犬になったわがまま伯爵令嬢ですが、メイドに待てと言われるなんて聞いていません
「エマ。やっぱりそのリボンは違うわ。桃色にしてちょうだい」
鏡の中でエマの手が止まった。髪の右側には結び終えたばかりの白いリボンがある。片方だけ外すのもおかしいから両方やり直しになるけれど桃色のドレスに白では少し物足りない。結んでみなければ分からないこともある。
「先ほどお選びになった桃色は幅が広いので髪のまとめ方も変わります。よろしいですか」
「ええ。そちらの方が華やかでしょう。ミナ。お茶も替えて。もう冷めているわ」
ミナは道具箱の留め金にかけた指を離し私の横へ戻ってきた。カップに触れてから口を開きかけたので私は鏡越しに首を振る。飲めないほど冷たいとは言っていない。もう少し熱い方が好きだというだけだ。
「今度は香りの弱いものにしてちょうだい。昨日のは強すぎたわ」
「かしこまりました。では道具を戻してから」 私はミナを引き止めた。「お茶が先よ。髪を直している間に飲みたいの」
ミナは箱を椅子の横に置いた。私が何も言わなければカップを下げたついでに片づけまで始めてしまうところだった。順番を教えておいてよかったと思いながら私はエマの指先を見ていた。ほどいた髪をもう一度分けるので案外時間がかかる。
桃色のリボンは結んでみると幅がありすぎた。けれどまたほどいてもらうのも面倒なのでそのままにしておく。今日の予定は庭へ出るくらいしかない。少しくらい華やかでも誰も困らないだろう。
「明日のドレスも桃色を使いましょう。襟の白い飾りを替えてちょうだい。細いリボンが残っていたはずよ」
ミナが片づけかけた箱を開け直した。襟の飾りに合わせて袖口も直した方がよいかと聞かれたので私はそれも頼む。エマが何か言いかけたがもう鏡から目を離していた。細かい所まで頼めるのは助かる。
身支度を終えて廊下へ出るとお父様の部屋からヨナスの声がした。私は開いている扉から中をのぞいた。机に黒い布が広がりその上に銀色の首飾りがある。中央の白い石には細かな線が刻まれていて宝石にしては変わった模様だった。
「何をしていらっしゃるの。新しい魔道具?」 お父様が顔を上げた。「リリアーナ。フェル先生が調べてくださった品だよ。扱いが分かるまでは手を出さないように」
お父様はそう言ったがヨナスはもう首飾りを布から持ち上げていた。黒い袖の片方だけが机の端で折れている。道具の置き方にはうるさい人なのに自分の服にはあまり関心がないらしい。
「犬に姿を変えるものです。確認したところ動作は正常でした。ただしお使いになる際には」
「犬になれるの?」 私は机に近づいた。庭を歩くにしても犬の目で見たら違うのだろうか。スカートの裾も気にせず走れるならほんの一度くらい試してもいい。エマは私の後ろから首飾りを見ている。
「こちらを身につけて石の表面を押すと作動します。解除について先にご説明しますので」
「分かったわ。こうね」 差し出された首飾りを受け取って留め金を掛けた。ヨナスが何か言い足すより先に白い石を指で押すと眼鏡が跳ね上がったように見えた。実際には私の目の高さが下がったのだ。石の床に鼻が近づき顔を上げると机の脚が柱のようにそびえていた。
お父様が椅子を鳴らして立ち上がった。私はとっさに裾を押さえようとしたが手もドレスも見当たらない。代わりに床へ着いていたのは白い毛の生えた足だった。前に二本。振り返ると後ろにも二本あった。
「少々お待ちを。今の時刻を記録します」 時計の針は十時を指していた。ヨナスがそれを紙へ書きつける間に私は机の脚から離れた。歩くだけで四本の足が勝手に動く。体の後ろで何かが揺れているので振り返ったら白い尾がついてきた。どうして逃げるのかと思ったところでこれも私だと気づいた。
「わん!」 元へ戻してちょうだいと言いたかった。口の形を確かめてもう一度試しても出るのは短い鳴き声ばかり。お父様の顔を見上げているとエマが目の前にしゃがんだ。
「お嬢様。踏まれると危ないのでこちらへいらしてください」 それはもっともだけれど今はそんな話をしている場合ではない。私はヨナスへ向かって足を踏み出した。床で滑って体が横へずれエマの両手に支えられる。持ち上げられた途端に足の置き場がなくなった。
「急に動かないでくださいませ。落としてしまいます」 エマの腕の中で私は固まった。彼女の顔が近い。いつも見上げていた灰色の目を今はすぐそばから見ている。抱き方に不満を言いたくても四本の足をどこへ置けばよいかさえ分からない。
「解除は三日後の午前十時です」 ヨナスの説明に私は振り向いた。勢いで垂れた耳が顔を打つ。三分ではなく三日と聞こえた気がしたので聞き直そうとしてまた鳴いてしまう。ヨナスは残酷なほど正確に言い直した。
