第十話 愛が終わるとき
長恭は、血と泥に塗れながらも、戦場で圧倒的な勝利を収めた。その戦果は、北斉の歴史に燦然と輝くものであったが、長恭の心は、勝利の歓喜よりも、都への帰還という別離と迫りくる死の予感で満たされていた。彼の魂は諦念に満ち、既に運命の終焉を受け入れていた。
凱旋の馬上で、長恭の白い甲冑は、もはや戦場での鬼の面を纏う戦神の冷たさではなく、愛する者への別れを決意した一人の男の悲壮な覚悟を帯びていた。
長恭は、馬を並べる蕭淵に、最後の命令を告げた。彼の声は、乾いて、感情を殺し、まるで氷の破片のようだった。
「蕭淵。この戦が、貴方と私にとって、最後の戦だ。貴方は、私の傍を離れよ。鄴へ戻れば、私の命運は尽きる。貴方の忠誠心が、皇帝への反逆の証として利用される。私が死ねば、貴方も巻き込まれる」
「殿下! 貴方をお一人になどできません! 私の命は、貴方の盾のようなもの。共に死ねるならば、それが私の本望です」
蕭淵は、長恭の馬に必死に追いつき、懇願した。彼の瞳は、愛する者を失うという激しい恐怖に満ちていた。蕭淵にとって、長恭なき世界は、考えられなかった。
「これは命令だ、蕭淵」
長恭は、馬を止め、初めて蕭淵の瞳をまっすぐに見つめた。その瞳には、狂おしいほどの愛と、それを押し殺す冷徹な決意が同居していた。
「私の命はもう、長くない。貴方が生き延びてくれれば、私は、貴方との愛が、決して不貞の行為ではなかったと信じられる」
長恭の言葉は、蕭淵への最後の愛の告白であり、永遠の別れの宣言だった。彼は、蕭淵の命を守ることが、彼への最大の愛だと信じていた。自分の死によって、蕭淵を自由にし、彼の人生を権力の闇から守りたかったのだ。
「私が死んだ後、貴方は、私の全てを忘れて生きるのだ。それが、私の最期の願いだ」
長恭は、蕭淵の深い愛情と、彼の悲壮な覚悟を理解し、この命令を愛ゆえに受け入れるしかなかった。蕭淵は、言葉を失ったまま、長恭が馬首を鄴の方へ向けるのを、ただ見送ることしかできなかった。彼の心は、愛する者との永遠の別離という、耐え難い苦しみで血を噴いていた。
長恭の馬の蹄の音が遠ざかるにつれ、蕭淵の表情は固く冷たくなっていった。




