第1話「囲われた世界の中で」part2
第1話「囲われた世界の中で」part2
桜の花が雨に濡れて下を向く。
校舎からの風景を横目に、台場栄児は今年で十八回目の春を迎えていた。新学期が始まったのだ。
誰もが浮かれるこの季節。栄児は一人、やや気だるそうにして視線を窓の外に向けていた。
世界史の授業がまるで耳に入らない。倦怠というか陰鬱な気分がそうさせているのだが、もとより学年成績トップの彼にとっては今さら聞くまでもないことだった。
彼の場合、母子家庭であるために奨学金を得なければいけない。
つまり卒業するまで、その成績を維持する必要があるのだ。
三〇〇年前の突然の隕石の衝突も、それによる海面の上昇も、地球上で唯一生き残った人類が作り出したこの海上都市も、そしてリヴスの強襲も、これまで何度勉強したことか、と栄児は思う。
今現在、世界というものが、こんな直径四・五キロメートルの閉鎖された空間に詰まっているのだから世界規模の視点もあったものではないだろう。
どの風景にも厚さ一〇〇メートル、高さ三キロの鉄筋コンクリートで固められた防壁が当たり前のように視界に入りこんでくるのだ。
元々、防壁は急激な海面上昇への対応策だったのだが、今やリヴスから身を守る盾となり、また世界から人類を隔離する壁となっている。世界とは何とも狭いものだな、とそんな風に栄児は常々考えていた。だがそれは同じく、彼も通っている学校という狭い空間にも言えることなのだろう。
何故なら、結局彼のいる場所は、囲われた都市の囲われた学び舎に過ぎないからだ。
栄児の在籍するこの防衛学校には中高といったものが存在しない。六年間、軍事的な教育課程を経て自身の進路を決定するのだ。
卒業して軍部に加入するには、最終学年である第六学年の学期末の試験に合格しなければならず、最近は総じてその試験対策とやらで、何かとこれまでの復習をさせられる。
また、ここ数カ月、模擬戦闘と称して実戦に近い形の授業も取り入れられていた。今まで、どちらかといえば勉学的側面に実地訓練要素を加味したかのような校風だったのに、これは一体どういうことなのか、と栄児は懐疑的に思っていた。
バーチャルな空間で仮想コンピューターを相手に、射撃演習や白兵戦の訓練がなされるなど、今までになかったことなのだ。
栄児は今年で第六学年である。防衛学校に在籍することができる最後の年だ。
彼の成績でいけば、試験など造作もなくパスできるだろう。
その飽きもせず繰り返される同じような勉強に、栄児は一抹のもどかしさを覚えていた。
果たしてそれは自身の将来性を考えてのことなのか、単に今を持て余す若気の至りなのか、このときの栄児には判断がつかない。
しかし、無愛想な表情の裏には、もう一つの理由があった。
それは、ここ数日栄児は自宅での謹慎処分を受けていたからだ。
先日の戦地への強行突破の一件から、学校側は栄児と巽の両名に対し、事務的な叱責と自宅謹慎を言い渡していたのだ。
だが栄児は、何もこの処分内容を不服に思い、腹を立てているわけではない。
当初から、過ぎた行動だということは、よく理解していたし、半ばバレたときは禁固刑までも覚悟していたほどだ。
栄児はそのように考えていた。
それ故に、想像以上に軽い処罰に驚きと共に肩透かしを喰らった気分にさせられたのだ。
彼の生真面目過ぎる性格が、物事の妥当性を過剰なまでに疑う。
先日の一件で一番驚いたのは、防衛学校の教官や学生の方だった。彼らはまさか学年トップの優等生がこのような事件を起こすなどとは思いもよらず、知らせを受けたときは別の人間ではないかと耳を疑ったほどだ。
逆に共犯者である巽に関しては「あいつならやりかねない」という声が圧倒的だったのだが。