「七十二時間です。途中では戻せません。そのご説明をしてからお渡しするべきでした」 ヨナスが言い終えるのを待ってお父様が尋ねた。「確認はできているのかね。体に無理はないのだろうな」
お父様は首飾りの石を調べるヨナスの手元をのぞき込んだ。私はエマの腕から顔を出し二人へ向かって鳴いた。私にも説明してほしい。三日も犬のままで暮らすなど予定にない。
調べ終えたヨナスが私に向き直り記憶や考えは保たれることと体は犬として扱う必要があることを順に話した。服も一緒に変化しているので戻るときには元通りになるという。首飾りを外しても解除は早まらないらしい。首元で光る石を見ようとしたが自分の鼻の下はうまく見えなかった。
「リリアーナ。先生の話を聞かずに使ったのはお前だ。今度こそ最後まで聞きなさい」
私はもう聞いている。聞く以外にできることがないのだ。お父様に言い返せずエマの袖へ前足を押しつけた。彼女は私を抱き直し足が落ち着くように腕を寄せてくれる。それでやっと力を抜けたのがまた腹立たしかった。
部屋の外で足音が止まりミナがお茶の盆を持ったまま入ってきた。エマの腕を見て顔を明るくしたが私の首にある石へ目を移すと足を止めた。お父様の説明が終わるころには盆を握る指が白くなっていた。
「お嬢様なのですか。あの本当に?」 私は目を細めた。私以外の誰がエマに抱かれてこれほど不満な顔をするというのか。ミナはカップを見下ろしそれからもう一度私を見た。入れ直してきたばかりの茶が盆の上で湯気を立てていた。
「こちらは……お飲みにはなれませんね」 返す言葉があっても鳴き声にしかならない。熱いお茶を要求した私の鼻先へよい香りだけが届いてくる。
私の食事と手入れはエマとミナが受け持つことになった。二人がつききりにならなくて済むようお父様がほかの使用人へ仕事を割り振る。三日間は敷地の外へ出ず段差には気をつけること。ヨナスから注意を聞いた後私はようやく自室へ戻れた。
エマに降ろしてもらうとそのままいつもの椅子へ向かった。背を預ければ考えもまとまるはずだったのに座面が頭より上にある。前足を掛けてみても後ろ足が届かない。仕方なく一度下がって跳んだら椅子の縁に胸が当たった。
「お一人で上がるのはおやめください。今は落ちたときに手をつけませんから」 その通りなのだがさっきから正しいことばかり言われる。私は抱き上げてもらうために体を向けた。ところがエマは椅子の前へ座布団を敷きこちらを手で示した。床に座れという意味らしい。
私は座布団とエマを交互に見た。髪を結っていたときよりずいぶん高い所に彼女の顔がある。いつもならひと言で済むのにどれほど見つめても椅子へ上げてもらえない。長い沈黙の後で私が座ると彼女も腰を下ろした。
「高い所を減らした方が安全です。食事もこちらでなさいましょう。寝床は寝台の横にご用意します」
机の上の筆記具を見上げていたらエマが気づいて紙と一緒に床へ置いてくれた。書いて伝えればよいと思ったのに前足では軸を挟めない。転がった筆記具を両足で押さえようとして紙までずれたところでエマがそっと拾い上げた。私は白紙のままの紙から目をそらし座布団へ戻った。
安全のためだと言われると反論しにくい。寝台の上も駄目なのか聞きたかったが私の口はまだ開くと犬の声を出す。ひとまず座布団の厚みを確かめてからあまり悪くないことは認めると決めた。
昼の時刻になっても食事は運ばれてこなかった。扉の方へ行って戻りエマを見上げて鳴くと水の器を示される。水が欲しいのではない。もう一度鳴いてみたが今度は窓際へ行きたいのかと聞かれた。首を横へ振るとエマは考える顔で私を見た。
「言葉はお分かりになるのですね。はいのときは前足を上げていただけますか。難しければお顔を下げるだけでも」
右の前足を上げたら体が傾きエマの手に支えられた。はいと返事をするだけでこれほど大変なのか。私は顔を下げる方を選び空腹かと聞かれたところで大きくうなずいた。
「ただいま支度中です。器を置く台も作っておりますのでもうしばらくお待ちください」
私のために台まで作る必要があるのか。考えているうちに扉が開きミナが盆を運んできた。盆を置いた彼女が廊下へ引き返し今度は布を掛けた低い箱を運んでくる。エマがそれを受け取って器を載せると私にちょうどよい高さになった。
細かくほぐした肉からよい匂いがした。私の食事だけ余計に手をかけていたらしい。その説明を先にしてくれれば急がせたりしなかったのにと思いながら前へ出た。器にまだエマの指が掛かっていたが少し顔を寄せるくらいなら構わないだろう。
「待て」 足が止まった。エマも止まった。私たちは器を挟んで顔を見合わせ遅れてミナが口元を押さえた。今のは聞き間違いだろうか。伯爵令嬢である私に向かって犬へ言うような命令が聞こえたのだけれど。
