01/20 Thu.-3
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どう見ても、『ありがとう!』と言おうとしているのが明白な瞳が、駆け寄ってきた。
その言葉を禁止すれば、少しは自分の心を安全圏に置けるとか、と思っていたのに。
しかし、予想外の反応がきた。
禁止された言葉も、ほかの言葉も、何も使わないで。
彼女は、カイトの身体を抱きしめてきたのだ。
腕が。
メイの身体全体が。
精一杯の大きな声で、カイトに嬉しい気持ちを投げつける。
それを、いきなり無防備のまま叩きつけられたのだ。
現実を把握できないまま、彼の魂は抜けそうになっていた。
いま、メイがオレを。
オレを。
オレを、オレを、オレを!!!!
しかし、把握できたらできたで、カーッと一気に全身に血が駆けめぐるのだ。
意識が、端から暴発していきそうな熱量だった。
同時に、奥底から衝動がわきあがってきて。
ただデクノボウのように、抱きしめられっぱなしの現状なんか、耐えられなくなってしまったのだ。
腕に指令を出して。
メイを、いまやまさに抱きしめようとした時。
ハッと、彼女が飛び退いてしまった。
あぁ???
もう半瞬後だったら、間違いなく彼の腕は動いていて―― しかし、そのタイミングだったら、スカッと空を切っていたかもしれない。
その不意の喪失感に、何事かと彼女を見ると。
わたわたと。
どうやら、いま自分がやったことが、恥ずかしくてしょうがないというような慌てた態度で、視線をそらした。
今にも、カイトが抱きしめそうなことを、予感して逃げたワケではないのだ。
などと、悠長に観察している余裕は、彼にはなかった。
意識の中の、1%未満の理性だけは探知していたが、カイトの中枢部に届くまで、全然時間が足りなかったのである。
本能の方が、はるかに早かった。
離れた身体との距離を、あっという間にマイナス寸前にしたのだ。
さっき彼女が向けた力よりも、もっと強い腕で抱きしめる。
こうすれば、自分が満足するのだと、やはり1%未満の意識が、棒グラフのゲージを下降させようと指令を出している。
しかし、それはかなりの計算ミスだった。
抱きしめたら、この『ゼロ』の距離さえ、もどかしく苦しいのである。
唇なら。
カイトは、彼女の頬を捕まえて上に引っ張り上げた。
「む…んんっ」
唇なら―― ゼロ未満に出来る。
メイ…。
心の中で、名を呼ぶ。
理性のゲージの方が、1%未満を更に大きく下回った。
キスのよいところは、言葉を探す必要がないことだ。
彼女を傷つけないようにとか、誤解されずにうまく伝えなければとか、そいう努力はいっさいいらない。
ただ、気持ちのすべてを唇と舌に乗せて、メイの熱い海の中に飛び込ませさえすればいいのだ。
ダメだ。
唇でも追いつけない。
痛いくらいにそれがわかる。
離れたがらない身体を、一度メイからもぎはがすために、彼はどれだけのエネルギーを消費したか。
しかし、それは身体を二つに分けたままにしておくためではなかった。
乱れた呼吸を、戻そうとしている彼女の腕を掴むや。
「あっ!」
その突然の行動に、彼女は驚きの声をあげる。
構わず引っ張った。
この家の中で―― 唯一、彼女とひとつになることが許されているエリアが、すぐそこにあるのだ。
『優しくしてやれ!』という、消えかけた理性の声が聞こえた。
カイトは、ベッドの側で急停止した。
理性がいなければ、彼女を乱暴にひっくり返していたかもしれない。
「寝るぞ…」
押し殺した声を出す。
これで。
これで、全て彼女に伝わるはずだ。
いま、カイトがどれほどメイに荒れ狂っているかが。
拒まれるはずがない。
ふかふかで上を歩くには安定の悪いエリアは、メイが絶対に『イヤ』だとは言わない場所なのだ。
彼女と身体を触れ合わせてからというもの、『ただ眠る』だけだったベッドが、一瞬にして黄金郷になった。
毎日、意識を眠りに奪われるのが、憎らしいくらいである。
「あ、待って…」
拒まれるはずがない―― ハズだったのに。
アクセルを、ブンブン吹かしているカイトのサイドブレーキを、彼女はギッと引いてしまったのだ。
心の中で、カイトの車は激しくスピンした。
峠だったら、いまごろガードレールを突き破って、綱無しバンジーだったに違いない。
なっ。
何でだ?