授業が終わったようで、周りの生徒がぞろぞろと立ち上がる。
「台場、起立だぞ。き・り・つ」
世界史の担当であり、栄児のクラスの担任である定年前の教官が、心ここにあらずといった栄児に声を掛ける。
出遅れて栄児も立ち上がり、礼に参加してから不貞腐れたように、ドサッと席に座った。授業も終わり、今日はもう帰るだけである。
「台場」
そのとき教官が栄児の名を呼んだ。
「はい、なんでしょうか」
「あとで、私の教官室に来なさい。お前に話がある」
「え、何ですか?」
「ここで話すことではない。いいか、必ず来るんだぞ」
「はい」
教官の言い方から、何かを咎めるといった雰囲気は感じられない。
先日の一件については、もう既に話すことは話した。これ以上、語ることなどは何一つ栄児は持ち合わせていないのだ。軍部から課せられた守秘義務にしても、継続して守っているはずだ。
では一体何についての話なのか。
栄児は談話を楽しむ同級生を尻目に教室を後にした。
*
こんこん、と栄児は教官室の扉をノックする。
「入っていいぞ」
「失礼します」
先日の一件が尾を引いて、この担任の教官にも迷惑をかけてしまったという事実が、ここでの栄児の言動に後ろめたさを持たせる。
教官との二人きりの空間。
「教官……。先日の件でしたら、もう自分は話すべきことがないというか、何と言うか」
「何だ、まだ気にしてたのか。今日はそのことに関してじゃないよ。ほら、お前に開封厳禁の手紙が軍部から届いている。これを渡すために来てもらっただけだ。何も、お前に説教しようと思って呼んだわけじゃない」
「そうなんですか。あの、それでこれは一体……」
「私も詳しいことは聞いていないのだがな、どうやら軍部がこれから発足するプロジェクトにお前が選ばれたらしい」
「プロジェクト……」
そんなことは聞いたことがない、と言いたげに栄児は無愛想な顔をしかめた。
「私も詳しいことは分からないんだが、何でも海上都市の存亡に関わる規模のものだとだけは聞いている」
「早い話が、詳細はこれを見ろ、ということですね」
「ああ。そういうことだから、もう行っていいぞ。ここを出たらすぐに開けてみるといい」
「……わかりました、では――」
栄児が教官を背にしたときだった。
「あ、そうそう」
教官は、ふと思い出したように彼を呼び止めた。振り向く栄児。
教官は動物でも撫でるような穏やかな顔だ。
「あの件に関しては、あんまり気にするな。覆水盆に返らずと言ってな。やってしまったことはしょうがないもんだ。逆に私は嬉しくなったぐらいさ、お前は若いのにしては元気がないんでちょっと心配だったからな。成績が優秀な割に大人しくあまり目立ったことをしなかったから、今回の一件でお前が他の若い奴とあまり変わりないことがわかって正直ホッとしたぞ」
「は、はあ」
「ま、頑張れよ。お前には期待してるぞ。リヴスが現れて、もう百年近くになるか……。私はな、案外お前のような奴がこの戦いをどうにかしてくれるんじゃないかって思っているんだ。次の世代のニューリーダーってやつだな」
「そんな大それた柄ではないですよ」
栄児が謙遜していると、何かあったらいつでも話しに来い、と言って教官は彼にちょっとしたエールを送った。味方をしてくれる人がいるというのは誰であろうと悪い気持ちにはならないものだ。
おそらく、先の件が彼の栄児を見る目を変えたのだろう。
栄児は教官室を退室し、廊下で即座に渡された軍部のサイン入りの便箋の口を切る。そこから出て来たのは住所と地図が書かれた一枚のプリント用紙だった。
〝ここへ本日の午後五時までに顔を出すように〟
