01/16 Sun.-1
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るんるるーん。
メイは、床から少し足が浮いていた。
お天気もよくて、さわやかすぎる日曜の午後だ。
彼女は、調理場の方でお湯をわかして、お茶の準備をする。
勿論、用意するのはあのマグカップを二つ。
メイの方は紅茶なのだから、ティーカップにすればいいはずだ。
その食器もちゃんとあるというのに、彼女は二つのマグカップをトレイの上に並べては、にこにこするのである。
何度も何度も、トレイの上でくるっと回して角度を調整したり、位置を変えてみたり。
ずっと眺めていたかった。
これから、二人でお茶をするのだ。
昨日、引っ越しがようやく終わって帰ってきて。
そして―― 夜に、お茶をした。
出ていく前の時のような、静かなお茶の時間が、また戻ってきたのだ。
しかし、あの頃とはかなり雰囲気が違って、それが彼女を驚かせた。
前のカイトは、割とゆっくりお茶を飲んでくれたのに、昨日の彼はかなりのハイペースで。
そんなに喉が乾いていたのかと思い、おかわりをついでこようかと聞くと、『いらねぇ』と即答が返ってきた。
きっと、下までコーヒーを用意しにいく彼女に遠慮したのだろう。
上の部屋の方に、お茶の用意が出来る環境があればいいな、とちょっと思ったけれども、そんなゼイタクなことを言ったら、バチが当たりそうだった。
メイも飲み終わって。
それから、二つのマグカップを片づけようと思ったけれども。
できなかった。
後片づけをしないと気になると言ったにもかかわらず、昨日の彼は譲ってくれなかったのだ。
そして、そのまま。
かぁっっ。
メイは、カイトのマグカップを両手で持ったまま、真っ赤になってしまった。
その先のコメントを、何も考えられなくなってしまったのだ。
何かもう。
すごく、熱い人。
何度となく、それを驚きとともに思ってしまう。
あんまり、その記憶に捕まってしまったために、やかんのお湯が沸騰したのにすぐには気づけなかった。
はっと振り返って、ガスを切る。
そして、カイトのためにコーヒーをいれる。
彼はいま、2階の部屋で仕事をしているはずだった。
仕事が忙しいのは、相変わらずのようだ。
なのに、毎日定時に帰ってきてくれる。
多分そのせいで、いま家で仕事をしているのだろうが。
でも、それはすごくメイにとっては嬉しいことだった。
仕事に没頭されて構ってもらえなくても、すぐ側にいてくれるだけでよかった。
本当は、それさえも物凄くゼイタクなことのように思える。
一緒に―― いられること。
その事実だけでも、ドキドキしながら。
メイは、コーヒーと紅茶のマグカップが乗ったトレイを持って2階に向かった。
お仕事の邪魔をしないように。
そっとドアを開ける。
背中が見えた。
いままでノートパソコンがあったところに、別の大きなパソコンが置かれている。
その周囲にも、彼女の理解できないようないろんな機械が置いてあって。
足下に這うケーブル類が、まるで大きな川のようだった。
会社から持ち帰ってきたというそれは、ずいぶん大がかりな仕掛けに見える。
これから掃除をする時、かなりその周辺は緊張してしまうこと間違いナシだった。
うっかり壊してしまいそうで怖いのだ。
そ。
音を立てないように緊張しながら、彼女はテーブルのところにトレイを置く。
集中しているのだろうか、カイトの視線が追いかけてくることはなかった。
まっすぐ、ディスプレイに注がれている。
あ。
吸い込まれるように、メイはその横顔を見た。
開きかけけた彼の唇が、一瞬きゅっと閉じて―― 意識が、様々な数列の海の中を駆けめぐっている目の色。
その中に、ディスプレイの白い光が反射していた。
彼女が。
これまで、一度も見たことのない顔。
仕事をしている、男の顔。
