01/14 Fri.
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「あ、あのね…」
メイが、『すごく勇気を出しました』という顔で、肩に力が入りまくった様子で、そう言葉を切り出した。
ダイニングの夕食の時間のことだ。
今日は金曜日。
最近は、残業の「ざ」の字もせずに、カイトはすっとんで帰ってきていた。
だから、いまもまだ夜早い時間である。
夕食の煮物に落としかけていた箸を止めて、彼はぱっと視線をメイの方に向けた。
何となく、今日の彼女はそわそわしているように思えていたのだが、カイトには理由は分からなかった。
しかし、どうやら何かを言いたかったらしい。
まだ全然、態度から気持ちを察することのできない自分を不満に思いながら、とにかく耳を傾けた。
そんなに力を入れて、一体何を言おうとしているのかと。
「あのね…お願いがあるの」
お願いばかりでごめんなさい。
その肩に入っていた力も、言葉を一つ紡ぐごとに弱くなっていく。
そうして、最後の『ごめんなさい』は消え入りそうなほどだった。
しかし、カイトの対メイ・アンテナがぴぴっと反応する。
いま彼女の言った言葉について、だ。
『お願い』、と。
そう、彼女は言ったのだ。
カイトは。
「遠慮…すんな、言え」
我知らず速くなる鼓動を押さえきれないまま、しかし、声がうわずらないように喉を緊張させて、そう言った。
ついに。
彼女から、正式なお願いがきたのかと思ったのだ。
いままで彼女が望んだものは、カイトにしてみれば、あまりにささやかで大したことがないものばかりで。
かと思えば、『笑って』などという、とてつもなく難易度の高いものだったりした。
メイのためになら、そんなこと簡単だと思っていた。
なのに、この身体ときたら、そっち方面ではポンコツに出来ているらしく、あわや機能停止近くまで、自分を追いつめてしまった。
あの脂汗を、彼は忘れないだろう。
また『笑って』というお願いでさえなければ、カイトは何だって彼女の望みを叶えてやりたかった。
そして、メイを幸せにしているのだという、確固たる手応えが欲しかったのである。
大体。
まだ、『お願い』という形式を取っているのが、彼にしてみれば嬉しくないところだった。
欲しいものや、して欲しいことがあれば、『お願い』を最初に言うのではなく、『~が欲しい』と言えばいいのである。
しかし、それはメイの性格上、不可能なのかもしれない。
そう、最近カイトは思うようになってきた。
だからこそ余計に、彼女が勇気を出してまで言おうとする『お願い』は、何でも叶えたかった。
そんな思いは、山ほど心の中で溢れ返るのに。
出てくる言葉ときたら。
『遠慮…すんな、言え』、などという、短くて深みのないものなのだ。
彼は、言葉に深みを持たせるのが苦手なのだ。
いつも、自分の思いを的確に伝えることが出来ない。
「あ、うん…あのね……明日か、明後日か時間ある? 多分、半日くらいあれば…大丈夫と思うんだけど」
メイは、言いにくそうにしながらそう続けた。
まだ、ちっともカイトは要領を得ない。
土曜か日曜に、カイトの時間をもらえないだろうか―― そういうことを言っているらしい。
あ……。
カイトの中でさえうまく音にはならなかったが、『有り余ってる!』というものが一番近かったか。
たかが週末の半日を、メイに拘束されるくらい、痛くもかゆくもなかった。
それどころか、丸2日間拘束されたいくらいだったのだ。
いや。
そうではない。
最初からカイトは、丸2日間メイを拘束するつもりだったのである。
ずっと自分のそばに置いておいて、彼女の存在というものを全身に焼き付けたかった。
そうすれば、少しはこのぎこちなさが取れるように思えたのだ。
休日出勤をする気などなかった。
ただでさえ、平日の仕事の時は、離れていなければならないのだ。
ようやく仕事が、書類関係から開発の方になったからよかったものの、それでも6時になった瞬間、カイトはがたっとコンピュータの前から立ち上がってしまうのだ。
後ろ髪が引かれないワケではない。
こうしている間に、納期がじわじわと近づいてくる。
すぐに、開発室は戦場の様相を呈してくるだろう。
しかし。
もう少しだけ。
せめて、家に絶対メイがいるという、存在への安心感が得られるまでは、早く彼女に会いたかった。
こんな気持ちであるということは、誰にも知られたくない。
自分がどうかしたのではないかと、何度となく思った。けれども、その衝動を止めることは出来ないのだ。
しかし、肝心の仕事をないがしろにすれば、彼女を食わせていくことさえ出来なくなる。
その責任感については、はっきりと理解していた。
前と違って、働くことに目的が出来た。
前は、面白ければそれでよかった。
けれども、これからは、メイを幸せにする一つの手段にしたかったのだ。
だからカイトは、家でも会社と同じように仕事が出来るよう―― 必要な機材の一部を持ち帰ってきたのだ。
まあ仕事のことは、今は置いておくとして。
週末については、メイに全部くれてやっても惜しくない、ということだ。
「何かあったのか?」
しかし、見えないことがある。
その理由だ。
週末の半日を、彼女はいったい何に使いたいのかということを、まだ聞いていなかった。
「あ、忙しいならいいの…お仕事で疲れてる休みの日だし」
カイトの質問を、どう取ったのか。
彼女は、あわてて両手をパタパタ振って、今の話をナシにしてしまおうとした。
そうじゃねぇ!