と直筆で書かれている。達筆なところを見るに規律の整った人物像が自然と浮かび上がってきたのだが――その下に差し出し人の名前も記されていた。その差し出し人の名は、
「――田和昭和?」
*
栄児は、学生鞄を背負い、居住区域を後にした。
手紙に記された目的地は防壁の麓近辺に位置しており、工業地帯やら軍事施設やらが整然と建設されている地区にある。
この区域は、水路を挟んで居住区域をぐるりと囲むようにして広がっている。
要は、円形に建設された都市の外側に位置しているのだ。
ここでの仕事に従事するような人間以外は、あまり足を踏み入れない地区である。
また、中心部から離れるにつれて、都市開発の遅れが目立つ。
というのも急激な海面上昇に都市の復興が追いついておらず、三百年経った今でも、資源不足もあって所々で都市の一部が海に沈んでいるのだ。
栄児が受け取った手紙には、〝北東地区二丁目の三番地〟と書かれている。
「ここらへんに来たのは子供の頃以来になるか。よく親父に連れてきてもらって、こうして都市の全景を眺めたっけ……」
栄児は橋を渡り終えると、水路沿いの桜並木に目をやりながら、感慨深気に歩いてみた。
先ほどまで降りしきっていた雨は、霧雨に変わっている。
向こう岸に見える都市は、その霧雨によってどこか儚げに栄児の目に映った――蜃気楼のような摩天楼。
区画整備の設計上、都市の中心部に行くにつれて住宅地の背丈が高くなっており、中心部に関してはオフィスビルや高層マンションなどが乱立している。
その中心には、頭一つ突き抜けた一つの塔が存在する。
塔を創られた都市の全容はまるで、建造物で構成された一つの山のようになって見えた。
栄児は、久々に見るそんな都市の光景に見蕩れてしまい、足を止めた。外から都市を眺めるときは、いつもそうだ。
だが、久々に見る都市は今まで見てきた風景とは少し違って見える。それは単純に、彼の背丈が伸びたから見える風景が違って見えるのか、ここ数年で彼の心象に変化が起こったのか。
都市に大きな変遷が見られないので、おそらく彼自身の内外の変化が大きいのだろう。
防衛学校を卒業後、軍部へと進路を進めた場合、おのずとこの都市を守る側に回る。
『お前じゃ世界は守れない』
父との会話でどの文脈で使われたのかは曖昧で、あまりしっかりとは憶えていないが、こんなときは決まって父親のこの言葉を思い出す。
これまで、いくら学校でいい成績を収めようとも、父の言葉の一つ一つを思い返すたびに栄児は「まだまだだな」と加減を知らずに自身を戒めてきたのだ。
(――親父。俺、親父が死んでから結構頑張って来たけど、これでもまだこの世界を守れるほどに強くはないのかな)
今このときも、陽炎のように淡い都市の風景を見つめ、栄児はふとそんなことを思った。
そんな走馬灯のような一時。自分の世界に浸る栄児を、現実に呼び戻す人物がいた。
「栄児さん?」
「――?」
振り向くと、栄児の視界には誰もいない。が、徐々に視点を下ろしていくと、そこには小柄な少女が、ちょこんと澄ました顔をして立っている。
「台場栄児さんですね。場所、わかりにくいだろうから案内してやってくれって課長に言われて来ました」
「課長?」
「田和昭和。特殊武装遊撃部隊三課の課長です。当の本人は課長と呼べと言っていましたので、私は課長と呼ばせてもらっています」
彼女の顔は、どこか情の薄い猫のように可愛い顔をして我関せずといった具合だ。
春に差し掛かったばかりなのに、既に露出の高いワンピースを着用しているあたり何か計りかねる女の子である。
剥き出しの白い肌が霧雨に映え、やたら長い亜麻色の髪がたおやかに伸びていた。そんな長髪を、耳の脇とうなじで結った不思議な髪型をしている。
(何故こんなところに女の子が?)
