前編
……あれはそう。
大学を卒業して、もうすぐ社会人かと胸を躍らせていた三月末日の事。
何の前触れも無く、唐突にその不可思議な現象は起こった。
久しぶりに食べたくなったキッチンラーメンを煮えたぎる鍋にぶち込み、三分。仕上げにごま油を一滴垂らして「さぁ食べよう」と思った瞬間、辺り一面真っ白い光に包まれ……。
気が付いたら見た事も無い大広間の中心で、大勢の人間に囲まれていた。
えんじ色のジャージ姿でマイ箸を持ったまま呆然とする俺。
額に冷や汗をかきながら視線だけで周囲を軽く観察して、意識が飛びそうになった。
等間隔に立てられている白い柱には蝶に似た細かな紋様がいくつも刻まれ、床にはこれまた細かな刺繍が施されたサフラン色の絨毯が敷き詰められている。壁はあまり無く、ほどんどが吹き抜けの状態だ。
雰囲気はアラブだとかインドだとかそっち方面の印象が強く、城というよりも宮殿に近いように感じる。
しかし、外に見えるのは砂漠では無く、鬱蒼とした木々が地平線まで覆い尽くすアマゾンの様な光景だった。
次いで、俺を取り囲む人々を怖々見やれば、肌の色から毛の色からとにかくカラフルで非情に目に痛い。色素細胞はどうなっているんだろうか。
……異世界。そんな言葉が頭に浮かんだ。
一瞬にして絶望へと思考が引きずられそうになった時、それまで黙りこくっていた人間たちの内一人が話しかけて来た。
「まずは、ようこそ。神ラァムに導かれし異界の救世主よ。」
某赤い配管工のような形の蛍光紫の髭を持ったオッサンが一歩前へ踏み出して来る。
俺には出せない上司オーラを全身に纏わせているオッサンは歓迎の言葉を述べながらも無表情で、その瞳の底の見えない冷たさにゾッとした。
「我々は貴方を歓迎しよう。」
淡々と言って、動作だけは恭しく頭を下げるオッサン。それに追従するように広間の人間全員が揃って俺に向かい礼の形を取る。
酷く……嫌な予感がした…………。
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やはり、状況は最悪だった。
あれから聞いた話によると、俺はなんと魔獣王とやらを倒す救世主としてこの世界に呼ばれてしまったらしい。
伝承によれば異世界の人間は界を渡る際、神ラァムの祝福により一つだけ特殊能力を授けられるとかで、それを期待しての召喚だったのだそうだ。
この世の全てを滅ぼす力を持つという魔獣王を倒せば契約が終了し、自動的に元の世界に帰る事が出来るとは言われたが……はたしてこの話どこまで信用して良いものやら。
何にせよ、この宮殿に長く留まるべきでないのは確かだろう。だが、彼らの話が大嘘でどう足掻いても地球への帰還が望めない状態であるのだとすれば、どうしようもなく鬱だ。
ちなみに今は、ラァムの巫女とか言うチマチョゴリのような服を着た婆さんに、俺がどんな能力を持っているのか鑑定してもらっているところだったりする。
大まかな説明が終わると、俺はオッサンに案内され広間から神を祭る神殿の一室へと移動させられた。
豪華なクッションに胡坐をかいた状態で巫女の婆さんと向かい合わせに座っている。
先ほどと違い、この場所には片手で足りる程度の人数しか残っていない。高位の人間しか入れない部屋らしい。
「分かったぞい!」
唐突に叫びながら、グワッと目を見開く婆さん。とりあえず、唾を飛ばすのは止めてくれ。
当の本人に両手を取られているから、逃げられないし防げないし拭えない。最悪だ。
「彼の知っている限り全ての種類のインスタント麺を、いつでも好きな時に好きなだけ好きな状態で出現させる事が出来る力ッ!