「失礼いたしました。熱いのでお待ちください」 エマは器の中を混ぜた。私は抗議のために顔を近づけ湯気が鼻に当たって後ずさった。犬の鼻はずいぶん敏感らしい。器が遠ざかるのを見送りながら今回は待ってあげてもよいと決める。そうしなければ食べられないという事情もある。
冷めるまでの間に水を飲んだ。舌の使い方が分からず最初は鼻をぬらしてしまい差し出された布に顔を押しつける。ミナは何も言わず水を取ってくれた。今の失敗を笑わなかったことは覚えておこう。
ようやく食べ始めると二人ともじっとこちらを見ていた。そんなに見つめられては落ち着かない。私が顔を上げるたびにミナが緊張しエマが器を確かめる。半分ほど食べたところでおいしくないと心配されていたのだと分かった。
私は残りを食べ空になった器から離れた。それでよいはずなのにミナはうれしそうな顔をする。朝に茶を入れ直してきたときにはこんな顔をしていなかった。犬が完食したくらいで喜ぶなんて少々大げさではないだろうか。
食後は毛をとかされた。犬の毛にまでくしが必要なのかと体をひねったが背中に触れた感触はなかなかよかった。ミナが同じ所へ何度もくしを通すので足を伸ばすと腹まで見えそうになって慌てて戻した。気持ちがよいこととだらしなくしてよいことは違う。
「……かわいい」 聞き逃さなかった。私が顔を向けるとミナはくしを止め赤茶色の前髪を気にするように手を上げた。言い訳を考えている顔だったのでそのまま待つ。私に待たせるばかりでは不公平だ。
「毛並みの話です。白くてあのとてもきれいなので」 最初からそう言えばよいのだ。私は背中を向け直し続けるように座り直した。ミナの手がまた動き出す。部屋へ戻ったエマがこちらを見ていたが何を考えているのかはよく分からなかった。
午後になるとエマは私を衣装部屋へ連れていった。自室で待つよう言われたが扉が閉まる前に足元を抜けたのだ。一人でいたくないのではない。何をするにも相手が必要な体で置いていかれるのが不便なのである。
衣装部屋ではミナが桃色のリボンを机へ伸ばしていた。頭につけていたものかと思ったがこちらは朝に明日のドレスへ使うよう頼んだ細い方だった。ミナは白い飾りをドレスから外している。桃色のリボンはその横で出番を待っていた。
「朝にご注文いただいた飾りの付け替えです。今のうちに進めておきますのでお戻りになったらお確かめください」
エマが私の顔の向きを見て教えてくれた。ミナの指が細い糸を拾い布から引き抜く。糸を抜くと白い飾りの端が外れたが反対側はまだ付いている。ミナが布を裏返すたび机に落ちる糸が増えていく。
私は別の椅子の下へ入り作業を見ていた。リボンの幅が変われば縫う位置も変えなくてはいけない。図案を考えるときには分かっているはずのことだった。けれど朝は白を桃色にするだけのつもりでいた。
ミナが針へ糸を通し縫い始めた。途中でエマが長さを確かめて印を直す。私は机の反対へ回ったが犬の背では上まで見えない。立ち上がろうとするとエマに止められたので下から二人の手だけを見て過ごした。
縫い終えたころには窓から入る光の位置が変わっていた。私は座ったまま眠りかけ顔が下がって目を開けた。ミナの前には形の整ったリボンが置かれている。これを明日の朝に見せられていたら私は袖口も変えるよう言っただろうか。襟とよく似合っているが袖口の形までは思い出せない。
エマが道具を片づけミナへ休憩に入るよう告げた。私は二人の間で迷いエマについて廊下へ出る。自室の前を通り過ぎたところで立ち止まると彼女も足を止めた。休むのだから私の部屋へ来るのではないのか。
「私は食堂へまいります。お部屋でお待ちになりますか」 私は急いで首を振った。ここで別れたらまた誰かが扉を開けてくれるまで一人になる。エマが少し考え食事中は足元で待つことを条件に連れていってくれた。私が椅子へ座って食事を待つようにエマにも座って食べる場所がある。ついていってから気づくようなことではないのだが。
食堂の手前には窓と長椅子のある場所があった。食事を終えたエマはそこで腰を下ろし折った便せんと小さな筆記具を取り出す。私は足元の床を調べた。悪くはないけれど少し硬い。顔を上げると目が合ったので膝へ前足を掛けてみせた。
「抱き上げてほしいのですか。ご気分が悪いのではありませんね?」 私はうなずいてから首を振った。エマは確かめ直すように私を見てようやく抱き上げた。短い返事でこれほど手間取るとは思わなかった。膝へ収まると服の布が柔らかく座布団より落ち着いた。
エマがまた便せんを開いたので私はその手に鼻を押しつけた。せっかく近くにいるのだから背中をなでてもらいたい。片手で首の後ろをかいてもらい次は耳の付け根へ顔を向ける。ところが手が止まり便せんが膝から落ちないよう押さえられた。
「お嬢様。ここにいらっしゃるなら動かないでくださいね。手紙が書けません」 いつもの口調だった。叱っているのでも困り果てているのでもなく今はそうすると困ると教えている。私は鼻を引っ込め折り畳まれた便せんを見た。書いてあったのは上の方の数行だけで下はまだ白い。