栄児が何かを勘ぐった様子でいると、彼女はそそくさと進行を進めた。
「課長がお待ちです。急ぎましょう」
少女は、相も変わらず無表情だ。ロボットとの会話が実現したら大よそこんなものかもしれない、と栄児は一瞬考えた。
「こっちです」と栄児の意向もお構いなしに勝手気ままに歩きだしてしまったので、栄児は彼女のことを追うしかなかった。
「君は、えっと……?」
「わたしは汐留、汐留リィと言います」
「りぃ? 随分変わった名前なんだな」
「それはお互い様じゃないですか、台場栄児さん。どこかで聞いたような、どこかの地名から拝借したような、そんな名前ですからね」
汐留リィは少々変わったことを言う。
変わっているのは名前だけではないようだ。
「…………なんだかよくわからんが、君はその課長の下で何をしているんだい?」
「知りたいですか?」とチビッ子の割に何だか挑戦的な態度である。
彼は、これに普通に答えたら負けな気がする……、と直感的に感じた。しかしここまで来て、何も聞かないわけにはいかない。彼女の無表情に隠された、したたかな性分を栄児は薄々ながら感じ取っていたために素直な返事は躊躇するところではある。
「ああ、知りたいな」
「ヒミツです」
(そんなことだろうと思ったよ……)
狙って外したようなリィの返答に栄児が〝おいおい〟と苦笑を重ねると、リィはゆったりとした口調で言った。
「ごめんなさい。規則なのでわたしの口から言うのは、ちょっと……。課長とならいくらでもお話をしてください。今日はそのためにあなたを呼んだのですから」
「規則、か。どうやら機密にするほどの重要なことなんだな。それだけ分かれば十分だ」
「分かってしまいましたか。じゃあヒント、なんて必要ないですよね」
「あるなら最初から言おうな」
無表情のくせに無口ではない。栄児は見るからに年下の少女に翻弄されていた。そのとき、栄児は彼女の口元が心なしか緩んでいるように見えた。薄ら笑いとか、そういう嘲笑的なものではなく、どこか微笑ましいようなそんな印象を受けた。
くたびれたようにそびえる工場街を抜け、しばらく歩いたところで栄児が尋ねた。
「目的地はまだなのか? 工場街はとっくに抜けたぞ、うろ覚えだがそろそろなんじゃないか……?」
「あれですよ」
リィが指差した方向には周囲を空き地に囲まれたプレハブ小屋が水路沿いに建っているのが見えた。
「俺は、軍部の新しく発足するプロジェクトに呼ばれたはずなんだが……」
彼はプロジェクトと言うからには、何だか壮大なものを想像していたようだ。
「何を言っているんですか栄児さん。あれが、私たちのこれから根城にする建物ですよ」
「待ってくれ。手紙に載っていた地図だと、ほら。外観こそ載ってないが、なんか周りが基地っていう感じで描き込まれてないか?」
栄児がリィに地図を見せた。
「これはいわゆる誇大広告というやつですね。他の駐屯所を作るのに予算を使い果たしてしまったので、わたしたちの拠点はあのような〝あり合わせ〟という感じになってしまったそうです――オトナは嘘つきですから」
リィは子供のくせにわかったような口を利く。
そうして栄児はされるがままに、新築二階建てのプレハブ基地の中に案内された。内装も何か特別だというわけでもない。
額縁に入れられたありていの注意事項に、ありがちに社訓めいた言葉の羅列がより日常を際立たせ、そして気付けば、とあるドアの前までやって来ていた。
ネームプレートには、そのまま〝課長室〟と書かれている。
「こちらです。ではわたしはここで――」
そう言うと、リィはペコリと軽い会釈を済ませ、すたすたと廊下を歩いていってしまう。
「あのさ」
栄児は、彼女に礼でも何でも、何か声を掛けたくてついつい呼び止めてしまった。
リィがチラリと栄児の方へと振り返った。
「案内、ありがとう。えっと……」
「リィでいいですよ、栄児さん」
「ああ。リィ、案内してくれてありがとう」
「お仕事ですので」
では、と言って彼女はその場から去っていった。
