01/18 Tue.-1
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「今日は…遅くなる」
朝、玄関で抱きしめられている時に、言いにくそうな声が聞こえてきた。
ついに来た。
ずっと見たくなくて、戸棚の奥の方に押し込んでいた言葉が転がり出てきた。
彼の職業柄、こんなに毎日早く帰ってこられるハズがないのだ。
そう分かっていただけに、当然の出来事だと思ったし―― だからと言って、ショックが薄れてくれるワケじゃない。
「気をつけて…いってらっしゃい」
気落ちしてしまったのが伝わらないように、ぱっとその失敗料理を背中の方へ隠して笑った。
もしも見られてしまったら、彼にもこの気持ちが伝染するだろう。
失敗料理を食べるのは、自分だけで十分だった。
ただでさえカイトは、その事実を伝えたせいか、かなりテンションを落としているというのに。
何時くらいになるのかとか、聞かなかった。
はっきり分かっているなら、きっと彼は言ってくれるだろう。
言わないということは、分からないのだ。
そうして、カイトは仕事へ行ってしまった。
ハルコとは、毎日何かの約束をしているワケではない。
だから、今日も来るかどうか分からなかった。
来てくれればいいな。
今日のメイは、それを願う。
カイトが遅くなるということは、この家に一人でいる時間が、いつもより長いということだ。
そのことをあまり考えたくなかった。
一人でずっといるには、この家は静か過ぎるのだ。
テレビさえないのである。
退屈をしのぐための本もない。
パソコンは置いてあるが、使い方も分からないし、勝手に触っても怒られるだろう。
第一、パソコンで何が出来るかさえ、彼女はよく分からなかったのだ。
部屋中掃除したり、こまごました家事をしたりして―― 階段に座り込んで、はぁとため息をついたのは、午後2時だった。
「退屈そうね…」
そこで、ようやくハルコが現れた。
嬉しさに、ぴょんと耳が立ってしまいそうだった。
雨が降りそうよ、と玄関の方を振り返る。
雪ならいいのに。
彼女の見立て通り退屈だったせいか、メイはぽつっとそう思った。
しかし、慌てて首を横に振る。
もし、本当に雪なんかがじゃんじゃん降ったりした日には、カイトが車で帰ってこられなくなってしまうかもしれない。
いや、無理して車で帰ろうとしたら危ないではないか。
「買い物にでも出ない? 今日は、普通の買い物よ」
私も、夕食の買い物がしたいの。
ハルコは、本当によく気のつく人である。
このお誘いも、メイへのたくさんの気配りが込められている。
雨が降りそうであること、メイは車を運転できないこと、退屈そうであること。
ありがたすぎて、かえって自分が恥ずかしくなってしまう。
いつか、こういう素敵な人になりたいなと、ちょっと思ってしまった。
そうすればカイトも、もっと私のことを。
考えかけたことを、慌てて振り払った。
また、すごく自分が贅沢なことを願ったのに気づいたのだ。
※
食料品。
はがきを5枚。
白い毛糸をひと抱え。
編み棒を1組。
『彼のセーター』を1冊。
帰ってきたメイは、今日の戦利品を眺めて困惑してしまった。
本当に、買ってきてしまったのである。
買い物に行く途中、ハルコと車の中でいろいろと話をしたのだ。
「そう…カイト君、今日は遅くなるのね」
だったら、うちで夕食でもどう?―― そう誘われたけれども、メイは断った。
いつカイトが帰ってくるか分からないし、どうせだったら、彼と一緒にご飯を食べたかったのだ。
「そう?」
ハルコは、自分の提案が砕かれたことに残念そうだった。
「でもねぇ、これからしばらく定時には帰れないんじゃないかしら? 結婚式の寸前まで、納期に追い回されそうよ」
彼女が言うには、もっと早く結婚式も予定に入れたかったらしい。
しかし、シュウが絶対この日より早くはダメです、とデッドラインを引いたのだ。
そこから一番早い式、ということで、バレンタインデーに白羽の矢が立ったのである。
「ソウマは平日だからって、最初はちょっと反対したのよ。でも、どうせだったらロマンティックな日が、あなたもいいでしょう?」
一生に一度なんですもの、ね?
何日でも別に、と言いかけたけれども、ハルコの言葉には勝てなかった。
せっかく、彼女のためを思ってしてくれているのである。
まだ、不安の手には触られてはいるけれども、カイトが承諾してくれた今、ムキになって全てを台無しにする材料は、ないように思えた。
もう1日たった今でも、やっぱり自覚というものは、いまだ芽吹いてもいないのだが。
しかし、結婚式という先の話よりも、彼女が言った『納期』という言葉が、二人を引き離すことが分かって―― そっちの方が、憂鬱になってしまう。
この分では、毎日家の中をピカピカに磨き上げそうだ。
いや、それでもいいのだが。
「時間が余ってるんだったら、何か趣味のことでもしたら?」
そう言われたのは、スーパーマーケットの魚売場の前。
いつもの通り、メイがじっくりと魚の瞳を見つめて、吟味している時だった。
死んだ魚の姿は怖くない。
何しろ、魚屋さんと親しくしていたのだ。
確かに子供の頃は怖かったのだが、そこのおねーさんが魚についてたくさんの話をしてくれたので、その内にお頭つきの魚も怖くなくなっていた。
3枚におろす方法も、お刺身の切り方も教えてもらった。
趣味。
ハルコにいきなりそう言われても、ぱっとは思いつかない。
何でもちょっとずつ好きで、でも、何でもうまく出来るというワケじゃなかった。
「そうねぇ…たとえば、あの家は庭が広いからガーデニングとか…ああ、まだ寒いわね」
魚の吟味以外で悩んでいることに気づいたのか、ハルコが助言をくれた。
いい案だったが、確かに彼女の言うように、まだ寒い。
チューリップの球根って、いつくらいに植えたらいいんだろう、とぼんやり彼女は考えた。
それくらいだったらできそうな気がしたのだ。
夏になったら、朝顔とかヒマワリとか、と考えかけて、自分のガーデニング・レベルが、小学生の夏休みの観察日記レベルであることを知って、恥ずかしくなった。
でも、観葉植物くらいあってもいいかなぁ。
彼女の心は、植物モノに引きずられていた。
「他には、そうねぇ…寒いから…編み物はどうかしら?」
ぱっと。
イワシと目が合った瞬間だった。
どよーん。
その目は濁っていて、メイの購買意欲をまったくそそらなかったが、彼女の言葉の方には、反射的に意識が動いた。
編み物。
それなら。
編み物なら、やったことがある。
学生時代は、ちょっとした恋心が働いたこともあるし、自分と父親のセーターを編んだこともあった。
本さえあれば、完成させられるだろう。
ミシンを必要とする洋裁なんかとは違って、材料は毛糸と編み棒だけだし。
既に、彼女の心は魚売場から、編み物にジャンプしていた。
そうして、迷うこともなくカイトのセーターを仮定して、いろいろ考えてしまったのだ。
何色が似合うだろうか、とか。
いろんなものと合わせやすくて、カイトに似合いそうな色。
結果、白になったのだ。
「内緒にして驚かせてあげましょう」
毛糸を買う時に、ハルコがウィンクをする。
何だか、高校生に戻った気分だった。




