第一話
最初、男と私の間には勿論愛なんていう綺麗なものは存在しなかったし、好意も、敬愛も、関心すらもなかった。だが、私たちの間には何かの引力みたいな特別な力が働いていた事は確かで、互いに夜に付きまとわれていた事も確かだった。
男と私が接点を持つ時は、いつも夜だった。空を飛び交う車が眩い光を放ちながら夜を切り裂き、赤や青や白のネオンが街に満ちると、男は地下から地上へと這い上がってくる。梯子を昇り、マンホールをこじ開け、まるで地面を這いずり回る鼠の如く、うにょっと顔を出すのだ。
私が男と初めて出会ったのは、まさに地下から地上へと男が手を伸ばした瞬間だった。私はその時仕事を終えたばかりで、何十日にも及ぶ連続勤務により疲労困憊で、おまけに左の手では娘の愛花の手を引いていた為、足元にまで目をやる余裕がなかった。前を歩く人たちが妙な進路変更をするなあ、とぼんやりと考えた時には遅かった。男の手は私の運動靴の下敷きになり、「いてえっ、いてぇよ」と情けない声をあげていた。
「すみません、わざとじゃないんです」
男を引き上げてから何度も頭を下げた。ぼろぼろのスボンに布切れみたいな服を身に纏っており、その風貌はみるからに浮浪者で、そんな男に私が頭を下げ続けているものだから行き交う人々は嘲笑を浮かべていた。だが男は一切気付いておらず、顔を俯いたまま手を抑えていた。そんなに痛かったのだろうか。骨が折れていたらどうしようと、そんなことばかりを考えていると、「折れてはねえみたいだな」と男がふっと顔をあげた。瞬間、目を見開いた。視線は私の目ではなく、その更に下に向けられていた。ちょうど私の左の頬のあたりだった。
「あんたその痣」
男がその言葉を放った時には私は踵を返していた。身に纏っていたフードを目深に被り、愛花の手を引いたまま、夜が溶け落ちた闇の中へと駆け出した。
それからというもの何度も男と出くわした。ある時は路地裏で、ある時は食料品店で、ある時は私が働いている職場の近くで。男はその度に「よお」と気安く声をかけてきた。ある日、「あんた名前は?」と尋ねられたので反射的に「古宮美優です」と答えてしまったが、男が「そうか。美しいって文字が入っているのか」と黄ばんだ歯をみせながら笑みを浮かべたことですぐに後悔した。それからは私はいつも会釈をするだけで、すぐに男の前から離れたのだった。
その日の左目の抽選結果は、埃と煤でまみれた路地裏で見届けることにした。本当は家に帰ってから保存されたものをゆっくりみればいいのだが、リアルタイムで見届けなければ運まで逃してしまいそうだからやめた。近くにあったゴミ箱を引き寄せて、娘の愛花をそれに座らせる。愛花は今、ついさっき買ってあげたばかりのアイスキャンデーを食べるのに夢中で、足元を二匹の鼠が横切ったことにも気付いていない様子だった。マイクロチップが埋め込まている左手の親指の付け根辺りを素早く二度タップする。すると、手のひらにぴったりと収まる程の大きさの液晶が浮かび上がる。すぐさま顔認証を済ませ、Facies という欄をタップした。
機械的な女性の音声が鼓膜に触れる。ちょうどカウントダウンが始まっているところだった。5.4.3と数字が減る度に私の鼓動は強く波打った。
「それでは、本日の抽選結果を発表致します。まずは左耳からです。当選番号は、211593、235686、274621。続いては右耳──」
わたしが応募したのは左目だ。無関係なのに心臓が痛くなる。
「さあ、ここからは人気のパーツ右目と左目、そして鼻の発表を一気にいきましょう!当選番号は」
私は左目を応募している。番号は288491だ。胸の中で何度もその番号を口にする。だが、私の番号が呼ばれることは無かった。思わずため息をつき、空を見上げた。「よお」といういつもの掠れた声が鼓膜に触れたのはそんな時だった。振り返ると男が路地の壁にもたれていた。