驚いた目のまま、ばっと彼女の方を向く。
何を、彼女は待てと言うのか。
カイトに対して、こんな残酷なことはなかった。
そんな彼の目の前に。
白い。
「あ?」
カイトは、間抜けな声になってしまった。
慌てていま出た言葉をナシにしたくても、もう無理だ。
既に、口から飛び出してしまったのだから。
しかし、メイの方は、声が間抜けであったことに神経を向けていないようだ。
彼の目の前に、白いケースが差し出されたのだ。
もう、その存在のことなど、すっかり忘れきってしまっていた。
今更現れたせいで、あんな声が出てしまったのである。
「しても……いい?」
恥ずかしそうに赤い顔をして、少し不安そうに聞かれた。
どうやら、指輪のことらしい。
はっと、彼女の左手を見る。
まだそこには、指輪はなかった。
ケースに入れたままにしているのだ。
何故、許可を取られるのか分からなかった。
彼女の指を飾るために買ったのだ。
ケースに入れて眺めるためじゃない。
「あ…でも、式まで待った方がいいのかな…」
指輪の、交換。
ぽそっと付け加えられた言葉で、メイが何に遠慮しているのか分かった。
式のどこかであるという、『指輪の交換』なる儀式の時まで、新しいまま取っておかなければならないかと考えたらしい。
式なんざ!
カイトは目をむいて、彼女からその白いケースを奪った。
式なんざ、おまけだ!
彼らは、既に結婚しているのである。
だから、結婚指輪をしていい―― いや、していなければならないのだ。
あんな恥ずかしい思いをしてまで、手に入れてきたというのに、あと1ヶ月、彼女の薬指を空っぽにしておく気は、カイトにはわずかもなかった。
有無も言わさず、フタを開ける。
うっ。
一瞬、ひるんだ。
ケースの中には、プラチナの指輪が二つ、仲むつまじく光っていたのである。
『愛』
『慈しみ』
そんな額縁に入っていそうな言葉が、その小さな空間に圧縮して詰め込んであったのである。
トラップつきの宝箱を、開けてしまった気分だった。
クソッ。
その落ち着かない苛立ちのまま、小さい方の指輪を掴み出す。
とにかくこっちを。
「手ぇ出せ!」
本日、二度目のその言葉だった。
※
おずおずと、メイは手を出した。
恥ずかしそうに、ますます頬が赤らんだ。
が。
ソファの時とは何か違った。
そう。
彼女は、手の甲を上に差し出したのだ。
『違う、手の平を上にしろ!』
そう訂正しかけた。
でないと、メイに指輪を渡せないではないか。
手の甲に乗せたら、落ちてしまう。
ハッ!
しかし、そんな無粋な言葉を出してしまう前に―― カイトは気づいてしまった。
ま、待て。
汗が流れる。
ゴクリと唾を飲んだ。
彼女は手の甲を上に、そして左手を出していたのである。
カイトの言った手を出せという言葉を、どう解釈したのか。
彼は、ただ指輪を渡したかっただけであって。
だが、この状況から推測するに。
カイトが、この指輪を、彼女の、薬指に、はめなければ、ならないのか。
うわぁぁぁぁ!!!!
パイプ椅子を持ち上げ、コックピットの機械を全てめった打ちしたい衝動のまま―― フリーズした。