「――お仕事、か」
さてと、と気持ちを切り替えてドアをノックする栄児。
中からは「はいはい、入っていいぞ」という乾いた男性の声が聞えたので栄児はドアを開けた。
「初めまして、台場栄児君」
ありがちなオフィスデスクに肘をつき手を絡ませた中年の男が栄児を迎え入れた。
無理矢理事務的な用具を詰め込んだような部屋に一人の男と青年が対峙する。
男は全体的に若々しく見えたが、口元の皺などから見て、中年という言葉がぴったりと当てはまるようだ。その様相は黒の背広に身を包み、まるでずっと喪に服しているような印象を受けた。
どこか薄味の顔の男は言った。
「俺が手紙の差出人、田和昭和だ、よろしくな」
「はい、よろしくお願いします」
「楽にしていいぞ。ここは厳密には軍部の管轄外だからな。そう、かしこまることもないさ」
「了解しました。さっそくですが自分は今日何のために呼ばれたのかを、お教え願いますか」
「意外とせっかちなやつだな。まあいいさ、単刀直入に言おうか。お前には対リヴスの特殊武装遊撃部隊三課の隊長を務めてもらいたいと考えている」
(リィが口にしていた謎の部隊のことか)
だが昭和なる人物が何のことを言っているのか分からない。長ったらしい名称だという一点だけで良い予感というものが沸いてこない。
「特殊武装? 何ですか、それは」
「通称、特装三課。まあ早い話が、新型の兵器で武装した集団をまとめ上げてくれってことだ。これまでなら従来の兵器で何とかリヴスに対処することができてたんだがな、新型が群れに混じるようになってからは軍部も相当な苦戦を強いられるようになった。先日の一件が良い例だ」
先日の一件という言葉に、栄児には苦い思いを感じる。
「お前も見たんだろ。黒い体躯に沿って毛細血管のようなものが青く光る新種をさ」
「あれが……」
と言った時点で、栄児は、はっとさせられた。
「御存じだったんですね」
「まあ、あれだけ派手にやってくれればな。でも良かったじゃないか」
「?」
「あんまり重い処分が下されなくて」
昭和の言い回しから、栄児の中である憶測が込み上げて来た。
「……もしかして、あなたが働きかけて私への処分を軽減させたんですか?」
「どうだろうね。そんな話もあったような、なかったような……」
昭和は聞いたものを右から左へ受け流すような態度で言った。物事をふやかし、あやふやにして、さもなかったことにしようとするそんな具合に。
「あまり私の選択の自由は利かないようですね」
栄児がそれを聞いて少し渋った顔をすると、彼からは意外な反応が返ってきた。
「断ることもできる。一応、お前は学生の身分だし」
栄児は、昭和から得体の知れない余裕を感じるとともに、本能的に身の危険を感じた。
それは昭和からの直接的な危害というよりは、例えば、その先は必ず滝つぼが待っているだろうというような、そういうお約束のようなものである。
「自分たちは誰よりも前線に出るということですよね。都市の存亡を背負うと」
「ああ、そうなるな」
栄児は、そんな昭和の言い分を受けて少し押し黙ったが、丁重に口を開いた。
「折角のお話ですが、お断りさせていただきます。自分はまだ、その域には達していないでしょう。それに、自分より実戦経験を積んだ人間が他にも多くいるはずです」
既にリヴスとの交戦経験のある人間が軍部には多数いるはずなのだ。それは直接的にしろ間接的にしろ、自分よりはそっちを使ったほうが効率が良いという栄児の見方だった。
「確かに、お前より経験豊富な人間は多い。だが今回のプロジェクトは経験を問う以前に前提条件によって、彼らは弾かれる。それは今説明することじゃないけどな」
「折角の抜擢ですが、申し訳ありません。やはり自分には……」
「あ、そう。それはそれでいいんだ。こっちとしては残念だけど」
「良い御返事ができなくて申し訳ありません、では失礼させていただきます」
そう言って、昭和を背にしようとしたときだった。
「でもな、台場。それは言い訳に過ぎないんじゃないのか」
