第一話 凍てつく夜と火鉢の温もり
雪は、北斉と北周の国境を隔てる荒野に、微かな音もなく降り積もっていた。陣幕の厚い布も、この極北の冷気を完全に遮ることは叶わず、凍てつく空気は将兵たちの呼吸を白く染める。蘭陵王、高長恭の陣幕内だけが、火鉢の微かな熱と、上質な皮の匂いに満たされ、外界の厳しさを一時忘れさせていた。
長恭は、分厚い毛皮の外套を肩に、火鉢の前に座していた。彼の指先には、都・鄴から届いた妻・鄭氏からの文が挟まれている。鄭氏の筆跡は、流れるように雅で、夫の安否を気遣う、細やかな愛情が言葉の端々に滲んでいた。長恭は、その文を読み終えるたび、皇族としての義務と、鄭氏への責任という、二重の鎖で己の心を厳しく縛りつけていた。戦場での血生臭さと、都での雅やかな生活とを、彼は常に厳格に隔てることで、自らの魂の均衡を保っていたのだ。
(妻の愛は、私を現世に繋ぎ止める理の光だ。この平穏を、私は守り抜かねばならない)
長恭の傍らには、勝利を確実にした彼の象徴、蘭陵の鬼面が置かれている。鉄と革で作られたその仮面の下の素顔は、ため息が出るほど美しく、その美貌こそが、彼が戦場で「戦神」として振る舞うために隠さねばならない致命的な弱点だった。
そこへ、長恭の影ともいうべき男、副官の蕭淵が、音もなく入ってきた。彼の着物には、僅かな雪の湿り気が付いているが、その立ち姿には一点の乱れもない。
「殿下。今夜は特に冷え込みます。火鉢の炭を継ぎ足しました」
蕭淵の低い声音は、常に長恭の無防備な素顔に向けられる時、微かな熱を帯びる。長恭は、その視線が纏う熱情を恐れ、同時に心の奥底で切実に求めていることを、自覚していた。蕭淵は、長恭のすべてを知り、その美しさも、その苦悩も、そしてその禁じられた欲情も、全てを愛していた。
「ありがとう、蕭淵。貴方も、休息をとりなさい。明日は、また新たな血を見ることになる」
長恭は、努めて冷徹な将軍の声音で命じた。
「恐れながら。殿下の寝る間こそ、最も無防備であると心得ております。今宵は、この蕭淵が……」
蕭淵の言葉は、戦場でのみ許される「秘密の愛」を喚起させる。長恭は、背筋に走る戦慄を感じた。
「貴方は……どうして。私の心を弄ぶか」
「滅相もございません。ただ、明日、殿下が再び蘭陵の鬼面を被り、人の心を捨て去る前に、貴方の血の通った人としての温もりを、この身に刻んでおきたいのです」
蕭淵は、長恭の肩の外套を優しく剥ぎ取り、その指先を、雪のように白い首筋に滑らせた。その触れ方は、将軍への敬意ではなく、愛する者への切実な渇望に満ちていた。長恭は、妻との穏やかな愛にはない、魂が激しく震えるような欲情が、自身の理性を溶かしていくのを感じた。




