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01/19 Wed.-3

 結婚指輪。


 カイトに連れてこられたのは、宝石店だった。


 そうして、いきなりその言葉を突きつけられたのである。


 確かに、普通結婚した人の指には、結婚指輪があるものだ。


 しかし、いままでハルコやソウマの話の中では、一度も出てこなかったので、すっかり彼女も失念していた。


 本来なら、仕事中のはずのカイトがそこにいる。


 会えないはずの時間に会えたことは嬉しかったが、その余韻にひたる間もなく、指輪のサイズを計られ始めた。


 ここには、彼自身が連れてきてくれたのだから、許可もへったくれもないのだろうが、やっぱり心配でそっちを見ると、カイトはそっぽを向いていた。


 とりつく島もない気配が渦を巻いて、メイの言及を拒否している。


 これは、彼なりの『GO』サインなのだろう―― 多分。


「9号ですね」


 女性スタッフが、ぴったりのリングをはずしながらそう言った。


 本当は、自分の指輪のサイズは知っていた。


 ただ、計ったのは随分前のことで。


 サイズの変動はなかった。


 いまは、からっぽの指。


 この指に。


 カイトをちらりと盗み見る。


 まだ、彼はこっちを見てくれない。


 仕事が忙しいはずなのに。


 こういうことは、きっと苦手なはずなのに。


 わざわざ、迎えにまできてくれて。


 心の中で、せめぎ合うのだ。


 彼が、すごく自分のことを好きでいてくれるような気がした。


 メイのいないところで、彼女のことを考えて、一度この宝石店に足を運んでくれたのだ。


 指輪のために。


 ああ。


 どうしよう。


 メイは、苦しんだ。


 いますぐ彼を抱きしめて、この気持ちをいっぱい伝えたいと思ったのだ。


 嬉しさと切なさと戸惑いをブレンドしたコーヒーを、きっといまなら、何杯だって彼に飲んでもらうことが出来るような気がした。


 でも。


 ここじゃ、ダメだった。


 メイは、ぐっとエプロンの端っこを握りしめて我慢をする。


「はい、次は旦那様の方の指を…」


 彼女の気持ちが分からない店員は、次にカイトの指を求めた。


 あ。


 ドキッとする。


 大好きな、カイトの指のサイズが計られるのである。


 長くて、器用で―― そして、抱きしめ触れてくれる指。


 同じ指輪を、彼とするのだ。


 そう思うと、ドキドキドキドキした。


 いま、彼女はカイトとペアと呼ばれるものを、何も持っていない。


 それどころか、一緒に撮った写真さえない。


 二人の証拠と言えば、役所にある婚姻届以外になかった。


 要は。


 土地はあるけれども、まだその上に何の家も塀もない状態なのだ。


 人がきても、誰もその土地を彼らのものだと分からない。


 100人に聞かれたら、100人に同じことを答えなければいけない。


『私たちは夫婦なんです』と。


 その数を1/10以下に免罪してくれるもの。


 それが、結婚指輪。


 なのに。


「オレは、いい」


 などと、カイトが言うのだ。


 驚いて彼を見る。


 結婚指輪は、二人ではめて初めて成り立つものではないのか。


 メイの頭の中には、教会の結婚式の映像がよぎる。


 一人だけ早く結婚した、友人の式を思い出したのだ。


 指輪の交換を。


 あなたが私に。私があなたに。


 二人で同じものを―― その希望が、ガラガラと音を立てて崩れた。


 そうすると、じわっと胸の奥が悲しくなる。


 彼と、初めて同じものを身につけられると思っていたのに。


 一人ぼっちで指輪なんかしても、全然嬉しくなかったのだ。


「それなら…私も、いいです」


 店員が、カイトをどうにかその気にさせようとしてくれてはいたが、彼女はすっかり気落ちしてしまった。


 素敵な花を見つけて手折ろうとした瞬間、枯れ落ちてしまった。


 一瞬見えた、あの素晴らしさの光は、幻だったのだと自分に言い聞かせなければならない。