ダンッ、と。
あわや、食卓を拳で叩きそうになる。
すんでで、踏みとどまった。
ここで、メイを怖がらせるような態度を取ってどうするのか。
いまの言葉を聞いた時点で、カイトの中では、お願いを聞き入れることは決定していたのだ。
既に、その次のステップに入っていたのである。
しかし、やはり言葉が足りなかったのだろう。
彼女には、否定に近いように聞こえたのかもしれない。
「明日も、明後日も…一日中空いてる」
だから。
早く内容を言ってくれ。
カイトは、一体どういう『お願い』なのか、知りたくてしょうがなかったのだ。
早く、試験内容を教えて欲しかった。
その試験の結果如何によっては、彼女をどのくらい幸せにできたかが、見えるかもしれないのだから。
「えっと…あの……お引っ越し、したいの」
彼女は、言いづらそうな顔のまま、ようやく小さな声で言った。
引っ越し????
一瞬にして、カイトは汗をかいてしまった。
一体。
メイは、一体どこに引っ越しをするつもりなのか。
彼女の家は、もうここではないのか。
それとも、オレが何か――
頭の中は、とんでもない化け物どもの巣になってしまった。
もう夕食どころの騒ぎじゃなく、言語中枢どころか、ほとんどの思考機能まで停止に追いやられようとしていく。
このままでは、彼のエンジンまで止まってしまいそうな勢いだった。
「いつまでも、アパート…あのままにはしておけないから、引き払わないと」
その言葉で。
どんなにカイトが救われたことか。
すべてのロックが一気に解除され、全身が恐怖の縄から解き放たれる。
はぁ、と。
カイトはほっとしたため息を漏らした。
彼女の言う『引っ越し』とは、この家から出ていく、という意味のものではなかったのだ。
前の部屋の荷物を、全部引き上げに行くということで。
やっと確実に理解はしたものの、さっきの一瞬のショックが大きすぎて、カイトは何度か意識して呼吸を繰り返さなければならなかった。
確かに、メイの言う通りだった。
いつまでも、あのアパートを放っておくワケにはいかなかった。
まだ、中には彼女の荷物が置き去りのままなのだから。
部屋の中を思い出す。
たった一晩だけ、カイトが泊まった部屋。
何もない、がらんとした部屋だ。
あれを見た瞬間の気持ちが、一気に波のように戻ってくる。
カイトは、ぱっとフタをした。
もう、あんな気持ちになる必要はないのだ。
彼女はそこにいて、法的にも自分の妻なのだから。
あの部屋にあるものを全部捨ててしまいたい衝動と、初めて彼女と身体を交わすことができた時の気持ちと、2頭の龍が渦を巻くように絡まり合ってカイトを締め付けた。
しかし、彼女が望むなら。
荷物を引き上げたいというのなら、それでいいと思った。
「明日…行くぞ」
早く。
結婚前に起きた別れを思い出させるものは、片づけてしまいたかった。
「ありがとう」
嬉しそうなお礼の表情には、昔を思わせるようなイヤな影はなかった。
その笑顔に救われながら、カイトはようやくじゃがいもの煮物を、箸で突き刺すことが出来た。




