02/13 Sun.-2
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何で。
イライラする。
何で、そんなにキンチョーしてんだ、と。
皿を割ったり、フライパンをひっくり返したり。
夜遅く、コンビニに買い物に出たり。
挙げ句。
「メイ!」
こうやって風呂場に飛び込むのは、これが2回目だ。
前は、彼女が風呂でのぼせてしまった時。
しかし、今回はお風呂に行ってから、ほんのわずかしかたっていない。
バッと、すりガラスのドアを開け放つと。
「キャアッ!!」
別の意味で、悲鳴があがった。
明るいバスルームで、彼女は洗い場に座り込んだまま、身体を隠そうと必死の様子だ。
側に転がっているのは洗面器。
どういう状態だったかは分からないが、どうやらその辺りで滑ったか転んだかしたらしい。
「だっ、大丈夫…ご、ごめんなさい」
身体をかばうように、背中を向けられる。
白くて小さな背中。
彼女は、そうしてカイトから自分を隠してしまおうとするのだ。
肩を震わせて。
クソッ!
カイトは。
服のまま、バスルームに入り込んだ。
一歩目から水たまりを踏んだらしく、冷たい感触が靴下を通して足の裏に伝わったが、そんなことも気にしなかった。
それよりも、今もっとカイトをとらえているものがあったのだ。
何で、何で!
へたりこんでいる彼女の身体を捕まえると、ぐっと抱え起こす。
「え?」
「あっ!!!」
「きゃっっっっ!!!」
彼女の声が、コマ送りのようにぶつ切りで3回続いた後。
ドボンッ!
2人、湯船の中に飛び込んでいた。
後ろから彼女を抱きすくめたまま、少し熱い湯の中に沈む。
悠長に服を脱いでいるほど、彼の心中は穏やかではなかったのである。
自分が、どんなにバカなことをしているかは、後で後悔すればいいことだった。
今は。
「キンチョーすんな!」
柔らかい素肌を強く抱いたまま、後ろから強い声を出す。
何も、緊張することなんかないのだ。
そりゃあ、いつもと違うことを、人前でするのかもしれない。
しかし、だからと言って、メイがおかしくなる必要はないのだ。
いつもと、同じようにしていればいい。
そんな彼女を、カイトは特別だと思ったのだから。
「カ…カイト…」
彼の腕が、シャツなのに驚いたのだろうか、身じろぎと戸惑った声が応える。
しかし、ぎゅっと抱いて動けないようにした。
「だって…」
濡れたシャツの腕にそっと触れながら、メイはようやく観念したのか、ぽつりと言った。
しかし、それは観念したワケではないということがすぐに分かった。
グスッと、湿った音がしたからだ。
「私だって…緊張したいワケじゃないのに、手が震えちゃうし…身体が言うこと聞かないし……迷惑いっぱいかけて……私…わた…し」
ぎゅうっ。
泣くのを我慢するために、カイトの腕をしっかりと掴む。
やめろ。
胸まで、ギュウッとされるのだ。
泣く女は、大嫌いだった。
鬱陶しいと思ったし、女は自分の都合で好きに泣けるというところが嫌いな要因だったのだ。
しかし、好きな女の涙だけは違う。
こんなに、苦しい思いを味わわされる。
カイトにとっては邪魔な行事でしかない結婚式とやらも、彼女にとっては一世一代の大舞台なのだ。
うまく花嫁になれるかどうか、不安がっていた。
不安なんかねぇ!