 一人でなんて、欲しくない。


「一緒にしないと…意味ないもの」


 それならいっそ、ない方が。


 ズシーン。


 今のメイは、アリが踏んでも壊れてしまいそうだった。


 そうして自分に言うのだ。


 ほら、見てごらんなさい、と。


 彼が自分のことをすごく好きだなんて錯覚するから、こういうしっぺ返しに遭うのだと。


 いや、好かれているのは間違いない。


 けれども、いまメイが錯覚したほどではないのだ。


 いけない、と自分でも分かった。


 無用に落ち込もうとしている。


 何でもかんでも悪い方に取って、自分を可哀想にしようとしていることに気がついた。


 慌てて、それを振り払う。


 このままじゃ、カイトを正しく翻訳なんか出来ないと思ったのだ。


 にゅっ。


 いきなり、メイの目のそばに、何か出てきた。


 近すぎて、一瞬何なのか分からなかったが、よく見ると―― カイトのワイシャツの腕であることが分かる。


 彼が、腕を突き出していたのだ。


 その顔は。



 これから、予防接種でも受けるかのようだった。


 ※


 車は、自宅に向かう。


 指輪には、日付とイニシャルを入れてくれるということなので、明日のお昼過ぎにでも取りにきてくださいということだった。


「私が…」と、メイは切り出したが、すぐにカイトに「オレが」と被せられ、受け取る権利を持っていかれてしまう。


 忙しいはずなのに。


 そのことを裏付けるかのように、カイトのケイタイが鳴った。


 運転中は―― などというマナーもなく、カイトはぱっと取ると、「ああ」とか、「すぐ戻る」とかそういうことを言うのだ。


 きっと、メイを家まで送り届けたら、また会社に戻る気なのである。


 本当に、わざわざ指輪のために会社を出てきたようだ。


 はぁ。


 そんな電話を横に、メイはため息をついた。


 カイトと一緒にいると、高低差の激しいジェットコースターに乗せられているような気分だった。


 喜んでいいのか落ち込んでいいのか、分からなくなる。


 一瞬ごとに、気持ちが激しく揺さぶられるからだ。


「指輪…したくない?」


 電話を切ったカイトに、ぽつりと彼女は言った。


 その言葉の真ん中には、本当は『私とお揃いの』というのが入っていたのだが、もしもそこまで具体的に言って、『そうだ』なんて言われたら立ち直れない。


 ぴくっと、ハンドルを握る指がそれに反応した。


 しばらくの沈黙の後。


「オレには…似合わねぇ」


 ぼそっと。


 そういう返事がきた。


 そんな!


 メイの心は、その答えに過剰反応する。


「そ、そんなことない! 絶対似合うわ!」


 カイトの指は、あんなに長いのだ。


 大きな手で、浅黒い肌で―― その指に結婚指輪、と想像するだけで、彼女の貧困な想像力であったとしても、素敵なことははっきり分かった。


 全然軟弱な感じはしない。


 チャラチャラした感じもしない。


 きっと、生まれて一度も指輪なんかはめたことがないだろうそのまっさらな指に、しっかりと男っぽく馴染むだろう。


 そう考えるだけで、心拍数が上がる。


 もしも、自分が彼の会社の女子社員だったら、その指輪を見て、「あーあ」とため息をつくのだ。


 すごく似合っているのに、それには誰か違う女の人の名前が刻んであるのだから。


 カイトは、自分の価値を間違っている。


 だから、自分には似合わないと思っているのだ。


 でも、よかった。


 ほっとした部分が、彼女に呼びかけてきた。


 自分とお揃いの結婚指輪がしたくない、というワケではなかったのだ。


 自分の中で渦巻いた怖い妄想が、単なる思い過ごしであることの証拠のような気がして、本当に安堵した。


「オレには、似合わねぇ…」


 でも、カイトはまだそう主張していた。



 明日、真偽のほどは証明されるだろう。


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