01/20 Thu.-1
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仕事で遅くなる。
そんなのは、最初から分かっていることだったし、出がけにメイにも伝えてきた。
さすがに何日か目になると、その言葉も予想がついているのか―― しかし、彼女の瞳から、完全に揺らぎを消してしまえたワケではなかった。
だから、ぎゅっと抱きしめる。
納期というラスボスとの戦いから、自分一人抜け出すワケにはいかなかったのだ。
しかし、今日も少し抜け出さなければならなかった。
宝石店は、深夜まで開いているワケじゃないのだ。
支払いは昨日済ませていたので、とにかく受け取る。
昨日の女店主が、ケースを開けて仕上がりを確認させようとしたが、その柔らかい空気に耐えきれず、宝石強盗のように奪い取ってきた。
結婚式というものを、やたら意識している白いケースなのも、狂おしく落ち着かなかった。
車に戻るなり、ダッシュボードの中に突っ込んだ。
これから、まだ彼は仕事をしなければならなかったし、変に持ち歩いて落としたり、人に見られたりでもしたら大変である。
忘れて帰らないためにも、ここが一番間違いなかった。
帰ったら。
これを、彼女に。
職場に戻って仕事を続けたが―― どうにも、集中できなかった。
※
はぁ。
いつもの倍、仕事で疲れたような気がする。
指輪のことは、彼女も知っているはずなのに、これから渡すとなると、やたら緊張してしまうのだ。
自宅の玄関前で、一度深呼吸してドアを開ける。
指輪は上着のポケットの中。
あんまり触ると、カイトの手垢で汚しそうになるくらい白いので、ポケットに手を突っ込んだきり確認したりしなかった。
慣れない形の存在を、カイトはしっかりと感じていた。
ドアの向こうは。
「おかえりなさい!」
深夜だったが、メイはやっぱり起きていた。
彼女の笑顔が視界に入ってきただけで、ドキドキする。
どうやって切り出したらいいか、分からなかった。
カイトは、目の前で戸惑った。
何も言わなくてもいい。
黙ってでもいいから、とにかく渡せ!!
自分に激しく叱咤を与えた。
そうして、ポケットの中に手を突っ込もうとした時。
「ご飯、あたためるね」
ボヤボヤしているうちに、パジャマ姿はダイニングに向かってしまったのだ。
あ。
カイトは悔やんだ。
指輪を渡すどころか、抱きしめることさえすっかりおろそかにしてしまったのだ。
ようやく、彼女に会えたというのに。
何やってんだ。
まるで、これから決死の覚悟で、プロポーズでもするかのような気分だった。
今更、彼女が指輪を受け取るのを、拒否するはずもないのに。
自分のペースに持ち込めないまま、彼はおとなしく餌付けされることとなった。
彼女はやはりお茶を飲み、自分はご飯を食べる。
「今日はね…」
そんな風に、言葉を始めるのは、昨日の夜のせいだろうか。
何かしゃべれと言ったのを気にしていたのか、何も言わなくてもおしゃべりとやらを始めてくれた。
ただし、内容は遊びにきたというハルコの話だったので、そこまで彼を上機嫌にさせなかったが。
でも、彼女が来たというのなら、結婚式に関係する話もいろいろあったに違いない。
しかし、あえてその話題を出さないようにしているようだった。
式の話をしたら、カイトが不機嫌になるとでも思っているのだろうか。
だが、それはあながち間違いではないので、おもしろくなかった。
正確に言えば、不機嫌になるというのとはちょっと違う。
落ち着かなさが、倍増になるのだ。
なまじ、右脳活動が活発な人間だけに、妙な映像が山盛りで押し寄せてくる。
あの、白くてライトアップされた世界を想像する。
ハルコとソウマの結婚式に呼ばれたことがあるせいで、妙に具体的に想像できるのだ。
がーっっっ!!
カイトは心の中で吠えた。
あの気色の悪い儀式の数々を、今度は自分がしなければならないのである。
しかも、タキシードなどを着せられ、見せ物に。
ぞーっっっっっ。
背中を逆なでるような、ゾブゾブがはい上がってくる。
こういう準備期間が、1ヶ月でもあるということは、カイトにとっては不幸なことだった。
相手が。
ちらと、顔を上げてみる。
相手が彼女でなければ、絶対に何が何でも拒否したに違いないのに。
ここまでカイトに譲歩させられる存在が、ほかにいるだろうか。
その事実が、イヤなワケではない。
その事実があるということを、他の連中に知られることがイヤなのだ。
これくらいでめげていて、本当に当日大丈夫なのか。
忍耐の限界に、挑戦する話になってきたようだ。
何とか食事を終えて、部屋まで戻る。
今までの流れでいけば、これからカイトは風呂場に直行という話になるのだ。
メイはすでにパジャマなのだから、風呂が終わっていることは明白だし。
うー。
指輪はまだ、ケースごと上着のポケットのまま。
このまま風呂に行き、彼もパジャマに着替えて戻ってきて、お互い綺麗な身体で改めて――
だー!!!!!
そうなれば、メイの感謝とか戸惑いとかの視線にさらされても、彼は絶対に逃げられない状況になるではないか。
こんなに、いたたまれないことはない。
ちらと彼女を見ると、ソファにちょこんと座っていて。
そこで、彼がお風呂の間待つのだろう。
しかし、いつもただ待っている時間、つまらなくないのか。
メイが、そういう時間に何か楽しめるようなものを。
そう考えかけたけれども、いまのカイトの思考はそれどころではなかった。
その案件は、後回しだ。
今は。
上着のポケットからケースを掴みだした。
結婚結婚しい真っ白のケースなのが、余計に仰々しさを増している。
その色を見ないようにしながら。
「手ぇ、出せ」
ソファの横に立つと、カイトは重い顎を動かした。
本当に、鉛のように感じる。
「え?」
見上げてくる彼女の丸い額が、前髪からこぼれて―― 初めて見るような顔になった。
それが、カイトの気持ちを騒がせる。
驚きながらも、メイは両手で水をすくうように合わせる。
その手のひらに。
コロン、と。
「え?」
メイの視線が、下に行く。
「あ?」
次に、ぱっと上を向いてきた。
「あ…」
もう一度、下を向く。
随分と、忙しい動きだった。
カイトにしてみれば、それに対してのコメントを言われるワケにはいかなかった。
ちゃんと自覚を持ってそういう目で見られるワケにも。
彼の動きは早かった。
メイをソファに置き去りに、無言で風呂場に逃げちらかしたのだった。




