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01/15 Sat.-4

 ベッドを車に積み込んで、彼女の部屋に戻ってくる。


 手を見ながら。


 あのベッドは新品ではなかったのだろう。


 金具がサビていて、カイトの手を赤く汚してしまったのだ。


 このまま服でも触れば、服も赤くするに違いなかった。


 彼は流しに立つ。


 服を汚すのがイヤだったワケではない。


 だが、服を汚してしまうと、それをメイが一生懸命、手間暇かけて洗うだろう。


 それが、イヤだったのだ。


 バチャバチャと手を洗う。


 何気なく、ちらと横を見ると。


 台所周りの片づけを、まだ彼女はしていないようだった。


 食器などが、脇のちいさなケースのようなものに入っているのが見える。


 透明なカバーなので、中身が分かるのだ。


 いくつかの食器が、伏せて置いてあって。


 統一性のない茶碗や皿。


 ここで、朝食を食べた時のことを思い出す。


 あの味は、いまでも忘れていない。


 彼女と、数少ないものを分け合った日―― けれども、あんなに満たされたことはなかった。


 ん?


 記憶にひたりかけたカイトだったが、不意に見えた何かで、思考も視線も止めてしまった。


 食器ケースの中の、ただ一点。


 なぜか、見覚えがあるようなものが入っていたのだ。


 しかし、正確にそれが何か言い当てることが出来ずに、ケースを開けると、濡れた手のまま伸ばして掴みだしていた。


 これは。


 記憶がうまく合致しない。


 一体、これが何なのか――


「……!」


 分かった瞬間、カイトは硬直した。


 これは。


 この。


 カップは。


 白い、マグカップだった。


 何の柄もなくシンプルで、本当にただの白いマグカップ。


 一見特徴が何もないそれを見て、しかし、カイトは『あのカップ』であることを確信していた。


 振り返る。


 メイを、だ。


 彼女はそこにいて、片づけの作業をしているはずだった。


 しかし、作業の手は止まっていた。


 そして、メイは―― 自分を見ていた。


 驚いて、動けない顔だ。


 視線は、カイトの持っているそのカップに注がれている。


 間違いなかった。


 これは。


 結婚する前の、彼女が出ていく前の、夜のお茶のカップだったのだ。


 カイトの中で、記憶が一気によみがえる。


 夜のお茶。


 彼にはコーヒーを。


 メイは、お茶だか紅茶を入れて、一緒に飲んだ。


 別に、何をしゃべったワケでもない。


 けれども、一緒にいられるささやかで貴重で、信じられないくらい優しい時間。


 お茶を飲むためだけの時間が、あんなに大事だと思ったのは、あれが初めてだった。


 その時に、彼女が使っていたのが、この白いカップだったのだ。


 元はといえば、カイトのカップだった―― らしい。


 ハルコがくれたものだが、自分で使った記憶はない。


 あったかもしれないが、覚えていない。


 メイは、何故このマグカップを持ち出したのか。


 それを持ったまま、じっと彼女を見る。


 別に、顔に答えが書いてあるわけでもないのに、目をそらせなかった。


 目をそらしたのは、メイの方だった。


 どうしよう。


 そんな表情だった。


 それで分かった。


 彼女は、ちゃんとこれが『あのカップ』だということを、分かって持ち出していたのだ。


 何故?


 他の食器は、これだけ不揃いだ。


 おそらく、必要最小限のものだけ、この家で揃えたのだろう。


 なのに。


 メイは、このカップだけは、家から持ち出していたのだ。


 何……で?


 カイトは、ワケを考えようとした。


 彼の回路は、女性の考えについていけるような仕組みではなかった。


 けれども、メイのことだけは理解したかったのだ。


 一緒にお茶をしたカップ。


 カイトと。


 そんなに長い間のことではない。


 夕食の後。


 別に何を話すワケでもなかった。


 彼女はお茶を飲み終わると出て行って、『おやすみなさい』と言った。


 事実ばかりが、カイトの頭の中でグルグルと巡る。


 どこかに、真実が落ちているはずなのに、彼があまりに早くページをめくるものだから、端っこに小さく書いてある文字を片っ端から見落としていくのだ。


「忘れたく…なかったの」


 めくり続けていたページが、自分から呼びかける。


 小さな声で。


 カイトは慌てて手を止めて、そのページの中の女性を見る。


「あの時間のことを…ううん、カイトのことを忘れたくなかったの……だから…勝手に…ごめんなさい」


 思い出に。


 ページの中に住む女性は、頬を微かに赤くして。


 唇を震えさせて。


 いまの幸せと、少し前の不幸せを。


 同時に、心の中で泳がせていた。


 忘れた―― ことなんてなかった。


 カイトには、形に残る思い出は何もなかったけれども、彼女について、一日だって忘れたことはなかった。


 メイは、ずっと好きだったと彼に告白してくれた。


 そのずっととは、一体いつからなのか聞いたことはなかった。


 だが、いま少し分かったような気がした。


 カイトのことを思っていたという、何よりの証拠を見せつけられ、身体の中からカッと熱いものが燃えさかる。


 思い出のカップだというのに。


 カイトは、手荒にそこらに置くと、濡れた手にもかまわずに。


 彼女を抱きしめた。


「あっ…」


 どうして、こんなに何度も抱きしめているのに、慣れてくれないのか。


 固まった身体に構わずに、ぎゅっと抱く。


 思い出なんか、カイトは必要なかった。


 あのマグカップなんか、もうどうだっていいのだ。


 ここに、メイがいれば、それでよかった。


 なのに。


 彼への気持ちが、あのマグカップの中にぎゅーっと凝縮しているような気がして。


 それを思うと、おかしくなってしまいそうだった。


 まるで、エスプレッソのように。


 それをガブ飲みしまった後のように。


 胃が痛い。


「あの…」


 腕の中で。


 メイは、胸に顔をうずめるようにしたまま呟く。


 苦しそうな声は、彼の腕の力のせいか。


「あの…マグカップで…また一緒に…お茶を飲みたいな」


 途切れ途切れの言葉。



 飲みゃあいいだろ!!!!



 カイトは、大声で即答した―― しかし、心の中で、だったが。


 そんなことくらいお安い御用だ。


 10杯でも、20杯でも、コーヒーでも茶でも何でも。


 彼女が、『一緒に』と望んでくれるのだ。


 カイトと一緒に、このマグカップと、家にあるだろうもう一つのマグカップで、お茶をしたいと望むのだ。


 それを、どうして拒んだりしようか。


 もっともっとたくさんのものを、メイに望まれたい。


 ずっともっと、自分を必要とされたい。


 お茶の相手としてだけじゃなく、全ての場面で、一番に自分の名前を思って欲しい。


「早く片づけて…帰るぞ」


 そうして、茶でも何でもいくらでも気が済むまで一緒に。



 ああ。


 彼女の。


 全てになりたい。

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