棘が溶ける
気付けばマンションにたどり着いていた。先に部屋へ入った透がリビングの電気を点け、玄関で立ち尽くす凛の元に戻ってくる。
凛の顔を見た透は鞄から自分のグレーのハンカチを取り、差し出した。そこではじめて凛は自分が泣いていることに気付いた。次々に溢れ出し、頬を伝っていた。
どうしてだろう?泣くことなんてなにもないのに。だけど不思議と涙はとまらない。
目をこすって止めようとすると、透は凛の目を覗きこんで言った。
「怖かったよね。もう大丈夫だから」
聞き覚えのあるその優しい声。それを聞いて、あたしは怖くて泣いていたんだと初めて気付かされた。
「助けてくれてありがとう……」
「うん。無事でよかった」
少し気持ちが落ち着き透を見ると、頬に掻き傷のようなものがあった。
「頬、怪我してる?」
「さっきの奴の爪が当たったみたい。すぐ治るよ」
「ごめんね」
「こんなの大したことないから」
それでも迷惑をかけてしまった後ろめたさがあり、また嫌われてしまったらどうしよう、と胸が痛んだ。
肩を落とし視線を下げた凛を見て、透は彼女が何を思っているのか分かってしまった。
「ごめん……」
突然謝った透に、弾かれるように凛は顔を上げた。どうして謝られたのか分からない、という顔で。
「無視なんかしてごめん。嫌っているわけじゃないんだ、ただ少し混乱していただけで」
透は顔を歪めて凛に言った。
その表情は見ていられない程辛そうで、言葉のあまりの悲痛な響き方に凛の心が波打つ。
この人、何を抱えているの?
彼が、誰も知らない深いところに沈んでしまっている気がした。
だが「嫌われてない」というフレーズは凛にとって、今最も聞きたい言葉だった。
「あたし、嫌われていると思った」
「違う。こっちの勝手な都合で関わらないつもりだった。だけどもうやめるよ。……もし許してもらえるなら、明日からは普通にしたいんだけど」
そんなの聞かなくても、答えは決まっている。
嫌われてなかった。なんだか理由がありそうだけど、透くんはあたしを受け入れてくれた。ここの所ずっと悩まされていた胸の棘が溶けたように、心が暖かい。
嬉しい……
幸せを噛みしめるように、凛はふわりと微笑んで「もちろん許すよっ」と言った。
――――――――――――
翌日。
凛にとってはトクベツな一日の始まりである。朝起きて、自分の部屋から出るのに呼吸を整えた。
今日から透くん、あたしと普通に接してくれる。
いつもはあたしが挨拶しても返してくれないけど、今日は違うのだ。どきどき。
一つ大きな深呼吸をし、部屋から顔をのぞかせる。
緑はまだ寝ているようだ。リビングには透くんが一人、テーブルで水を飲んでいる。
あ、こっちに気づいた。
「……おはよう」
バタン!
凛は驚いて扉を閉めてしまった。
まさか向こうから声をかけてくれるなんて!!!
心拍数が異様に上がって、嬉しさで頬が上気する。
一方。挨拶をしたのに扉を閉められた透は、
「……?何がしたいんだろう」
ひとり首をかしげていた。
ふたりの、新しい朝のはじまりである。