「今なんとおっしゃいましたか」と栄児は下げた足を戻す。
「経験不足なんて、そんなことは上っ面の口上なんだろって言ってるのさ。〝こんなとこで道草食ってる場合じゃない。俺は早く士官として出世しなくちゃならないんだ〟とか思ってるんじゃないのか? 上に行けば、もしかしたら死んだ父親に認めてもらえるかもしれない、とか――」
「な――」
動揺する栄児を目の前にして、昭和は続けた。
「もっと言えば、五年前に起きた、納得のいかない父親の死について何かわかるんじゃないのか、とか」
「何をそんな!」
「わかりやすいやつだな、お前は。そんなんじゃ左遷されて俺のようになるのがオチだぞ。大人ってのは、こう上手く立ち回らなきゃな」
「俺は!」
栄児の高ぶりに、煽るように応対する昭和。
「なあ台場、俺と取引しないか?」
彼の口から出た言葉は、栄児が予想だにしなかったものだった。
「取引?」
「ああ取引だ。お互いの手札はざっとこんな感じか。俺は、お前が知りたいと思う情報を持っている。お前の父親の死に直接つながるかも知れない情報だ。そして、お前は俺の欲しいと思う能力を兼ね備えている。どうだい、釣り合いは十分取れていると思うが」
「あんたが何を知っているって言うんだ。仮に俺が親父の死の真相を追っているとしても、それを言い当てたからと言って、あんたの持っている情報が確かなんて保証はどこにもない」
語気を強め栄児が反論をする。一方で、昭和は、まるで狂った牛をいなすようにヒラヒラと栄児の怒気をかわした。
「だからと言って、このまま出世してもお前が真相に辿り着ける可能性は極めて低いだろうな」
「そ、それは……、だからって――」
それは分かっている。だからこそ“呼ばれたからには何か自分にとっての利があるのではないか”という期待もどこかで持ちながら、ここへ来たはずなのだ。
そして何より、栄児は彼の言っていることは残酷なまでに正しいと分かっていた。
一介の学生が何をしようとも意味はない。表立つことのない水面下の結託が世界を動かしている。
栄児に対する処分の軽減が、その一つとして、そのような大人の世界の蠢きを証明してしまった。
「だからだよ。もうお前も子供じゃないんだろ。与えられた情報の真偽を確かめる力は備わっているはずだ。信じるもお前、確かめるもお前。問題は何を選択するかだ。お前が自分で考え自分で決めるといい。自らの眼で確かめてみろ」
昭和は栄児の抱く世界に対する疑心――それをすべて肯定する力を持っているように見えた。
「……自らの眼」
栄児は昭和から伏し目がちに視線を外した。
「そして決断の早さ。時間をください、なんてのはなしだ。やるのか、やらないのかここで決めろ」
「……あんたはどこまで知っているんだ?」
「ノーコメント。そこは取引内容に含まれる領域だ。だが一つだけヒントをやろう」
――お前の親父はな、実験中の事故で死んだんじゃないぞ。
「今なんて……」
「おっと、ここから先は言えないな」
「今――、今なんて言ったんだ!」
栄児は彼なりに剥き出しの感情を昭和に向ける。
「――ここから先を知りたいか? なら、隊を率いてリヴスを倒せ。話はそれからだ」
「くっ……」
栄児は一息つくと、熱くなった気持ちを無理矢理冷まし、絞り出すように声を発した。
「……教えてくれ、親父がどうして死んだのかを」
「取引――成立でいいんだな?」と言って昭和は手を差し出し、合意の握手を求めた。
未だ納得がいかない栄児は、顔を曇らせながらもゆっくりとデスクへ近づいて行く。
「必ずあんたから真相を聞きだしてみせる」
そう言うと彼は昭和の握手に応じたが、喉のつっかえが取れる気配はない。
だから、この場でそれを聞かなくてはならなかった。彼が何者であるのかを。
「請け負う前に、これだけは最初に聞かせてくれないか、田和さん。あんたは一体……」
栄児の問いに昭和は、過去を振り返るようにして、こう答えた。
「俺か? さてね。お城から出られなくなった人間の一人とか、そんな具合かもな」
つづく