「まさかあんたまでFacies に取り憑かれてるとはな。なんだ、あんたもaq2300に行きたい口か? それとも単純に偽物の顔のパーツと取り替えようとする街の住人たちと同じか?」
「愛花、もうアイス食べた? いくよ」
男の言葉は無視し、ゴミ箱に乗っていた愛花をおろす。手を引いて踵を返そうした時だった。「なんで顔を変える必要があるんだよ。あんたはもう十分に美しいのに」と男が言った。瞬間、ちりっと火花が散る。気付いた時には振り返っていた。
「美しい? 私が、ですか?」
「あんた以外いないだろ」
男は悪びれもせずに「フードなんて被る必要ない。どうしていつも二人してそんなものを被ってる。なんか、死神みたいだぞ?」と続けた。ふざけんな。怒りが湧いた。
「私の顔見ましたよね? 痣があるの。おっきな痣が。この子にもね。こんな顔で平然と人前で歩ける訳ないでしょ?」
「だから顔のパーツがいるのか」
「違う。それだけじゃない。容姿が美しくなければこの世界では生きていけないの。あんたみたいに世間から離れた人間には分かんないわよ!」
最後はそう吐き捨てて愛花の手を引いて走り去ろうとすると「その子にまでこの狂った世界の条理を押し付けるな!」という男の放った言葉が私の背中に突き刺さったが振り返らなかった。
大通りに出るとすぐさま街のネオンに包まれる。赤や青、それから白。やたらと大きなピンクの電光掲示板には『tattoo』という文字が刻まれており、通り過ぎようとした時にちょうどその店の扉が開いた。中から二人の女が出てきた。二人とも上下共にほとんど裸のような薄着で出てきて、けらけらと大きな声をあげながら笑っている。恐らくはお揃いで入れたばかりなのだろう。互いの手首にあるトカゲのタトゥーに目をやりながら二人が会話している内容が、聞きたくないもないのに聞こえてきた。
「由奈ってさ、もう右目は持ってるんだよね? じゃあ今日で両目揃ったじゃん! 早く顔変えなよ」
「ねっ、やっちゃおっかなー! あーこれでこんなクソみたいな街からおさらばだ。梨乃、第四地区で待ってるからね。あっ、もしかしたらすっ飛ばして第三かもだけど」
私の、私が手にするはずだった左目は、このクソみたいな若い女に奪われたのかと思うと途端に腸が煮えくり返り、思わず舌打ちをして通り過ぎた。すぐさま二人に呼び止められた気がしたが無視して愛花の手を引きながら歩き続ける。道路に横たわる数人の男が「誰か轢いてくれねえか」と叫んだかと思えば、目の前から歩いてくる男は「ちくしょうっ、ちくしょう」とぐしゃぐしゃに顔を歪めながら涙を流していた。
月に一度、この街では歓喜と嘆きというふたつの叫びで夜が染まる。ある女は「左目が当たった」と歓喜の声をあげ、ある男は「また、また駄目だった」と泣き叫ぶ。全てはFacies のせいだ。いや、あの抽選のせいだ、と思いかけたが違う。本当に悪いのはこの世界。そう、私たちが生きるこのクソみたいな世界のせいだ。
今から百年程前、ある一人の天体物理学者がみつけた一つの天体が世界を変えたらしく、私はこれを自分の母から聞いた。その天体の名はaq2300といって、地球から六万五千光年離れた距離にある。超高濃度の質量と重力を持つ事象の地平線、言わばブラックホールだった。太陽系内では極めて異例の大きさで、何故これまで観測されることが無かったのかと世界中の研究者達が疑問を投げかけた。それをいとも簡単に、あまりに非科学的に答えを導き出したのが当時七歳のネパールに住む女の子だった。彼女はこれまでに何度も世界中で起こった壊滅的な災害の日付をぴたりと予言しており神の使いとして崇められていた。その女の子がこう言ったのだ。
──私はその天体からきた。いや、私だけじゃない。今この世界で生を持つ全ての生き物は、そこからきました。そして、命を終えたものたちは再びそこに戻ります。