私の髪をまとめる手が今は紙へ文字を書いている。私が身じろぎすると便せんの端も動いた。窓の外で鳥が鳴いたので顔を上げかけたが背中を丸めて寝直した。退屈なのは確かだったけれどここから降りる方がもっと嫌だった。
帰りにミナと行き合うと彼女は手にしたカップを鼻から遠ざけた。強い茶の匂いがする。昨日は私の前へ置いただけで下げさせたものだ。そんなものをなぜ飲むのかと見ていたらミナがカップを持ち直した。
「これですか。私は好きなんです。お嬢様には香りが強すぎたようですけれど」
それは知っている。自分で飲んだのだから分かる。ミナは私が見上げ続けるのを不思議そうに見てさらに言葉を足した。エマは横から口を挟まずにいる。
「エマさんはもう少し軽いお茶なんですよ。私はこれを飲むと休憩だなって思うので」
二人がどんな茶を飲むのか私は考えたこともなかった。ミナはおいしそうにカップを口へ運ぶ。私には香りがきついままだったので鼻をそらしてエマの後ろへ回った。好きに飲めばよいと思う。私のカップへ入れなければ何の問題もない。
その夜は寝台の横に置かれた寝床で眠った。ふちの低い箱へ布が重ねてあり入りやすいよう片側だけ開いている。呼び鈴も前足で押せる位置へ移してもらった。エマは用があれば鳴らすよう言って扉を閉め私はやっと部屋の静けさを取り戻した。
ところが横になると寝台の脚が目に入った。上にはいつもの枕がある。私は首を伸ばしすぐに諦めて布の中へ潜った。エマにもう一度来てもらえば上げてくれるかもしれないが降りるときにも呼ばなくてはいけない。明日の朝まで犬でいることをここでようやく実感した。
翌朝は廊下の足音で目が覚めた。人間の耳では分からなかったのに誰かが曲がり角を来る前から気づく。私は寝床を飛び出して扉の前へ行った。開いた隙間へ鼻を入れるとミナが驚いて盆を引き上げた。
「おはようございます。そんなにお腹がおすきでしたか」 朝の挨拶より先に食いしん坊と決めつけられた。私は食事を待っていたのではないと示すため水の器へ寄った。けれど盆を置く音で振り返ってしまう。ミナが笑ったので今回は食べてから抗議することにした。
午前中は衣装部屋の隅にいた。エマが私のために座布団を持ってきてくれたのだ。二人には仕事があるので自室で待つよう勧められたが部屋にいるなら邪魔をしないという条件でついてきた。犬の姿でも私の意見は通る。通すまでに何度も首を振らなくてはならないのが難点だった。
ミナが畳んでいた布の一枚を床へ落とした。両手にはまだ洗った布が重なっている。私は座布団から出て床の布へ口を寄せた。これくらいなら犬でもできる。端をくわえて持ち上げるとミナが息を吸うのが聞こえた。
「お嬢様それは」 私は顔を高く上げた。引きずってはいないしちゃんと拾えている。ほめてもよいのだと目で伝えたがミナは手元の布を置いてからこちらへしゃがんだ。端を持たれて口を開くと白い布にぬれた跡があった。
「拾ってくださったのですね。ありがとうございます。ただこちらはお洗濯し直します」
私は自分の口を閉じた。布を運ぶのだから口を使うしかない。それがよくないなら先に言ってほしいと思ったが頼まれて拾ったわけではなかった。ミナは布を別のかごへ移し机に戻った。
エマが座布団を手で示した。大げさに慰められるよりはよかったけれど何もできないと言われたようで腹立たしい。私は戻る途中で布のかごを振り返った。さっきまで畳めば終わりだった一枚が洗う前の場所へ戻っている。
しばらくしてミナがかごを運び出した。私もついていったが廊下で待つよう言われたので座った。戻ってきた彼女は私に気づくと歩幅を落とし隣を通る前に声をかける。私はその靴について衣装部屋へ帰った。今度は落とし物がないか探すのをやめた。
昼食の後には庭へ行きたくなった。窓から見える小道に日が差している。朝から室内で寝てばかりではいくら犬でも体がなまるだろう。ミナが衣装部屋を出ようとしたところで裾を引くと彼女は立ち止まって窓を見た。
「お散歩ですか。ではこの道具を片づけてからにしましょう」
ミナは手にした箱を持ち直した。私は窓と扉の間を歩いて見せる。片づけは庭から戻ってからでもできるはずだった。もう一度裾へ口を寄せるとミナは布を引き上げてよけた。
「そのままでは糸が出てしまいます。お嬢様も傷めたくはありませんでしょう?」
自分の服ではなかったけれど糸が飛び出すのは確かに嫌だ。口を離すとミナはうなずいて箱を開けた。細い道具を布へ差し込み小さなはさみを所定の場所へ戻す。私は扉の前で待ちながらなぜ後にしてはいけないのかと考えていた。
「お待たせしました。ではまいりましょう」 留め金が閉まるとミナはすぐこちらへ来た。さらに何か用事が増えると思っていた私は立ち上がるのが遅れた。エマへ行き先を伝える声を聞き私は先に廊下へ出る。急かさなくても本当に連れていってくれるらしい。
