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9.果報者の花婿

「お女中は、想い人が長崎を離れたすぐ後に、お腹にお子を宿したのに気が付いたそうでございます。神仏の縁あって授かったお子は、お女中だけのものではございません。何としても、そのことをお相手にお伝えすべく、お女中はそれまでの働きで貯めたお給金をほとんど全て使い、足りない分は心優しい奉公先のお内儀(かみ)が肩代わりしてくれて、店の年季を無理に終え、ご子息を追ったのだそうですよ」


 座敷には、与兵衛の声と表で鳴く雀の声以外に、響くものはなかった。


「神仏のお助けは、心正しいお女中と共にあったようで、身ごもった女の一人旅でも、どうにかこうにか、お女中は目的の藩にたどり着くことができたのだそうです。まことの心ばえというのは、こういうことかと存じまして、この平松屋与兵衛、感服いたしました次第にございます。これぞ、(あつ)い志と神仏の繋いだ(えにし)を切らずに運んだ物語にございましょう」

「それで、そのお女中はどうなりましたの」


 こらえかねたように、広野の妻が問うたが、与兵衛は静かに首を横に振った。


「手前が存じております話は、ここで終わっております」


 それから、与兵衛は広野夫妻に向かって深々と頭を下げた。


「広野様におかれましては、わが娘の仮親をお引き受けくださって、かたじけのうございます。娘にも、これからは清順様のご内儀として、嫁ぎ先の高階様、仮親の広野様を真実(まこと)の親と思うて、よくよくお仕えするよう、申しつけてございます。到らぬところも多い娘ですが、どうぞ、よくお導きくださいますよう」


 お宇乃、と呼ばれて、綿帽子に顔を隠した花嫁が、するすると座敷に入り、与兵衛の斜め後ろに膝をついた。そのまま、形の整った礼を広野夫妻に向ける。


「この娘は、手前どもの家から出しますが、お武家に入る身。生まれの親のもとでの町方風の名を捨て、お武家の娘の名を授けてやってほしいのです。今の素晴らしい忠義のお話にあやかって、お宇乃ではなく、七重、と呼んでやっていただくわけには参りませぬか」


 玄順はぎょっとした。打ち掛け姿の娘をまじまじと見つめる。


 幼いころはよく屋敷に遊びに来たりもしていたが、成長したお宇乃と実際に顔を合わせたのは、数えるほどしかない。

 そして、いま目の前にいるこの娘は、綿帽子で顔を隠し、ゆったりした打ち掛けに身を包んで、畳についたその手くらいしか見えるところはない。


 だが、お宇乃の手は、あんな風に指先が細い形ではなかったように思う。大店(おおだな)の薬種問屋の娘らしく、よく手入れされた白い指先で、爪もまるっこく、まだ少し幼いぽってりとした手だった。この手は、幾度もひびわれ、あかぎれを起こした手だ。よく水仕事をして、おそらくは重たいものも持って、苦労した手だろう。


「七重」


 囁くような、絞り出すようなかすかな声に、玄順が振り返ると、清順は食い入るように花嫁を見つめていた。低くかすれたその声を、玄順は一生忘れることはないだろう、と思った。


「ほう。なるほど」


 広野が、豪放磊落に笑い声をあげた。


「良い話を聞いた。まさに忠の話であるな。拙者にその話を聞かせてくれた与兵衛どのには、義の心を感じるぞ、のう。お登勢」


 広野の奥方も目を細めた。


「ええ。七重さん、長崎のお話、あなたもよくご存じなのでしょう。わたくし、もっと伺いたいわ。ゆっくり、広野の屋敷にもお茶を飲みに来てくださいな」

「恐れ入ります」


 初めて、花嫁が声を発した。

 その声は確かに、あの日、高階家の門口に現れた若い女のものだった。


 完全に、平松屋与兵衛にしてやられた、と、高階は悟った。


(それがし)の負けだ、与兵衛どの)


 だが、こんなに清々しい敗北感は初めてだった。


「清順どのは誠に果報者じゃな。かように美しい花嫁御寮を見るのは、この広野、長く生きて居るが初めてじゃ。七重どのともども、夫婦相和(あいわ)し、藩のお為によくつとめるのじゃぞ」


 上機嫌で広野が言う。


「広野様、与兵衛どの。まことに……」


 清順が言葉に詰まりながら、深々と頭を下げた。


「誠にかたじけのうございます。このご恩、一生忘れません」

「頭をお上げください、清順様」


 与兵衛は静かに清順に向きなおり、言った。


「ふつつかものではございますが、我が娘のことを、どうぞ末永くよろしく御頼み申します」


 それから、与兵衛は花嫁を振り返った。


「本日からは七重様でございますね。それでもどうか、平松屋のことは実家だと思ってお過ごしください。お困り事があれば、里に何でもご相談なさいませ。七重様に置かれましては、親が変わるのではなく、増えるのだとご存じ置きください」


 それから、何事かを七重の耳元でささやいた。


   ◇



 祝言は滞りなく進んで、清順は最愛の妻を得た。

 平松屋が長口舌(ちょうこうぜつ)で申し立てた通り、気立ての良いしっかり者の嫁で、玄順としては何一つ、ケチのつけようがない。もうまさにこれは、玄順の完敗であった。


 後で、清順が花嫁に、あの時(しゅうと)が何と言ったのかを尋ねると、七重は少し恥ずかしそうにしながら、「若先生に泣かされるような仕打ちがございましたら、このじじいが良く効くお灸の薬を持って参りますから、必ず言っておよこしなさい」と言われたと教えてくれたのだと言う。


 清順にとっては、平松屋与兵衛は何よりも怖い舅となるだろう。だが、祝言を経てぐっと男らしい顔になったとはいえ、生来、少々気の優しすぎる息子にはそれもまたよいのかもしれぬ。


 あれ以来すっかり気に入って時々買い求めるうなぎをつまみながら、玄順は思うのである。









物語の結びまであと3話となりました!

最終日の26日は、2話更新とさせていただきます。

(当初予定より文字数が嵩んだため最終話を2部分に分けています)

最後までお付き合いいただけたら光栄です。

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フッタ

― 新着の感想 ―
[一言] 他の方も仰っていますが、人情モノの落語を聞いている感覚で、思わず拍手をしそうになりました!みんな幸せ!! 江戸の人の信心深さも表現されててうまい演説だなと感心しました。やたらと神仏に絡めて…
[良い点] 胸のすくような展開に思わず頬が緩んでしまいました。 似合いの若夫婦に幸多からん事を……。 お灸の薬か……万が一の時は、うんと熱いヤツが良いでしょうね。(笑) [一言] 古典落語の人情噺のオ…
[良い点] よかった! お宇乃ちゃんも七重ちゃんも良い子だから、二人とも幸せになってほしいと思ってました。与兵衛さん、頑張りましたね! さすが! これから耕太郎くんとお宇乃ちゃんはどうなるのかなあ。続…
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