少女が放った言葉が瞬く間に世界中を駆け巡る中、追い打ちをかけるように少女は続けた。
──今になってその天体がみえるようになったのは、時が来たからです。私達が住むこの地球、あるいは世界と呼ぶものは何度もこれを繰り返しています。破壊と再生。崩壊と再構築。円を描く時は、いずれ必ず始点に戻ります。この世界はそれと同じです。システムとして組み込まれているので誰も抗うことは出来ません。私は役目を終えたので明日この世を旅立ちますが、どうか皆さんは最愛の人たちと幸せに過ごして下さい。リミットは今日から132年後の9月23日です。
その言葉を残した翌日、少女が住んでいた村は局地的な大地震が発生し、海の底へと沈んだ。だが、それから数週間後、彼女が戻ると言ったaq2300はある特定の周波数を発し始めた。最初は規則性などないと思われたが、それは確かに地球で未だ生きる人たちにメッセージを伝えていた。
──こちら側で待っています。
そう、彼女からだった。国も宗教も言語も超え、星が迎えにくると人々が口にするようになったのはそれから更に数週間後のことだ。愛していたもの、家族、友人。既にこの世を去った自身と近しかった関係の人間の声が頭のなかで聴こえた者は、直近二十四時間以内に何かしらの理由でこの世を去った。
──こちら側で待っています。
aq2300から発せられたものと、丸っきり同じ言葉で頭で脈を打つように聴こえたらしかった。それも世界同時多発的に起こったことで、ある者は誰かがこの世界の真理に辿り着いてしまったからシステムがリセットへと向かい始めたと唱え、ある者は欲深い人間はついに神に見捨てられたと唱えた。けれど、答えに辿り着くまでの道筋は違えど、ゴールは同じだった。
──死後の世界は、実在する。
少女の言葉や実際に予言通りになった事実がそれを後押しし、たった数カ月で世界は大混乱に陥った。集団自殺に尊厳死。家族や恋人、あるいは友人と共に最初は懐疑的であった人までもが次々とこの世を旅立った。やがて、混乱は混沌へと変わった。世界中の国々が内外で戦争が群発し、地球上の八割を超えるエリアが生存不能地域となってしまった。少女はあの時リミットは132年後だとは言ったが、一度集団的に狂気に駆られた人類にそれだけの年数は必要無かったのかもしれなかった。
だが、勿論地球上で生きている全員が同じ選択を選んだ訳ではない。それでも残った人たちは、崩壊した世界の中で新たな社会システムと倫理を構築した。向こう側の世界には何も持ってはいけない。けれど、意識と魂とその外側の肉体だけは別だ。だから、死ぬまでにせめて容姿だけはよくしよう。誰かのその考えはいつの間にか集団意識となり、今やこの世界で一番価値を持つものは人の容姿となった。仕事も学校も恋愛も、ひいては人生すらも全て容姿で優劣がつく。人々はAIによってランク分けされ、第一から第五地区に分けられた。第一が最も美しく、第五が最も醜い。せめて全ての地区の人間に平等にチャンスをと考えられたのが、顔のパーツに割り当てた抽選だった。名はFacies という。月に一度開催される一口五万円のそれは、当選すると医療に特化したAIにより、より良いものへと整形して貰える。容姿さえ良くなれば幸せになれる。だから第二から第五地区に生きるものたちは死に物狂いで働き、月の収入の大半を抽選に充てるのだった。最初は向こう側の世界には良い容姿でいきたいというのが人々の考えだったはずだ。いや、今でも第一地区に住む人たちはそうなのかもしれない。けれど、少なくとも第五地区に住む私たちは違う。向こう側の世界ではなく、今生きているこの世界で、今よりも少しでもいい暮らしをしたい。その一心だった。
