01/20 Thu.-2
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手の中には、白いケース。
カイトは、バスルームに行ってしまった。
あ……。
そのケースのフタを開けることもできずに、メイはその二つを交互に眺めた。
しかし、バスルームの方のドアは、しばらく開く気配はない。
渡し逃げされてしまったのだ。
これって。
ケースから推測するに、どう考えても指輪だった。
カイトが帰ってきた時、最初すごく言いにくそうに戸惑っているのを見て、彼女は思ったのだ。
きっと、仕事が忙しくて指輪を取りに行くヒマがなかったのだろう、と。
それをどうやって、メイに言い出そうかと算段しているのだと。
謝られたくなかった。
指輪は、今日明日で腐るものではないし、カイトの仕事が忙しいのは、寂しいけれども理解したいと思っていた。
たかが1日、指輪が遅れたくらいで、彼に謝って欲しくなかったのである。
だから彼女は、すぐに話を夕食に切り替えたのだ。
指輪の「ゆ」の字も素振りにださなければ、きっとカイトも彼女が気にしていないということに気づいてくれる―― そう考えた。
夕食の時も、黙っているとそっちに話が流れてしまうとも限らないと思い、一生懸命おしゃべりをした。
本当は、一人だけべらべらしゃべるなんて、メイだって恥ずかしいのだ。
結婚式に関する話題も、一切避けた。
そんな風に、彼女は頑張ったのだ。
そして。
部屋に戻った時は、『これでもう大丈夫』と、ほっとしたのである。
これからカイトはお風呂だし、お風呂から上がったら眠るだけだ。
それで、今日は終わりだった。
なのに。
終わってしまう前に、てっきり存在しないと思っていた指輪が、空から降ってきたのである。
カイトは、ちゃんと受け取りに行ってくれていたのだ。
でも、それならどうして、あんな風に玄関で戸惑ったりしたのだろうか。
いつもならあるはずの、ぎゅーもなかったのに。
*指輪を取ってきていたにも関わらず、戸惑った
*渡す時も、さっきみたいに渡し逃げされてしまった。
この二つの条件から推し量ると。
『カイトは、指輪を渡すことを戸惑っていた』
そういうことになる。
指輪のことは、昨日から分かっていたのも関わらず、何故彼は戸惑ったのか。
メイは、翻訳がなかなか出来ずに、頭の中が「?」だらけになった。
何度も最初から、時間をかけてゆっくり反芻しなおす。
渡すのが―― イヤだったの?
その考えは、自分で否定した。
そんなことない、と。
声を大きくして否定は出来なかったけれども、カイトはそんな人じゃないと、思えるようになってきたのだ。
いままで、そんな不幸な考え方をいくつもしてしまったが、ことごとく彼は破壊してくれたではないか。
彼を信じたかった。
渡すのが―― テレくさかったの?
次にその考えにたどりついた時、ぽっと胸の温度が上がった。
そうだ。
彼は、このテのことが苦手な人だったではないか。
カイトが、笑顔で『指輪を受け取ってくれ』と切り出すとは、到底思えなかった。
どう切り出していいか分からなかった、というのが一番しっくりくるような気がした。
『手ぇ出せ』なんて、まるで飴でもくれるかのような言葉で指輪をくれる人が、一体この世に何人いるだろうか。
そう思うと、すごく嬉しくなった。
いま、自分が正しい翻訳が出来たような気がしたのだ。
幸せな翻訳。
そして―― この嬉しさを、カイトにぶつけてみたかった。
彼は苦手かもしれないけれども、「ありがとう」という言葉で。
ああ。
ありがとうだけじゃ、到底足りない。
こんなにまで、自分を幸せにする才能のある人間を、メイは他に知らなかった。
愛しさが、尽きることなく溢れ出す。
止まらない。
カイトにとって運が悪かったのは、彼女がそんな気持ちでいっぱいの時に、お風呂から上がってきたことだった。
彼女は、ずいぶん長い間指輪について、翻訳していたのである。
メイの感謝の標的になるのは、間違いなかった。
慌てて、ソファから立ち上がった。
指輪のケースを持ったまま。
思えば、まだ彼女はこのケースを開けてもいないのである。
開けなくても、カイトの気持ちが苦しいほど詰まっているのが分かった。
指輪が嬉しいんじゃない。
指輪にこもった気持ちが嬉しいのだ。
たたっと、彼に駆け寄る。
そうして。
「あ…」
言いかけた。
「『ありがとう』、はナシだ!」
なのに、既に続く言葉を読んでいたかのように畳みかけられた。
カイトは、何とひどいことを言うのか。
こんなあふれ出す気持ちに、無理矢理フタをしろと言うのだ。
そんなことをしたら、彼女の気持ちは行き場をなくし、ダムを決壊させてしまうようなコトになりかねないのに。
そして。
予定通り決壊した。
メイは、『ありがとう』は言わずに、いっぱいの気持ちを、自分の両腕に込めたのだった。
そう。
お風呂上がりのカイトの身体を―― ぎゅっと抱きしめたのだった。
自分と同じ石鹸の香りを感じた。
ああ、もう。
好き。
こんなに、好き。
その気持ちに追われて抱きしめた時、少しだけカイトのぎゅっの意味に触れたような気がした。
言葉を抑えると、身体が抑えられなくなるのだ。
しゃべるということは、自分の衝動を制御する力があるようにさえ思えた。
嬉しい時に「嬉しい」と言えば、それで相手には伝わる。
好きな時に「好き」も一緒。
でも、言葉に出来ない時に伝えようと思ったら、表情や態度で表すしかなかった。
違う言葉の国に住む二人は、きっとそうやって思いを伝えるのだろう。
しかし。
カイトからのギュッはなかった。
彼は、まるでただの樹木のように突っ立っているのである。
その身体を、メイが勝手に抱きしめているだけ。
現実に、ハッと我に返った。
自分が、心の衝動に突き動かされていた事実に気づいたのだ。
カイトが驚いて、硬直しても当たり前である。
やだ。
恥ずかしくなって、メイはぱっと離れた。
余りの唐突な態度に、あきれられたりしていないかと思うと―― いや、それ以前に恥ずかしくてしょうがなくて、カイトの顔を見られなくなってしまう。
「ごめ……」
わたわたと、いまの事実をナシにしようと彼女は努力したのに。
いきなり弾けたように動き出したカイトに腕を掴まれた。
気がついたら―― 胸の中にいた。
痛いくらいの、ギュッだった。




