9話
翌朝、俺はアジトの裏手にそびえる巨大な岩壁の前に立っていた。
ここからは「一杯の水」が持つ物理的、あるいは概念的な限界を探る実験の開始だ。
まずは、岩壁の一部に意識を向ける。
「形状指定、極薄の垂直シート。――『置換』」
岩壁の奥深くまで水を差し込むように、四角い輪郭をなぞって置換を行う。直後、重低音とともに巨大な岩の塊がズズズと滑り落ちてきた。
俺はさらに、その塊を等間隔に「水」で切断し、精密に整えられたレンガ状へと加工していく。
今やコップ一杯の水は重機や超精密な工作機械との役割を果たしていた。
「……よし。建築資材の量産も自由自在だな」
後で拠点の拡張にでも使えるだろう。積み上げられた石材の山を眺め、岩壁に穿たれた見事な立方体の穴を確認して、俺は次の工程に移った。
次は、破壊ではなく「環境への干渉」だ。
「――『追加』。広域、霧状」
久しぶりに置換ではなく、物質の「追加」を行う。
俺の周囲には細かな水の粒子が一気に広がり、視界を真っ白に染め上げた。俺の意志一つで、山全体を覆い隠すほどの濃霧が完成する。
「これはいい……。姿を隠して撤退する時や、敵を攪乱するには最適だ」
霧が晴れるのを待ち、俺はさらにその霧を空へと向けて「追加」し続けた。
追加、追加、追加、追加……。
一秒間に数十回、数百回という異常な速度で、上空の一点に水分子をねじ込んでいく。
やがて、晴天だった空には不自然なほど暗く重い雲が渦巻き、ポツリ、ポツリと雨が降り出した。
「雨乞いの儀式も必要なし、か。これなら、もし干ばつが起きても俺一人で国を救えるな」
神様は随分と便利な、あるいは傲慢な力を俺にくれたものだ。飢える心配はこれで完全に消えた。
そして最後。俺は最も危険な、そして最も確信の持てなかった仮説の検証に入った。
先ほど掘った岩穴に深く潜り込み、そこから山の反対側、何もない空中の一点をイメージする。
「指定座標に、極小の水球を二個……『完全に同じ場所』に、『完全な同時』に……追加」
本来、物質がある場所に別の物質は存在できない。だが俺の能力はそれを無視して「追加」する。
もし、原子レベルで重なり合うほど狭い空間に、無理やり二つの物質をねじ込んだらどうなるか。
――カッ!!
一瞬、太陽が地上に降りたかのような、網膜を焼く閃光。
数秒遅れて、鼓膜を震わせる凄まじい爆音が山全体を揺らした。
恐る恐る岩穴から這い出し、山の反対側を確認しに行く。
そこには、爆風でなぎ倒された巨木の群れと、中心部が真っ黒な炭と化し、不自然に抉れた地形があった。
「……やっぱりか。核融合、あるいはそれに近い事象か」
たとえ少量の水であっても、空間の制限を無視して原子レベルで物質を重ね合わせれば、凄まじいエネルギーが解放される。生成した全てが反応したわけではないだろうが、それでもこの威力だ。
もしこれを王都のど真ん中で発動していたら、あるいは戦場で「一杯の水」として敵軍に投げ込んでいたら……。
俺は冷や汗を拭い、静かにその場を後にした。
「……封印、だな。これは。人間が安易に扱っていい力じゃない」
俺は静かに天を仰いだ。
「コップ一杯の水」という名の、あまりにも度が過ぎた神の贈り物。
脱水症状で死にかけていた俺に、この「世界を終わらせかねない力」を与えた神とやらは、果たして慈悲深いのか、それとも
「……アホなんだろうか?」
俺は自分一人が生きる分には十分すぎる「水」の真の恐ろしさを胸に刻み、しばらくはその力を隠して、静かに猟師として日々を過ごすことを改めて決意し、カラッカラに乾いたのどを潤すため、腰に下げた頑丈なコップに一杯の水を注いだ。




