第九話 鄭氏の覚悟
都鄴の蘭陵王の屋敷。戦場から遠く離れたこの場所で、妻・鄭氏は、最も深く夫の秘密と苦悩を感じていた。彼女の住まいは、雅な調度品と、静謐な空気に満ちていたが、長恭が戦場から帰ってきて以来、その静寂は、夫の心の欠落をかえって際立たせていた。
夫は戦場から帰って以来、以前にも増して「生き急いでいる」かのようだった。彼女は、彼の心の奥底の焦燥を感じ取っていた。長恭の瞳の中に宿る、戦場での熱情の残像は、彼女の穏やかな愛では消せないものだと。その熱情が、自分以外の誰か、それも女ではなく男に向けられていることまで、彼女は察していた。
ある日の午後。鄭氏は、長恭のいる書斎へ行った。彼女の着物は、長恭が最も安らぎを感じる淡い緑色だった。彼女は言った。
「長恭様。貴方は、わたくしといる時、まるで嵐の後の静寂におられるようです。しかし、その静寂は、次の嵐への恐怖を隠しているように思われてなりません」
長恭は、筆を止め、妻の透徹した洞察力に目を見開いた。妻の言葉は、彼の心の核心を正確に突いていた。
「鄭氏。私は、貴女の言う嵐の意味を理解しかねる」
長恭は、冷たい将軍の仮面を被ろうとしたが、声は微かに震えた。
「いいえ。貴方の瞳は、嘘をつけません。貴方の魂は、わたくしには与えられぬ、血の通った激しい愛を受け入れてしまわれた。それは、貴方の命の炎を絶やさぬ、禁断の薪であることも、わたくしは理解しております」
鄭氏は、長恭が抱える深い孤独と、それを癒やす禁断の愛の存在を許していた。彼女の愛は、もはや夫婦の愛という範疇を超え、一人の人間の命への献身となっていた。
「貴方の命が、わたくしにとって最も大切。貴方を縛ることで、貴方の命が尽きるのであれば、わたくしは、自らの妻の座を投げ打ってでも、貴方を解放したいのです」
鄭氏は、長恭が抱える二重の苦悩、すなわち妻への責任と蕭淵への情愛、そして迫りくる皇帝の暗殺から彼を救うため、自ら身を引くという覚悟を決めていた。彼女の愛は、独占ではなく、解放であり、それが長恭への最大の忠誠でもあった。彼女は、夫の魂の自由を願い、夫の命の炎が消えゆく前に、彼に真の幸福を与えることを望んだ。
長恭は、妻の崇高な愛に、言葉を失った。不意に、彼の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。それは、蕭淵との夜に流す快楽の涙とは異なる、魂の痛みを伴うような感謝の涙だった。長恭は、自分がいかに罪深い男であるかを、妻の優しさによって突きつけられたのだ。