それが神より賜りし救世主様の能りょふひゃっ!」
勢い余って途中で入れ歯がブッ飛んだが、誰も気にした様子は無い。
みんな、婆さんの言葉が理解できずに困惑しているようだ。
かく言う俺もショックで動けずにいる。理解出来ない、したくない。
そんな「さあ死ね」と言わんばかりの意味不明能力で魔獣王とやらを倒しに行くなんて、ありえない。
自分の世界のメシが食えるのは万歳だけど、それと引き換えに命を差し出す程バカじゃないぞ俺は。
大体、旅が始まる前から詰んでるってどういう事だよ。
ラァムとかって神は何を考えてるんだ。意地が悪いのか。苦しむ俺を見て楽しんでいやがるのか、チクショウ。
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こんな能力で戦う事は出来ないという俺の訴えを完全に無視して、奴らは「神に選ばれし救世主様なら不可能も可能に変えられます。我々は信じています」だとか何とかおためごかしを言いつつ、屈強な兵士を使い宮殿の外へと強引に放り出した。厄介払いが見え見えで反吐が出る。
一応、形ばかりといった具合にマントと短剣、簡単な世界地図に出国許可証だけは貰えたが、これでは死ねと言われているも同義だろう。
城門の前で途方に暮れつつ、これからどうするかを考える。
とりあえず、日本に帰る事を諦めたくは無い。
だとすれば、無謀を覚悟で魔獣王とやらを倒しに行くか、他の帰還方法を探すためあての無い旅に出るか……。
しかし、俺には路銀も常識も体力もない。この世界では、生れたての赤ん坊のように無力な存在だ。
ただ生き抜くことすらも難しいこの状況で旅立つなど、自殺行為にも等しい。
インスタント麺が出せるという事で飢え死にだけはしないだろうが……それだけだ。
人は食べ物だけで生きているわけじゃあ無い。
悶々としつつ町を彷徨っていると、人通りが多い事もあり誰かと肩がぶつかってしまった。
咄嗟に謝ろうと顔を上げれば、そこには緑色の無精髭を生やしたドブ色の肌の小汚いオッサン。
ポニーテールという名の髪型に俺がこれほど嫌悪感を覚えたのは初めてだ。
服装や目つき、纏う雰囲気など彼の全てが悪い性質を持った人間だという事を示唆している。
危険を避けるため素早く「申し訳ありませんでした」と謝り立ち去ろうと足を踏み出せば、当然のようにオッサンは俺の肩を掴んで来た。
……どこのお約束展開だ。というか、痛い痛い肩痛い外れる痛い力入れ過ぎだろオッサン!
思わず顔を顰める俺に向かい、オッサンは下卑た笑いを浮かべて臭い息を吐き出す。
「んなチョロいワビだけで済むんなら、保安部隊はいらねぇってなぁ。坊主。
っつーワケで、ちょいとアッチで話でもしようじゃねぇの。」
指された先を見れば、昼間だと言うのに薄暗く陰気な空気を醸し出している細い路地が目に入る。
その先で起こる事を想像し恐怖心から必死に抵抗するも、筋肉質で身長の高いオッサンの手は外れてくれない。
自分で出来ないのならと助けを求めるように周囲に視線をやってみたが、厄介事はごめんだとばかりに顔を逸らされてしまう。
結局、俺は大通りから外れた路地の奥へと無理やり連れて行かれてしまった。
逃げ道を塞ぐように壁際に追い詰められて、自らの不甲斐なさに涙が出そうになる。
……痛めつけられるのも、数少ない荷物を盗られるのも、殺されるのも、菊を散らされるのも全部嫌だ。絶対に嫌だっ。ラァムとか言う神のバカ野郎!チクショウ!
