第十一話 皇帝の毒杯と最後の夜
鄴へ戻った長恭を待っていたのは、凱旋の歓声ではなく、皇帝からの冷酷な勅命だった。彼の戦功は、皇帝の嫉妬と恐怖を極限まで高めていた。長恭をありもしない謀反の罪で処断すれば、混乱が生じる。ゆえに、皇帝は、蘭陵王に毒酒を賜るという、静かで陰湿な暗殺を選んだ。
長恭は、その勅命を冷静に受け入れた。彼の心は、既に死を受け入れていたため、賜死に対する驚きはなかった。彼は、抵抗すれば、妻・鄭氏や親族、家来、そして遠方にいる蕭淵にも危害が及ぶことを知っていた。彼の命は、多くの愛する者を救うための対価だったのだ。
彼は、毒酒を飲む前に、鄭氏に別れを告げた。鄭氏は、既に夫の運命を悟っており、穏やかな顔で夫を迎えた。
「旦那様。貴方は、わたくしに、深い愛と安らぎを与えてくださいました。わたくしは、永遠に貴方を愛しております。今しばらくのお別れ、すぐにお傍に参りますゆえ」
鄭氏は、夫の瞳に宿る悲壮な覚悟が、自分に向けられた夫婦の情だけでないことを理解していた。それが誰なのかはわからないが、彼女は、夫の魂の安寧を願い、彼の最期の選択を静かに見守った。彼女の愛は独占ではなく、解放という崇高な域に達していた。
長恭は、妻の慈悲深さに、静かに涙を流した。彼は、自分がいかにひどい夫で罪深い男であるかを、妻の清らかな愛によって思い知らされた。裏切りは裏切り、不貞は不貞であった。
その後、長恭は机に向かい、遠方にいる蕭淵に向けて、最後の手紙を書き綴った。彼は、自らの指先を傷つけ、その血で文字を綴った。その文字は、彼の命と、激しい情愛を帯びていた。
「永遠に、私を忘れよ。私への愛は、貴方の命を脅かす毒となる。貴方は、生きよ。これが、私からの最後の命令である」
それは、彼の愛と自己犠牲の決意を込めた、あまりにも冷たい訣別の手紙だった。長恭は、この手紙によって、蕭淵の心を深く傷つけ、自分への執着を断つことを望んだ。
それから、長恭は、毒酒を一気に飲み干した。彼は、毒が全身を巡る苦痛を、蕭淵への愛の思念で耐えた。彼の心の中は、蕭淵への愛と、彼を自由にするという決意で満たされていた。
(蕭淵……貴方を愛している。だが貴方は、私を愛してはならない。貴方は、私を忘れて生きるのだ。生きて幸せになってくれ)
長恭の魂は、蕭淵への激しい愛を抱きながら解放された。彼の美しい顔に苦悶はなく、妻と愛する者を守り抜いた安堵の笑みが浮かんでいた。北斉の偉大な将軍、蘭陵王・高長恭は、皇帝の陰謀によって、その短い生涯を閉じた。