階段は抱いて降ろしてもらった。庭へ出る前には体に柔らかい帯を回され背中に細いひもをつながれる。道まで飛び出したら危ないのでという説明にはさすがに私も首を振った。そんなことをするはずがない。
それでもミナは外してくれなかった。人間のときと歩く速さも目の高さも違うから慣れるまではつけてほしいという。私は座って帯の具合を確かめた。首を引っ張られるわけではないので今日のところは許すと決める。
庭の小道は普段より広かった。花の下にも通れそうな隙間があり風が吹くたびに葉の裏が白く光る。遠くの匂いまで届くので道端を確かめているうちに足が止まった。ミナもひもを緩めたまま待っている。
次に顔を上げると彼女はしゃがんで花を眺めていた。前髪が頬に掛かり押し戻そうとした指に土がついている。私が鼻を寄せるとその手を慌てて後ろへ隠した。触るつもりはなかったがそういうことにしておく。
「ここならお部屋からも見えますね。あちらがお嬢様の窓ですよ」 見上げると二階の窓が開いていた。昨日まではそこから花を見下ろしていたのに今は花の方が高い。私が窓と花を順に見ているとミナは急がせず待っていてくれた。そのために散歩が遅れているとは言わなかった。
帰り際に小道の端を走った。ひもが張る前にミナもついてくる。私が先へ出たつもりでも数歩で追いつかれてしまうのでもっと速く走ろうとして足がもつれた。転ばずに立ち直ったのにミナはもう私の横へしゃがんでいる。
「今日はそのくらいにしましょう。お水を飲んでからお部屋へ戻りますよ」
少し走っただけで疲れたと思われるのは不本意だった。けれど口を開けると息がせわしくなっている。ミナの差し出した水を飲み庭を振り返ってから歩き出した。明日はもう少し先まで行ってもよいかもしれない。
夜には天気が変わった。私室の照明がつくころには窓の向こうが雨で白くなりミナが掛け布を寄せる。私は寝床へ入ったが窓の向こうの音が気になって顔を上げた。昼に歩いた道へも雨が降っているのだろう。
窓が白く光り遅れて大きな音がした。四本の足が全部伸びて自分でも何が起きたか分からないうちに寝床から出ている。私はミナの足元へ走り彼女の靴に前足を乗せた。
「窓を閉めてまいりますね。こちらで」
待ってというつもりで鳴いたら怒っているような声になった。ミナは一度足を止めたが雨が入り込まないよう窓へ向かう。また白い光が走る。彼女の手が留め金の前で止まったのを見て私は口を閉じた。
次の音と一緒にミナの肩が上がった。閉めた窓の前で一呼吸置きこちらへ戻ってくる。私はその様子を目で追った。平気な顔で働いていると思ったのによく見ると唇を結んでいた。
「……大きい音でしたね」 そう言うときまで私を見る必要はないのにミナはしゃがんで目を合わせようとした。私は足を引き長椅子の下へ入った。背中の上に板があると少し落ち着く。ミナはそこをのぞいてから窓との距離を見た。
「私もこちらにいます。出ていらっしゃらなくて結構です」 床に腰を下ろしたミナのスカートが椅子の前へ広がる。私は先の方へ鼻を出し布の陰から顔を見上げた。彼女は長椅子の脚へ片手を添えていた。お互いに相手が動けば気づく距離だった。
雷が鳴るたびに私の耳は勝手に動いた。止めようとしても止まらない。ミナも目を閉じてしまうので平気なのは椅子だけだ。私は腹を床につけ顔を前足へ載せた。ここに座っている方がよいと言いたくても今は声を出す気になれなかった。
しばらくしてエマが扉を開けた。空になった寝床を見てからこちらへ視線を移す。ミナが立ち上がろうとしたがエマは手を上げて止めた。私の座布団を持ってきて長椅子の下へ差し入れる。
「そちらにいらしたのですね。床が冷えますからこれを敷いてください」
ミナが布を引くと私も一緒に出そうになった。慌てて椅子の奥へ戻り二人が座布団を置くのを待つ。音がしてまた耳が伏せられる。エマは無理に抱き出さず私が座り直すまでそばにいた。
「交代まで私もここにいます。ミナは掛け布を使ってください。今夜は廊下からも様子を見るようにしますね」
エマの言葉にミナがうなずいた。私も顔を下げると二人が同時にこちらを見る。今のは返事ではない。座布団の具合を確かめただけだ。説明する方法がないので私はそのまま腹をつけた。
エマが長椅子へ座りミナが足を伸ばした。誰も怖くないとは言わなかった。大きな音がすれば私もミナも動くしエマはそのたびに窓の方を確かめる。私が眠りかけるとミナの手が床の上でこちらへ近づいた。
私はその指へ鼻を寄せた。ミナは手を引かず耳の後ろを一度なでた。もう少し続けてほしかったが彼女の手は椅子の脚へ戻ってしまう。私は追いかけずに顔を伏せた。目を閉じてもそこにいると分かっていた。