私は今、第五地区に住んでいる。生まれた時から左頬に大きな痣がある私は、貧困と醜悪で満ちたこの地区に住んでいる人間からすらも醜いと揶揄されてきた。それでも一人の男性と婚約し、一応人並みの幸せを掴んだとは思ったが、妊娠したことを告げるとそいつはいとも簡単に蒸発した。私は、一人で生きていくしかなかった。愛花を幸せにする為には第一地区を目指すしかなかった。月の収入の大半を抽選に注いではいるが一口五万という高額な金額は、廃れた飲食店の皿洗いをしている私には重く、月に二口しか買えない。それでも諦める訳にはいかない。決意だけは固くそう思い続け六年が経った。
「えっ」
その日は雨だった。いつもは抽選結果をリアルタイムでみていたが今日はさすがにと保存されたものを家で開いた時、わたしは無意識にそう呟き、たぶんこぼれ落ちてしまうくらいに目を見開いていたと思う。当選したのだ。しかも顔の半分という最も倍率が高いものに。あまりにも嬉しくて、翌日には整形手術を受けにいった。
「極めて前例が少ない処置になりますが本当に構いませんか?」
機械的な女性の音声が鼓膜に触れ、何度もそう尋ねられた。私が当選したのは顔の右半分だった。大抵の人間は、顔の半分が当選した場合、もう半分が当選するまで待つかあるいは全ての顔のパーツが揃ってから整形するらしかった。
「いいの。やって」
けれど、私にそんな時間はない。今すぐにでも幸せになりたい。その日の内に処置が行われ、ダウンタイムが終了したタイミングで私は初めて鏡の前に立った。そこには、これまでの私と、これからの私が映っていた。右側は均整がとれた美しい顔立ちをしており、左側は全体的にくすんでいるうえ大きな痣がある。みながら、笑いがこみ上げてきた。あははって声が漏れる。なんて歪な顔なんだ。なんて醜い顔なんだ、と私は自分の左側の顔を嘲笑った。
翌日には申請書類を手に役所へと向かった。一般的に地区の移動を申請する際は、現段階の自らの容姿を再度AIに採点してもらう必要がある。その点数に応じて、次の行き先が決まるのだ。役所は長蛇の列だった。皆、通りを歩いているような通行人よりかは幾分増しかもしれないが、少なくとも美しいと言えるような人間はいなかった。私、以外は。汗と皮脂、煙草を水で煮詰めたような匂いが部屋に満ちていて何度も吐き気を覚えた。気持ち悪い。臭い。私、私は、ここにふさわしくない。
「ママ、痛い」
目をやると、愛花が私をみつめていた。無意識に繋いでいた手に力を込めてしまっていたようだった。ごめんね、と口先だけで謝った。一時間程待ったところでようやく私の番が回ってきた。通路を抜けると一瞬恐怖を覚えてしまう程の白い部屋に通される。そこには同じような色の制服を着ている女性が立っていて、「AIによる判定はこの部屋の扉を抜けた先で行われますので身に纏っているお洋服は全て脱いでください」と促された。私は言われるがまま服を脱ぎ、生まれたままの姿で愛花にここで待っててねと告げ、扉の方へと足を進めようとした。
「すみません。顔のスカーフも取って頂けますか」
女性は一切の感情を纏うことなくそう言った。
「いや、今吹き出ものがあるのでこちら側はみせられないです」
私は醜い顔の左側だけをスカーフで覆っていた。
「それは困ります。それも含めての判定ですので」
「嫌、です」
「ではお引き取りください」
「ねえ、待って、私の顔、みえている部分は綺麗でしょ? ここから想定してランクを分けて貰ってよ」
「先程も申し上げましたが、古宮様のお顔、お身体、全ての要素を総合的に判断したうえで初めて適切なランクというものを提示出来ますので、どうしてもそちらのスカーフを取りたくないのであればお顔のコンディションが良くなった段階で再度いらして頂いた方が宜しいかと思います」
有無を言わさぬ言い方だった。深々と頭を下げられ、私は引き下がるしか無かった。愛花の手を引き、この腐った街と、腐った住人をみながら帰路に着いた私は、不思議と気分が高揚していた。帰り際、私は女性にこう尋ねた。
──もし私の顔が左側も美しいなら、あなたの目からみて私のランクはどれくらいになりますか?
