんは、
「ジークは知ってたか?」
「ついさっき知った。……神使は記録に残ってないわけじゃない。この大陸では賢者になってる」
ついさっき? もしかしてナイスタイミングで神様に聞きましたか、ジークさん?
「賢者? 賢者なら他のとこにもいるぞ?」
と、首を傾げる茶髪さんにジークさんは、
「一人二役」
とだけ答えました。
「それだけじゃわかんねえよ」
不満そうな茶髪さんに青髪さんがピシャリと、
「馬鹿」
あ、またまた茶髪さんの顔に血管が浮き上がりました。茶髪さんのフォークを持つ手が震えています。
茶髪さん、我慢ですよ。フォークで刺そうなんて思っちゃ駄目ですよ。あっ、だ、駄目ったら駄目ー!
茶髪さんが勢いよく腕を動かしたので一瞬ひやっとしましたが、彼が突き刺したのはトマトでした。その様子を見た青髪さんが、
「八つ当たりか。やっぱりお前は馬鹿だな」
「お前もこれみたいにしてやろうか?」
「お前みたいな筋肉馬鹿野郎にできるのか?」
「お前みたいな貧弱馬鹿野郎が相手なら簡単だ」
茶髪さんと青髪さんは喧嘩を始めてしまいました。でも二人とも割りと冷静なようで、声を荒らげてはいません。
さて、青髪さんの注意が茶髪さんに移ったところで、フォークで突き刺したままの紫色の謎の食材を食べてみます。
恐る恐る少しだけ食べてみると、
「うっ……」
ピーマンのような味がしました。私、ピーマンはかなり苦手です。でも我慢。
あ、そういえば大事なことを聞き忘れていました。
「エドワードさん、この人たちは誰ですか」
「あ、言ってなかったね。この近くで昼間から酒飲んで暴れてるどうしようもない馬鹿集団がいたから殴っておとなしくさせたんだけど、それをそこの茶髪が見ててね、勝負を挑まれたから勝負して、それでそのままなんとなくお昼を一緒にすることになったんだ。そうそう、好きな名前で呼んでくれって言ってたよ」
好きな名前? んー、じゃあ、山田さん、斎藤さん、杉下さん……って日本人の名前はあまり似合わないかも。
何がいいかと考えているうちに、茶髪さんと青髪さんは静かな喧嘩をやめました。が、今度は静かな熱い闘いが始まりました。ジークさんとオレンジ髪さんが何故か腕相撲をしているのです。赤とオレンジ……暑い。この組み合わせはあまり見ない方がいいですね。
ああ、やっぱり扇風機が欲しい。