三日目の朝には雨がやんでいた。寝床へ戻してもらったところまでは覚えているがその後のことは知らない。扉が開くと私は起き上がりミナの顔を見た。彼女は窓を開ける前に空を確かめている。
「今日は晴れそうですよ。お休みにはなれましたか」 私はうなずきついでに彼女を見続けた。ミナは私の寝床を直しながら首をかしげる。こちらから質問する方法を決めていなかった。あなたは眠れたのと聞きたいだけなのに見つめていると毛並みの心配をされてしまう。
朝食の後でエマが来たのでミナが廊下へ出たときにその方へ鼻を向けた。エマは扉を見てから私に向き直る。私がうなずくとあちらへ行きたいのかと聞かれた。そうではないと首を振りもう一度扉を見る。
「ミナが気になるのですか。昨夜のことでしたら交代の後は休んでいますよ」
私はそこで顔を下げた。伝わるまでが長いけれど伝われば返事はもらえる。エマが私の耳の後ろをなでた。昨日のミナより少し強くちょうどよい所に指が当たるので私は質問を終えることにした。
その日の午前はいつもより早く過ぎた。ミナが私室の机で布を縫い私は足元からそれを見ていた。糸を替えるときに彼女が色を口にする。私が首を振ると別の糸を見せてくれたが三つ目でエマに止められた。
「こちらは補修ですから元と同じ色を使ってください。お嬢様の新しい図案はお戻りになってからにしましょう」
私としては二つ目の方が合うと思ったのだ。けれどミナは最初の糸を選び縫い始める。口が使えたらもっと詳しく説明できたはずだと考えながら私は床へ伏せた。犬になったからといって色の好みまで消えるわけではない。
午後にはまた庭へ出た。昨日と同じ小道なのにぬれた土の匂いが強い。私は花の下をのぞきミナに呼ばれて道へ戻る。先へ行きたいと示すと彼女も木の向こうを見た。雲が少し厚くなっていた。
「雨が来そうですから今日はこの辺りで戻りましょう。また明日も出られますよ」
明日は人間に戻る日だ。私はそのことを伝えたくて立ち止まったがミナは空を気にしている。確かに花へ落ちる水の音がし始めた。私たちは急いで軒の下へ入り残りの道は抱いて運んでもらった。
部屋へ戻ると足を拭かれた。前足を一本ずつ持ち上げてもらう間私はミナの腕へ鼻を押しつけた。まだ帰ってこなくてもよかったのにという抗議だった。彼女は布を替えながら雨では仕方ありませんよと答える。
最後の足を拭き終えるとミナは私を寝床へ降ろした。私はすぐに出て裾へ近づく。庭を歩いた時間が短かったのだからその分くらいは部屋にいてくれてもよい。背中を向けて待ったがいつもの手は来なかった。
「これから私の休憩です。終わったらまたまいりますのでお部屋でお待ちください」
私は振り向いた。ミナは扉の方へ歩いている。追いかけると彼女は立ち止まり水の器と寝床を確かめた。どちらにも不満はないと分かるまで私は何度か首を振ることになった。
「ご一緒にいらしたいのですか。今は食事をしますから座ってお膝には乗せられませんよ」
食事なら後でもよいでしょうと言いかけて口を閉じた。言ったところで声にはならないのだがその言葉を考えたことは自分で分かった。朝のお茶も庭へ出るときの箱も私は全部そうやって後にさせてきた。
ミナは待っていた。私が足を止めたので抱き上げた方がよいか迷っているらしい。私は顔をそむけて寝床へ入った。彼女が呼び鈴を近づけてからもう一度戻ってくると言った。扉が閉まると雨の音がまたよく聞こえた。
寝床は柔らかかった。水もすぐそばにある。それでも何か足りないので私は布の上で向きを変えた。耳をとかす手か私に話しかける声が欲しかった。犬になる前は一人でお茶を飲みながら本を読んでいたはずなのに今はそれもできない。
床の鈴へ前足を寄せた。押せばミナが来る。もしかしたらエマかもしれないがどちらでもよかった。来てもらってから少しだけと頼めば私を置いていくほど冷たくはないだろう。
足を引っ込めて布を前へ押した。二人とも冷たい人ではない。呼ばれれば返事をして何をしてほしいか分かるまで聞いてくれる。私が首を振れば別のことを考えまた違うと言えば最初からやり直す。自分が昼食を済ませた後でも私はミナを待たせようとしていた。
寝床から出て窓へ近づいたが雨は弱くなる様子がなかった。廊下で足音がするたびに扉を見る。違う方へ遠ざかると床へ戻りまた音がすれば顔を上げる。鈴を押すよりじっとしている方がずっと面倒だった。
私は結局一度も眠れなかった。扉が開いたときにはもう立ち上がっていたので落ち着いて待っていたような顔もできない。ミナの靴が見えた途端に体の後ろで何かが動き始めた。止めようとして振り返ると尾が左右へ揺れている。
「お待ちくださったのですね。ほら戻ってまいりましたよ」
そんなに喜んでいないと言いたかった。少なくとも尻尾ほどは喜んでいない。けれどミナがしゃがんだので駆け寄ってしまい背中に手が触れるとそこから動けなくなる。私が鼻を寄せる先へ彼女の指が来た。
