第五話 鄭氏との対話と宮廷の影
長恭の妻・鄭氏の聡明さは、並大抵ではなかった。彼女は、夫が戦場から帰って以来、以前にも増して「生き急いでいる」かのように見えた。公務に邁進する姿に、心の奥底の焦燥を感じ取っていた。長恭の瞳の中に宿る、戦場での熱情の残像は、彼女の穏やかな愛では癒せないように思われた。
ある日の夕餉の席。鄭氏は、長恭が手に持つ銀の酒杯の輝きを静かに見つめた後、尋ねた。
「旦那様。戦場では、並々ならぬご苦労があったと察しております。ですが、妻たるわたくしにも、貴方の心の影を分けてくださらないのは悲しゅうございます」
「何を言っているのだ、鄭氏。私の心は、貴女の安らぎの中にある。影などと……馬鹿な」
長恭は、努めて平静を装ったが、声の端に微かな震えがあった。
「いいえ。貴方の瞳の奥には、わたくしには見せぬ、熱い炎の残像がございます。それは、わたくしの献身では到底消せない、命を懸けた誓いのようなもの。貴方が、わたくし以外の誰かと、魂の契りを交わしたのではないかと……わたくしは推察いたします」
長恭は驚愕した。妻の聡明さと優しさは、彼の秘密を暴き、彼を窮地に追いやった。妻は、長恭が抱える「特別な誰か」の存在を、既に悟り、それを許容しようとしていたのだ。
「貴方の命が、わたくしにとって最も大切。貴方様は真に安らげる場所へ向かうべきです」
長恭は、妻の献身的な愛に、深い罪悪感を覚えた。しかし、その時、宮廷では、長恭の戦功を恐れる皇帝からの嫉妬と危惧が、徐々に影を落とし始めていた。長恭の運命は、静かに、しかし確実に、破滅へと向かっていた。長恭の心は、妻への責任と、蕭淵への真の情愛、そして自身の迫りくる死との間で、激しく揺れ動いていた。