女性は最初、私はAIではありませんのでと答えを渋っていたが、しつかく食い下がるとこう答えてくれた。
「古宮様は身長もおありですし、お顔の全体がそのようにお綺麗だとしたら恐らくはc-、あるいはb+という判定が下されるのではないかと思います」
b+というのは第二地区にも該当するラインだ。私の顔は、それ程までに美しいという自信にも繋がった。スカーフを取り鏡の前に立った。左側の醜い顔は、過去の私の遺物であり、ある種呪いのようなものだ。この呪いを解き放つにはお金がいる。Facies による抽選で左側の顔を手に入れる金が。
仕事はフルタイムで入れるものに転職した。必然的に愛花と過ごせる時間は減ることになるが、そんな事を言っている場合では無かった。左側の顔は荒れてるからと嘘をつき布切れで覆い、私は新たな人生を手に入れる為に死に物狂いで働くしか無かった。手に入れたのは顔の右側だけだったが、それでも私の人生はよい方向へと向かい始めている気がした。これまでに味わったことのない優越感や親切心を日々感じることが多くなった。特にあからさまに態度が変わったのは男たちだった。一度私が重いものを手にしようとすれば代わりに持ってくれる。少ない給料で自分の生活ですら精一杯であるはずなのに、ご飯を奢ってくれるものまで現れるようになった。私はこの顔でようやく幸せになれる。そう確信するような日々の連続が私のなかにある変化を起こした。
愛花のことを愛せなくなったのだ。私と同じ場所にあるちいさな痣をみる度、一緒に食事をとっている時の歪な笑みをみる度、なんだこの醜い生き物はと思うようになってしまった。今の私は美しい。美しい私からしてみれば、愛花はとても醜く思えた。以前は天使のようにみえた眠りに落ちている顔も、顔にあるちいさな痣がまるでなにかの生き物のようにすらみえ、そいつが肌に付着したうえ、尚且つ取れない、あるいは宿主として受け入れているようにすらみえてきて、私はそんなものが視界に入るのすら嫌で、顔にそっと毛布を被せるのだった。
「ママ、今日ね私ひとりでお絵描きしたの」
廃材をテーブル代わりにしている我が家の食卓は並ぶ料理が陳腐であることも相まっていつも味気ないが、今日は特に惨めに思えた。私はなんでこんな生き物と、こんな残飯みたいな料理を食べなければならないのだろう。
「ママ」
「聞いてるよ」
「ママ、絵を描いたの」
「そう」
「上手に描けたの。あとでみて」
「気が向いたらね」
まだ半分以上残っていたが皿を持ち、席をたった。食欲が沸かなかった。私はもしかしたら美しいものをみて、美しいもので無ければ口に入れることが出来ないのかもしれない。そんなことを考えながら洗い物をしていると、愛花が「ママ、みてこれ」と駆けよってきた。手には画用紙が握られていた。
濡れた手をタオルで吹きそれに目をやった時、私は言葉を失った。
「なに、これ」
「私とママだよ」
そう。愛花の言う通り、そこには私と愛花が描かれていた。顔の左側に確かに痣がある、私と愛花が。みたくない。その気持ちに駆られ、反射的に画用紙をぐしゃぐしゃに丸めた。愛花は泣いていた。なんで、なんでそんなことするのママ、と私の腰に手をかけ、何度も身体を揺すられた。けれど、私のなかに罪悪感などは微塵も沸かなかった。
愛花はそんな私の感情を感じとったのかもしれなかった。ある日仕事を終え帰宅すると、いなくなっていた。部屋にも、トイレにもどこにもいない。一体どこへ、と気にはかけたものやはり私の心はそれ程大きく波打ってはいなくて、飼っていた猫がどこかへと遊びにいったがいつかふらりと帰ってくるだろうという感覚だった。ひとりで食卓に座り、いつもは愛花が座っていた椅子をぼんやりとみつめながら食事をとった。