ドキン。
胸が、騒いだ。
カイトが仕事をしている、その真剣な横顔に、惹きつけられる。
その表情の中には、彼女の力はどこにも及ぶ隙間はない。
それが寂しいとか思うより先に、心が震えた。
ずっと見ていたい。
普通なら、自分が見ることの出来ない表情のはずだ。
いままで、家にいるカイトしか知らずにいた彼女は、すごく自分が損をしていることを知った。
彼は、こんな顔をすることは出来るのだ。
きっともっと、ほかにもたくさん知らない表情があるのだ。
もっと。
見ていたい。
じっと。
※
物音は―― たてなかったのに。
何かが、ふっと途切れた。
カイトが、すっと息を吸ったのが分かったのだ。
指先が、一度宙に上がって、そして一番大きなキーを叩いた。
そして。
ハッと、視線が動いた。
瞬間的に、自分が彼の視界に入ったのが分かる。
「あっ…あの、お茶…」
大丈夫。
そんなに長い時間ではなかったので、まだコーヒーは冷めていないはずだ。
同時に、少し残念だった。
もう少し見ていたかったのだ。
砂時計の砂が、全部落ちてしまうくらいの間だけの魔法。
カイトは、コンピュータの前から立ち上がってしまった。
「声…かけろ」
じっと見られていたということに気づいたのだろうか。
彼が、不満そうな瞳で言った。
でも、少しだけ頬の端が赤いような気がする。
もしかしたら、照れているのかもしれない。
そんな些細な変化に、気づくことができた自分が嬉しい。
前よりも、もっとカイトのことを理解できたような気がするのだ。
あの空気を壊したくなかった。
なんてことは、彼には言えない。
怒られてしまいそうだ。
凛とした顔で仕事をしている姿―― カッコよかった。
そんなことも、彼には言えない。
彼女の視線が気になって、自宅で仕事をしてくれなくなってしまうかも。
だから。
大事に大事に、自分の中の『カイト・アルバム』の中にしまっておきたい。
ただ曖昧に笑って、彼にコーヒーのマグカップを渡す。
何でもできそうな長い指が、すっとその青いカップを持って。
ちっちゃくて不器用な自分の手で、白いマグカップを持つ。
向かい合わせに座って。
そう思うだけで、顔がニコニコになってしまいそうなのを、ぐっと我慢する。
慌てて、紅茶に口をつけた。
ちょうどいい温度の紅茶―― さっき、きっとカイトを見ている間に、魔法の薬でも入れられたみたいに、すごくおいしい。
カイトのコーヒーにも、魔法がかかっていればいいのに。
すごくおいしいと感じてもらえたら、きっと彼女にまたコーヒーをいれて欲しいと思ってくれるだろう。
そんな、ささやかなことでも、彼にとって必要とされたかった。
別に。
やっぱり。
何も話す言葉はない。
でもメイは、カイトに向けて全神経を開いていた。
彼が洩らす吐息の一つさえ、敏感に感じるくらい。
静かだけれども、幸せな瞬間。
ピンポーン
そんな空気を―― チャイムが破った。
誰か、お客が来た証拠だった。
同時に、二人の間の空気も崩れる。
「お客さま?」
メイは立ち上がった。
「出んな」
しかし、速攻でその動きが制される。
え?
彼の方を見ると、物凄く不機嫌そうな表情をしていた。
いやもう、怒っていると言ってもいいくらいだ。
「でも…お客様…」
「座れ!」
大きな声に気圧されて、メイは慌てふためいてソファに座った。
このまま放っておけば、お客は主が不在だと思って帰ってしまうだろう。
そういえば、玄関にはカギをかけたままだったような気がする。
おそらく間違いなく、お客は入ってはこられない。
誰か分からないけれども、門前払いは間違いなかった。
チャイムは、あと4回鳴った。
メイはそわそわとしたけれども、カイトが絶対に行くな、というようなオーラを出しているような気がして、ソファから身動きもできない。
5回目のチャイムは―― 鳴らなかった。




