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01/19 Wed.-2

 普通なら、仕事終了である午後6時。


 カイトは時計を確認した後、席を立ち上がった。


 別に、帰るワケじゃねーぞ。


 背中で、それを主張する。


 何故なら、彼は上着を椅子にかけたままだったからだ。


 メイにも、遅くなると朝言って出てきたのだ。


 いま帰りたいのは、本当の気持ちだけが、そうするワケにはいかなかった。


 あたかも、タバコでも買いに行くような動きでエレベーターを降りる―― が、地下まで降りた。


 駐車場だ。


 駐車場に暖房は利いているはずがないので、シャツ姿の彼は非常に寒い思いをしたが、すぐ車に乗ってしまうので、大したことじゃない。


 守衛を横目に、彼は暗い街に滑り出た。


 高い車のいいところは、ヒーターだのクーラーだのの効きが早いところだ。


 冷たい車内に、熱風が吹き付けてくるのにほっとしながら、カイトは運転を続ける。


 目的地は、はっきりしていた。


 が。


 問題が発生した。


 ※


「え? あ? カイト?」


 メイは、大きな目を更に大きく見開いて驚いていた。


 それはそうだ。


 定時に会社を出たとしか思えない時間に、彼が帰り着いてしまったからである。


「今日は遅くなるん…きゃっ!」


 自分の疑問を納得させようとする彼女の腕を掴むなり、玄関前にアイドリングさせたままの車に押し込む。


 カイトは、妻を誘拐したのだ。


「どうか…したの?」


 心配そうな目に、カイトの方がいたたまれなかった。


 どういう風に、彼女に説明していいか分からなかったのだ。


 いや、説明なんかしたくなかった。


「すぐ着く…」


 カイトが、答えられたのはそれだけだった。


 そして。


 本当に到着した。


「ここ…」


 メイも自分も、上着を着ていない。


 車を建物の前に無断駐車したまま、看板を見上げようとする彼女を押して、足早に温かい店内に入る。


「いらっしゃ…ああ、いらっしゃいませ」


 一度目のいらっしゃいませは、誰にでも向けられる挨拶。


 しかし、後ろからかぶった方の言葉は、何もかも了解済みの声だった。


「あ、あの…カイト?」


 明るい店内。


 ガラス張りの商品ケース。


 上着のない自分と、エプロン姿のメイ。


「結婚指輪でしたね…じゃあ、サイズを計りましょうか」


 店主は女性で―― そして、笑顔だった。


 ※


 カイトは、結婚指輪の知識など、何も持っていなかった。


 だから、最初店に入った時は、かなり恥ずかしい思いをしたのだ。


 こんな宝石店に入るというだけで、彼の表情はかなり険しいものになる。


 本当に、世の中は面倒くさいことだらけだった。


「いらっしゃいませ…贈り物ですか?」


 どうして、そう思うのだろうか。


 指輪を睨んでいたカイトに、店員が呼びかけてきた。


 後で、女店主であることが分かった。


 まあ、確かに自分で指輪をするような男には見えないだろうし、客を相手にする場数は、かなり踏んでいるだろうから、何となく察することが出来るのだろう。


「結婚の…」


 むっつりした不機嫌な表情は、こういうチャラチャラした店に、好きで来たワケではないというポーズだ。


 彼女の協力ナシには、目的のものが手に入れられないということは分かっていたが、最小限のこと以外は、隠しておきたかったのである。


「ああ、結婚指輪ですね…ゴールドやプラチナや、いろいろありますけど、どういうのがよろしいですか?」


 物腰の柔らかさが、どこかハルコを思わせた。


 商売人としては使えそうだったが、参考例があるせいで、カイトは苦手だった。


「何でもいい…石も何でも」


 給料三ヶ月分―― カイトの指輪に対する知識など、その程度だった。


 しかし、相手が「は?」という顔をする。


「あの、お客様…結婚指輪は、宝石はつきませんが…婚約指輪とお間違えでは?」