カイトが持っている会社の株、全部賭けてもいいくらいだった。
メイが、自分にとって世界一の花嫁になることなんか分かっていた。
それを見た瞬間の自分は、きっとそこらの柱に頭くらいぶつけるに違いない。
「何も心配すんな…」
しずくが、一粒玉になってくっついている首すじに、唇を寄せた。
泣いている女を宥めるなんて技は、カイトにはない。
辞書を全部探して逆さまにしても、ホコリくらいしか出てこない。
けれども、慣れない口で彼は懸命にメイをあやした。
2人。
ゆだる寸前になって、ようやく彼女は落ち着いた。
「手…握ってもいい?」
暗くしたベッドの中で、彼女はお願いするように言う。
風呂場での出来事から、何とか落ち着きはしたものの、不安は完全に払拭されていないようだ。
無造作に片手を伸ばすと、飛びつくように両手で触れてくる。
彼女のやわらかい手のひらに包まれると、カイトの方が落ち着かなくなりそうだった。
「もっと側によっても…いい?」
ぐいと抱き寄せる。
明日は、早く起きなければならない―― それは、さんざんソウマから言い含められていた。
だから、今夜くらいは我慢しようと思っていた。
彼だって、自制しようと努力しているのだ。
だから、あまり挑発されると困る。
本人にその気がなくても。
そのまま、しばらく無言だったので、眠ったかと思ってほっとしていると。
「カイト…起きてる?」
そっと呼びかけられる。
「ああ」
短く答えた。
抱きしめている腕の力を抜いていないのだから、それは彼女も分かっているだろうに。
「私ね…子供の頃、ずっと不思議に思っていたことがあったの」
その腕の中で、ぽつりと言葉が落ちる。
メイも、眠れないのか。
『緊張虫』用の殺虫剤でもあればいいのに、この世にはそんな便利なものはない。
「シンデレラは、お城の舞踏会で、転ばなかったのかなって…ほら、ダンスを踊るじゃない? 王子様と…ずっと掃除や洗濯をさせられていた彼女が、いきなりあんな大きな広間で、みんなが見ている前で、転んだり王子様の足を踏んづけたりしなかったのかなって…それが、ずっと不思議で」
胸の中に、唇を埋めるような声だ。
直接、カイトの心臓と話をしているかのように感じる。
彼の鼓動の速度を、聞かれるんじゃないかと思うくらいだった。
シンデレラ。
子供の頃に、聞いたことがあるくらいか。
カイトは、おとぎ話には興味がない。
ゲームを制作する時に、時々モチーフとして使われることはあったけれども、その話自体には興味がなかった。
ただ、余りに有名な童話だったので、話の筋くらいは知っている。
「魔法がかかってたんだろ…」
カボチャが、馬車だったか?
とにかく、そんなカンジだったはずだ。
その時に、ガラスの靴を魔女がくれたのなら、ダンスを踊る能力だっておまけでくっつけてくれたのかもしれない―― その程度の、浅はかな答えだった。
彼女の望んでいる言葉とか、そういうのは一切考えずに、ぽろっと口からこぼれただけ。
「そっか…魔法がかかってたのね」
なのに。
彼女は、喉にずっとつかえていた何がか、とけたように小さく笑った。
そして、クマのぬいぐるみにそうするみたいに、ぎゅっと抱きしめられる。
「それじゃあ…私も、カイトに魔法をかけてもらったら…明日は転ばないかな」
ま、魔法だと??
彼女は、他愛ない言葉として出したのだろうけれども、彼の方は大変だ。
一体、どんな魔法がかけられるというのか。
カイトには、金もある。
地位もある。
けれども、今までそれらで彼女をうまく喜ばせたことなど、本当に数えるほどだった。
魔法は、金では変えないものなのだと、イヤというほど思い知らされてきたのである。
そんな彼は。
しばらくの時間、迷い巡った挙げ句。
額に。
頬に。
そして―― 唇に。
そっと、唇を寄せたのだ。
魔法の呪文が、何も出てこなかったのである。
一度、唇を離す。
もう一回。
柔らかい唇が、ふっとほころんで、彼のキスを受け入れてくれる。
もう一回。
魔法の『魔』の字の中には、『鬼』が隠れている。
ちょっと悪く使うと、すぐ林の中から鬼が現れるのだ。
この時。
カイトは、キスを止められなくなった。
彼女を、リラックスさせなければならなかったのに―― 鬼が現れたのだ。
一匹の鬼だけで食い止められたのは、彼の精一杯の理性だった。