「明日にはお戻りになりますね。お茶の支度もしておかないと。今度は熱いうちにお飲みになれますよ」
私は顔を上げた。ミナはもう明日の仕事を考えている。私の好みの茶葉とカップのことを話し朝は髪を結い直す時間も要ると続けた。そうなれば彼女はまた私の後ろに立ち鏡の中で返事をするのだろう。
今なら目の前へ座ってくれる。自分の茶の好みも雨が来そうなことも思ったままに話す。それが犬の私にだけなら少し困る。人間へ戻りたかったのは本当だが全部を元へ戻されるのは違う気がした。
ミナは私の顔をのぞき込んだ。具合が悪いのかと聞くので私は首を振る。明日も同じように話してほしいという頼み方は分からなかった。代わりに伸ばされた手へ頬を押しつけると彼女の指が頬から耳の下へ移る。私は手のひらの下へ頭を差し入れた。
四日目の朝は何度も時計を見た。あと少しで口が使えると思うとこれまで言えなかったことが次々浮かぶ。食事は思ったよりおいしかったこと。寝床はもう少し窓に近くてもよかったこと。庭の散歩は短すぎたこと。忘れないよう順に並べているとエマが私の前へしゃがんだ。
「お戻りになるときに狭くなりますから寝床から出てお待ちいただけますか」
私は床へ降りて部屋の中央へ向かった。低い机と座布団は脇へ寄せてある。ヨナスが来て首元の石を確かめ予定通りだと教えてくれた。ミナは服のブラシを持って壁際に立ち私の後ろを見ていた。
尻尾は今のところ動いていない。これで犬の姿は見納めなのだからできるだけ堂々としていよう。私は足をそろえて座り十時へ近づく時計の針を見上げた。隣ではエマが膝をついている。戻るときに体勢を崩したら支えてくれるつもりらしい。
石が光ったと思ったら床につけていた前足が手になった。急に近くなった膝へ顔をぶつけそうになり私は両手で体を支える。足首まで伸びた桃色の布を見てから指を開いて閉じた。指が五本ある。どの一本も思った通りに動いた。
エマに手を貸してもらい立ち上がった。高い所へ来たようで少し落ち着かない。ミナが姿見をこちらへ向けると栗色の髪も金茶色の目も私のものだった。頭の左右には幅の広い桃色のリボンがついている。
「そのリボンは今日は嫌だわ」 声が出た。三日ぶりに出した声がそれだったので私は鏡の中の自分を見た。エマもミナも返事をしない。ヨナスだけが首飾りの留め金へ手を伸ばしかけたままこちらの様子をうかがっている。
「……結び直す前に言っておくわ。今日は青がいいの。幅はそれより狭いものにしてちょうだい」
「では青をお持ちします。髪も一度とかし直しましょう」
エマが答えるとミナはブラシを置いて扉へ向かった。私は彼女を呼び止めた。こちらを振り向いた顔が三日前の朝と同じように緊張している。また違う色に替えろと言うつもりではなかったのに言葉が出てこない。
「リボンは後でいいわ。先に二人ともこちらへ来て」
ミナはエマの横へ戻った。私は犬の間に考えた順番を思い出そうとしたが食事や寝床の話は今でなくてもよかった。ヨナスへ首飾りを外してもらい二人の顔を見直す。エマには顔を上げれば目が合う。私より背の低いミナはうつむいていたので名前を呼んでもう一度こちらを向いてもらった。
「三日間世話をしてくれてありがとう。言いたいこともなかなか通じなくてきっと面倒だったでしょう」
「ご無事にお戻りになって何よりです」
エマはそう言った。うなずいて終わりにしたくなった。二人とも黙って私の続きを待っている。けれど糸をほどいていたミナの指を思い出すと礼だけ言ってリボンを替えてもらうわけにはいかなかった。
「それから……いつも何度もやり直させていたことも。私が言い直したらそれまでの分はやり直しになるのよね。分かっていたのにたいした手間ではないと思っていたわ」
言い終えた後で手を組み替えた。エマは私を見ている。大丈夫だとも気にしていないとも答えない。私はそう言ってもらえるつもりだったのかもしれない。少し待ってから言い足りない分を続けた。
「次からはできるだけ先に決めるわ。お茶も片づけもすぐと言う前に何をしているか聞く。だから……今までのことはごめんなさい」
「では支度を始める前にお選びいただけると助かります。迷われるときは並べてお持ちしますので」
エマの返事に私はうなずいた。並べてもらえばきっとまた迷う。それでも結び終えた髪をほどいてもらうよりはよいはずだ。ミナも隣で口を開き自分の手を見下ろしてから私を見た。
「私も次の仕事があるときはお伝えします。後でもよいものはそう言っていただけるとありがたいです」
「分かったわ。今のリボンは後でいいものよ。お父様へ戻ったと知らせる前には替えたいけれど」
口にした後で二人を見た。エマは髪を整えたらすぐにお父様へ知らせましょうと答えミナがリボンを取りに行く。今度は呼び止めなかった。ヨナスが首飾りを箱へ収める音を聞きながら私は椅子へ座った。誰かに抱き上げてもらわなくても座面へ腰を下ろせた。
