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処女作となります。至らない点が多いと思いますが、楽しんでいただけると幸いです。
ユグという名で人々が呼ぶ、その森はずっと昔からそこにあった。
一体いつ頃からあったのか? その問いに答えられる者はいない。
豊かな森だった。澄み渡った川が流れ、気候は優しく穏やかだ。ゆったりと移ろう季節の中で草木は花開き、実をつける。
動物たちはその恵みを受けて育つ。様々な虫に、魚や鳥、獣が森を生き生きと彩っていた。
それらを求めて人々が移り住み、やがて小さな村をつくった。
彼らは賢明だった。必要以上に森から奪おうとは考えなかったし、自然に感謝することをよく知っていた。
恵みを分け与えられた子供たちはすくすくと成長し、やがて大人になる。男たちは狩りに出て魚や獣を集め、村を守る。
女たちは枝葉を拾い木の実を集め、作物を、子供を育てる。やがて年老いた者たちは森で暮らす術を子供たちに教える。
森も報いるように彼らを受け入れた。恵みは森に住まう命全てに分け与えられ、やがて彼らも森の一部となった。
そうして永い、永い時が過ぎた。
村の人々がその年も恵みに感謝をささげ、子供たちが焚火の前で甘い大きな果実を口いっぱいに頬張った、そんな夜。
森に異物が紛れ込んだ。
最初に行動を起こしたのはワタリガラスたち。ガァガァと、喚き声をあげ一斉に羽ばたいた。
そのけたたましさに、ただならぬものを感じたのか、一斉に森がざわめきだした。
虫たちは羽音を立てて飛び回り、魚たちは身をひるがえして岩陰に潜む。
鳥たちは鳴き声をあげて警告し、獣たちは葉や木々に体が擦れるのも構わずに駆け出した。
それらの騒ぎが波紋のように広がっていく中心に目を向けたのは、一匹の鹿だった。
この鹿はまだ若く好奇心にあふれていた。いざとなれば木々の間を走り、逃げ切ることが出来る自信もあった。
他の生き物たちが少しでも異物から離れようと逃げ惑う中、鹿は近づき観察することに決めた。
月の光が届かない樹々の茂みに身を隠しながら、息をひそめてそこにいる異物へと目を向けた。
ごうごうと音を立てる滝壺の傍ら。そこにかすかな、白いもやのようなものがうごいている。
その存在はひどく不安定で、一時たりとも同じ形には定まらず、今にも消えそうに、ただもがいている。
鹿にはそれがなんであるか、判別がつかない。だが──
──そのもやが、こちらを見つめてきたことに気付いた。
鹿は咄嗟に身をかがめ、考える。
あれは危険だ。決して近づいてはいけない。一刻も早く、この場から逃げ出さなければ。
彼我の距離を測るため、もう一度視線を向けると……もやは消えている。
この一瞬で、いったいどこに? 思わず足を止めてあたりを窺う。
そのわずかな時間が命取りとなった。
背後から、まとわりつくようにもやが絡みつかれて、鹿は驚いた。いつの間に回り込まれたというのか。
もやが体の中に潜り込んでくるのを感じる。不思議なことに自分の体は傷ひとつつけられていない。
だが、確実に体の中に潜り込み、何かに触れ──本能的にこのままではいけないと悟ったが、もう遅い。
声を上げ、身をよじり、転げまわっても逃れられない。次第に体から力が抜け、抵抗できなくなる。命そのものが、食い尽くされていく……。
鹿が最後に見た景色は、ごうごうと流れ落ちる滝と、夜空に浮かんだ冷たい月の光だった。
ばしゃりと、支えを失った鹿の体が川に転がり落ちた。
抜け殻のようになったその体はしばらく浮いていたが、流れに巻き込まれ沈み、消えていく。
それを見送るように、もやは川べりにとどまっていたが、次第に小さくなり、固まり……かろん、と小さな音を響かせ、落ちた。
月の光に照らされて、若草色に輝くその宝石は、何も知らないようにただそこに在り続けていた。
森がいつもの静けさを取り戻し、朝日が顔を見せる頃。一人の男が川べりにきて、その宝石を拾い上げた。
日の光にかざし、満足そうに口元をほころばせると、石を懐に入れて立ち去る。
それを見送る森の全てはただ、沈黙を保っていた。
ご意見、ご感想などお待ちしております。
書き溜めもほぼない状況ですので、連載は不定期になるかと思われます。ご容赦ください。