 本当に、カイトの知識など、その程度だったのだ。


 そう、何もかも間違えていたのである。


 店の主人はカイト相手に分かりやすく、結婚指輪を見せてくれた。


 何の変哲もない、ただのリングだ。


 金色か銀色かの違いこそあれ、その程度の、本当にシンプルな形。


 てっきりカイトは、赤だの緑だのの石がくっつくと思っていたのに。


 そして、決定的な言葉を言われたのだ。


「それで、奥様になられる方の指のサイズは?」


 ガーン。


 カイトのショックは、大きかった。


 彼が、そんなことを知るはずがなかったのである。


 だから、妻を誘拐―― という結果になってしまったのだ。


 その妻は、驚いたまま指のサイズを計ってもらっている。


 じゃらじゃらと、山ほどあるリングをとっかえひっかえ、ぴったり合うサイズを探しているのだ。


 カイトは、まるで妻の着替えに同席しているような気分で、そっちを見ないようにしていた。


 同時に、『結婚したんだから、結婚指輪を買うのは当たり前だ』というオーラを発して、メイからの制止や疑問の言葉を跳ね飛ばしてもいた。


 とは言っても、それにカイトが気づいたのは、ほんの昨日の出来事だったけれども。


 チーフとの会話の中に、たった一度だけ出てきたその言葉は、時間差こそあったが、彼の記憶の中にジュッと焼き付けられたのである。


 しかし、ソウマたちに言われる前に気づけたという事実が、少しだけカイトを誇らしくさせてもいた。


 自分が気がついて、彼女を幸せに出来るのだという充実感と言った方がいいか。


 とにかく、メイの指を、自分の実力で飾ることが出来るのだ。


「9号ですね…」


 そう女店主が言ったのが、彼の耳にするっと入ってきた。


 そうか、9号か。


 まだ、空欄だらけのメイファイルに書き加えられた。


 果たして、それが活用される時が、くるかどうかは分からないけれども。


「はい、次は旦那様の方の指を…」


 そう言われるまで。


 カイトは、結婚指輪は男もするものだということを、すかっと忘れ去っていた。


 な、な、な…オレもか?


 慌てて二人の方を見ると。


 店主はにっこりとカイトを見ていて、メイは恥ずかしそうに、自分の左手を握ったようにうつむいていた。


「どうか、なさいました?」


 戸惑っているカイトに、怪訝の声。


 そうなのだ。


 昨日チーフも言っていたではないか。


 指輪をしていないカイトだから、どっちなのか分からない、と。


 オレも…。


 自分が、指輪をしているところなど想像出来ず、逆にしようとして具合が悪くなってしまった。


「オレは、いい」


 そう言った瞬間―― 女二人は、同時にびっくりした顔を向けた。


 驚いてはいるが、二人とも顔には書いてある。


『とんでもない!』と。


「あの…お客様。結婚指輪は、お二人ともはめられるものですが…」


 また、カイトが婚約指輪と勘違いでもしているとでも思っているのだろうか。


 店主の目のどこかには、『こんな客は初めてだ』という文字が映っていた。


 世の中の慣習など、カイトには関係ない。


 彼は、メイに指輪をさせたいのであって、自分のことはどうでもいいのだ。


「それなら…私も、いいです」


 なのに、メイの方はしゅーんとしたまま、信じられないことを言い出した。


 何のために、彼が恥ずかしい思いをしてまで、ここに連れてきたと思っているのか。


「一緒にしないと…意味ないもの」


 んなツラぁ、すんな!


 淋しそうな彼女の顔に、カイトは胸を突き刺された。


 どうして、気持ちはちゃんと伝わらないのか。


 彼が指輪をしないのは、そういう意味じゃないのに。


「お客様…」


 店主は、この夫婦には怪訝と困惑を隠しきれないまま、しかし、プロらしくもう一度、彼に呼びかけた。



 カイトは、左腕を突き出すより他、逃げ場はなかった。


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