青いリボンは思った通りの色だった。エマに片方を結んでもらったところで鏡を見て私は幅を確かめた。もう少し狭い方がよかったかもしれない。口を開きかけると鏡の中でエマと目が合ったので左右をそろえてもらうだけにした。気にならないほどではなかったが今日一日くらいなら許せる。
お父様は戻った私の姿を見て長く息を吐いた。顔を近づけられ腕を動かすよう言われ歩くところまで確かめられる。少々大げさではないかと思ったものの三日前には抱いて運ばれていたので黙って従った。首飾りをまた試したいとは言わなかったしお父様もその話はしなかった。
昼食を済ませて私室へ戻ると床にあった呼び鈴が机の上へ戻されていた。犬用の寝床も片づき窓際の椅子にはいつものクッションが載っている。私は座って足を組み直し庭を見下ろした。花の間を通る小道はここからだとずいぶん短い。
午後のお茶を運んできたのはミナだった。私がカップを取るのを見てから盆を抱えて下がろうとする。口に含むと好きな香りがした。けれど温度は少し低い。もっと熱いものを飲みたいと私はカップを受け皿へ戻した。
「ミナ。これはもう少し熱い方がいいわ」 彼女の手が盆から離れかけた。私はカップを自分の方へ引き寄せ今のは下げなくてよいと続ける。ミナは受け皿を見る。以前と違うことを言うとかえって説明が増えるらしい。
「次に入れるときからでいいの。これは飲めるわ。そこまで冷めているわけではないもの」
「承知しました。次はもう少し熱くいたしますね」
ミナが盆を持ち直した。私は窓の外へ目を向けそのまま帰してよいのか考えた。用があるわけではない。お茶も来たし髪も直っている。だからと言って扉が閉まるのを見送るのはつまらなかった。
「庭でお茶にしましょう。エマも呼んできて。二人とも付き合ってちょうだい」
ミナの足が止まった。言った後でまた順番を飛ばそうとしていることに気づいた。私はカップを持ち上げ返事が来るまで待つ。ミナは扉と私の間で顔を動かしてから盆を抱え直した。
「今は片づけの途中ですので休憩までお待ちいただいてもよろしいでしょうか。エマさんにも聞いてまいります」
「……ええ。いつになるの?」
ミナが時計を見て時刻を教えてくれた。思ったより先だった。ここにある茶を飲み終えてもまだ余る。その間は本を読めばよいはずだが私は庭の小道へもう一度目を向けた。
部屋へ来たエマにも同じことを頼むと休憩の時間ならと答えられた。二人の休憩を私が取ってしまうのではないかと気になったけれど一緒にお茶を飲むのだから悪い過ごし方ではないと思う。何より私が一緒にいたい。
「嫌ならそう言っても構わないわよ。でもできれば来てちょうだい。仕事の話をしなくてもいいから」
「では休憩に入りましたら伺います。私は手紙の続きを書きたいのでお茶を飲んだら先に失礼してもよろしいですか」
エマの手紙はまだ終わっていなかったらしい。私はかまわないと答えてミナを見た。彼女も行きますと言ったので椅子の背へ体を預ける。庭の席は三つ用意してもらおう。
「ミナのお茶は別に用意して。あの香りの強いものが好きなのでしょう。エマはもっと軽いものだったわね。パンもあった方がいい? 私は焼き菓子がいいのだけれど」
「覚えていてくださったんですか」
「三日もそばで飲まれたら覚えるわよ。私はやっぱりあまり好きではないから同じものにしないでちょうだいね」 ミナは今朝とは違う顔で笑った。ジャムを挟んだ焼き菓子も持っていってよいかと聞かれたので私もうなずく。エマは焼き目のついたパンを一切れと言った。パンも焼き菓子もそろえて茶は三人とも別になる。思ったより大きなお茶の支度になりそうだった。
二人が支度を確かめている間に私はカップを空けた。窓の外はよく晴れている。先に庭へ行って席を選んでおこうと思い椅子を離れるとミナが振り向いた。
「お嬢様。まだですよ。お約束の時間までもうしばらくお待ちください」
「私はもう犬ではないのよ。お茶の場所を見に行くだけでしょう」 そう返すとミナは困ったように笑ってエマを見た。エマまで口元を緩めている。以前なら何がおかしいのか聞いたところだが私も自分の言い方が少しおかしかった気がしてきた。これでは散歩へ行きたくて扉の前にいた昨日と同じだ。
私は椅子へ戻りクッションを引き寄せた。二人は片づけの残りを済ませに扉へ向かう。机の時計をこちらへ向けてから本を一冊取って膝に置いた。
「忘れないで来てちょうだいね。待っているのだから」
ミナがこちらを振り返り今度は隠さずに笑った。エマは扉を押さえたまま時間になったらと返事をする。私は本を開き最初の一文を読んだ。扉が閉まる前に何か言い足したくなったけれど、呼び止める代わりに二人へ手を振った。