だが、それから二日経っても帰ってこず、私の中で、ついになにかが溢れた。愛花。私は夜が溶け落ちた闇へと駆け出した。酔っ払いの男たちの間をすり抜け、客引きの女たちの前を横切り、「愛花ー!」と何度も叫んだ。どれだけ探してもみつからない。息も絶え絶えになりながら、何度も訪れた路地裏で泣き崩れた時、「やっときたか」と掠れた声が鼓膜に触れる。あの男だった。愛花はその男のスボンの裾を掴んでいた。
「この子は昨日、一人でここにいるのを俺がみつけた」
男の眼差しは、それまで向けられてきた誰の視線よりもつめたかった。
「お母さんはたぶん、わたしのことを気持ち悪いって思ってるって泣いてたよ」
「え」
「あんたが望んでたのがこれなのか? そんな作り物を顔にこしらえて、娘を悲しませるのがあんたの望みなのか?」
「……違う」
「違わない。事実あんたはこの子にそう思わせたんだ。俺は今の世界に吐き気がするよ。今のあんたにもな。容姿を気にして何になる。死後の世界が見つかったから何だ。俺たちが今生きてるのは、この世界だろ?生まれたものは、老いて死ぬ。それこそがルールだろ? だから、向こう側にいくのなんてそれからでいいんだよ」
男は愛花の手を引きながら一歩ずつ距離を詰めてくる。
「なああんた、自分に無いものばかりを数えんな。それを続けてる限りは、いつまでたっても本当の意味で豊かになれない。この街の住人と同じだ。今、この瞬間、目の前にあるものすらも大切に出来ない人間に新たな何かを手にする資格なんてないよ。なあ、教えてくれよ」
男と目があった。
「今のあんたの目の前にあるものはなんだ」
「……私の」
頭に思い浮かべた時、真っ先に目の前に広がったのは愛花だった。分娩室で抱き上げた時の、何ものにも耐え難いあの満たされた感じ。静かで、退屈で、華やかでは無かったけれど、確かに幸せだったこれまで過ごしてきた日々。それらが、私のなかで爆ぜた。目から滴が溢れた。
「愛花、ごめん、ね。ごめんね」
声を上げて泣き、胸に抱きしめた。すると、愛花も途端にわっと泣き出し「お母さん、わたしのこと嫌いにならないで」とひっと上擦った声を漏らしながら呟いた。私は泣きながら何度も謝った。男は私たちが泣き止むまでずっと見守ってくれた。何も言わず、ただじっと私たちの愛のかたちが再び修復していく様をずっと見守ってくれた。
「あの、本当にありがとうございます」
向き直り、頭を深く下げて言った。心から漏れた声だった。今回のこともそうだが、今思い返せば男はこれまでもずっと私たちのことを気にかけてくれていた。「いや、いいんだ」と男が照れくさそうに笑うので、気付けば私も目元を拭いながら笑みを溢していた。
「良かったら家でご飯でもいかかですか」
「えっ」
男が目を丸くする。
「お礼をしたいんです。大したものも作れないですけど」
「いや、さすがにそれは」とそれでも躊躇う男の手を愛花が引いた。
「いこっおじさん」
ふわりと自然な笑みを向けられて、ついに男が折れてくれた。三人で横並びになって他愛もない話をしながら歩いていた時、ふいに男が言った。
「なあ、顔をみせてくれよ」
私はもうフードを被っていない。不思議に思いながらも顔の右側を向けた。すると、男はそっちじゃないと私の左側に巻いていた布切れを外した。
「もう隠す必要なんてないだろ。前にも言ったけど、あんたの顔は美しいよ」
男が夜空をみあげる。吸い寄せられるように私も顔をあげた。
「こんなにも広い世界だ。あんたの顔をみてとやかく言うやつもいるかもしれない。けどな、俺みたいに心の底から美しいと思うやつだっている。人の容姿の良し悪しを決めるのに定義なんてないんだよ。もしあるとしたら、あんたがあんた自身をどう思うかだ。だからさ、他でもないあんただけは誇りに思ってくれよ」
「そうですね」
街の明かりが強すぎて、この街の夜空は星がみえない。けれど、今ならそのみえないなにかでさえも、この手で掴める気がした。