本当に泣き出してしまわないよう奥歯を強く噛みしめ、ねめつけるようなオッサンの鋭い眼光に根性で耐える。
「坊主よぉ。テメェがぶつかって来たせいで、俺の利き腕がイカレちまったんだわ。
これじゃあ、まともに金が稼げなくて明日にでも飢え死にしちまうかもしれねぇ。……で、だ。
まさか坊主は人にこんな酷い怪我を負わせといて、無責任にもトンズラしようってぇ人でなしじゃあねぇよなぁ?」
先程まで余裕で動いていた右腕をダラリと下げて、オッサンは恥ずかしげも無くこう言い放った。
イチャモンの付け方というのは、どこの世界でも似通っているらしい。こういう事をする奴というのは、えてして思考回路が単純なんだろう。芸が無い。
さすがに慰謝料制度は無いようで持って行き方は違ったが、最終的な要求内容も同じ。ただ、『金』だ。
是も否も言わずに黙りこむ俺に痺れを切らしたのか、オッサンは予告もなしにその太く硬い膝で俺の腹部を思い切り蹴りつけて来る。
鈍い音と共に石壁に背中がめり込んで、意図せず呻き声が漏れた。
これ以上ないという激痛に堪らず蹲ろうとするが、その行動はゴツイ左手に首を掴まれる事によって強制的に中断させられてしまう。
脅すためなのか、もういっそ殺してしまおうとでも思っているのか、ギリギリと指に力を入れられて呼吸がままならない。
細まった気管から短く音が洩れ出ている。
苦しい苦しい痛い苦しい痛い苦しい……。
朦朧としてくる意識の中、元の世界に残してきた家族の姿が浮かんでは消えを繰り返していた。
っこんな…、こんな訳の分からない世界で、誰一人俺を知る人間のいない孤独な場所で…、こんなにも簡単に、あっさり、呆気無く、俺は死んでしまうのか…?
まだ何もかもがこれからだった。これからようやく俺自身の生れた意味を…人生を紡いでいくはずだったのに。
…父さん……母さん。それから兄ちゃんにピーちゃん…。ごめん…俺……。
諦めと悔しさと寂しさと惨めさと…その他様々な感情が綯い交ぜになって、我慢していた涙が一滴頬を伝った。
その時だ。路地の奥から比較的若い男のものと思わしき声が響いてきた。
「テメェも懲りねぇなぁ……。
クズがッ。次、見つけたらタダじゃおかねぇっつったろーがよ!」
男の怒鳴り声に反応したオッサンがビクリと身体を硬直させ、俺の喉にかけられていた手が緩む。
そして、次の瞬間……。オッサンは華麗に宙を舞っていた。
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突然現れた男に殴る蹴るなどの一方的な暴行を受けたオッサンは今現在、俺から数メートル先の地に伏したままピクリとも動かない。
死んでいるのか気絶しているのか分からないが、とにかく脅威は去った。
地面に力無く座り込んだまま、自らの気を落ち着けるように深呼吸する。
こーほー、こーほー。…って、某機械の超人か俺は。
自然と頭に浮かんだしょーもない冗談に自分でツッコミを入れて、はたと気付く。
……あぁ、そう…か。助かった……俺は助かったんだ。
改めてそう認識した途端、顔面がボッと真っ赤に染まった。
っうぅわぁあああ、何っつー恥ずかしい事を考えてたんだ、さっきの俺!
怖ぇーっ。死の間際の思考マジ怖ぇーっ!ひーっ!
羞恥に転げ回りたいのを我慢して自身の身体をギュウギュウに抱え込んでいると、オッサンを退治してくれた男が正面にしゃがんで話しかけて来た。
「大丈夫か、兄ちゃん。なんつーか…災難だったなぁ。
ま、ちったぁ良い教訓になったろ?
いくら治安が良いと言われてる帝都でも気ぃ抜くもんじゃないってな。」
「あ……の、えっと、はい。ありがとうございま…す?」
三十歳前後に見える焦げ茶の肌の男は、キツイ印象のつり上がった目つきをしていたし、真っ赤な髪を威嚇するようにギンギンに立ててはいたけれど、どこか人を安心させるような不思議な空気を纏っていた。
こちらの身体の無事を確認すると、彼は「よしっ、んじゃもういいな」と満足そうに言って立ち上がり、何事も無かったかのように立ち去ろうとする。
慌てて俺が言葉だけでなく何か礼は出来ないかと尋ねると、彼は人懐こい笑顔で「かかっ、いらねぇよ。律儀な兄ちゃんだな」などと特徴的な笑い声を上げながら肩を叩いて来た。
それから男はあっさりと踵を返し、動かないオッサンの首根っこを掴んで片手にズルズルと引きずりながら去って行った。
これが後の用心棒、もとい俺の唯一無二の仲間となる男との初めての出会いになるのだが……。
この時はただ「親切な人間もちゃんといるんだな」と異世界に対する認識を少し改めただけで終わったのだった。