7.高階玄順の煩悶
高階玄順は、一生のうちで、これほど胃の痛い一月を過ごしたことはない。
跡取り息子の婚礼の朝。屋敷は前日までに奉公人が隅から隅まで大掃除し、庭も掃き清められている。
晩秋の朝空は抜けるように青く澄み渡り、『晴れの日』と呼ぶに申し分ない日和だった。
だがそんな天気とは裏腹に、玄順の心持ちは重く曇ったままだった。
思えば、ケチのつき始めはあの日であったのだ、と、苦々しく思い出す。祝言について話し合うべく、花嫁の父で懇意の薬種問屋、平松屋与兵衛と席を設けた日のことである。
屋敷に駆け込んできたのは、泥に汚れていてもそれとわかるくらい美しい若い女だった。あろうことか、息子の子を宿しているという。息子はと見ればこれが間違いないらしく、整いかけた縁組を破談にしても、その娘を妻にしたいなどと、血迷ったことを言い出した。
息子が、玄順の言いつけに背くなど、これが初めてのことである。
それも、長年の友人の娘を玄順が是非にと願って整えた縁組に、完全に泥を塗って、父と、先方の父娘にとんだ恥をかかせた。このうえない裏切りと感じられた。
だが息子は、玄順にも、与兵衛にも、己の非を認め頭を下げながら、決してその主張を取り下げようとはしない。
曰く、平松屋のお宇乃を嫁に貰うことはできない、身ごもっている七重を嫁にしたい、との一点張りである。
平松屋は平松屋で、どこまで気のいい人間なんだか、と玄順は口をへの字にして考えた。最初に怒り始めるべき立場であるはずの与兵衛が、心配だからと七重を連れ帰ってしまったのだ。それで余計に話がややこしくなった。
息子の不始末は、切って捨てるか、それもやり過ぎだと思うなら勘当するべきか、と何度も玄順は逡巡した。だが、平松屋は七重を預かったまま、何事もなかったかのように、お宇乃との縁談の話を先に進めてくる。
玄順がここで清順を切り捨てるか勘当するか、ということになれば、一騒動だ。当然、それはなぜか、ということが世間の噂になる。それが、嫁入り前のお宇乃の評判をいかに傷つけることか。
あの日、暗に平松屋にそう釘を刺された格好の玄順としては、他にどうしてよいのかわからず、全てをなかったことにして、元通りに縁組を進めるほかなかったのだ。
だが、与兵衛の子煩悩は、玄順とてよく知るところである。目に入れても痛くないほどかわいがってきた一人娘の新夫が、祝言の前から他所に女を作っているというのは面白い話ではないだろう。
正直、玄順が与兵衛の立場だったら、はらわたが煮えくり返ると思う。いくら、妾の一人や二人、珍しい話ではないと言ったって、物事には順序というものがあり、平松屋にだって体面というものがあり、お宇乃にだって娘心というものがあるのだ。
玄順にはもちろん、「娘心」なるものは理解できない。できないが、そこには傷つけてはならぬ何かがある、ということはわかる。
なのに、平松屋ときたら、せいぜいその場で清順に一言ちくりと言ったくらいで、それからは恨みごとの一つも言わない。
玄順にとっては、それが恐ろしくて仕方ないのだった。
静かで穏やかな人間こそ、恐ろしいのである。与兵衛のように温厚でつねに周囲を立てるような人間は、たいていの仕打ちには穏やかに笑って何でもないように耐える。だが、ある日、一線を超えた瞬間に、ぎゅっと締め付けていた桶のタガがはずれたように、怒りがどっとあふれ出すことがあるのだ。そうなったときには、もう、世の理も損得勘定も、何も届かなくなってしまう。そんな人間を、医を生計としてきた玄順は時折目にしてきた。
びくびくしている玄順を尻目に、平松屋は淡々と結納も済ませ、着々と支度は整って、いよいよ輿入れ、祝言の日となったのだった。
これ以上どうすることもできず、玄順はこの日のためにあつらえた紋付の裃を身に着けた。血の気を失って、青ざめるのを通り越して紙のように白い顔色になっている息子にも、これ以上お宇乃に恥をかかせるような真似をするな、と念を押して着替えさせ、祝言の席に招いていた客を出迎えた。
無理を言って譲ってもらった高砂の松の盆栽も、先祖伝来の金屏風も、こんなに重い気持ちで見ることになるとは思わなかった。
三々九度の盃の支度と、祝言の席の膳の物は座敷にすっかり整っている。町方から武家への嫁入りということで、お宇乃を養女分にして身分の違いを正すことまで引き受けてくれた、媒酌人の家老・広野夫妻も、楽し気に談笑し、花嫁御寮を今か今かと待ちわびていた。
広野夫妻も、他の少人数の客も、先日の騒動のことは何も知らないようだった。高階家もそうだが、平松屋の奉公人もみな、口が堅いのだ。
(平松屋が我ら親子に何か意趣返しをするとすれば、この祝言の席であろうよ)
まるでまな板の上に乗せられた鯉のような気分で、玄順は、平松屋が娘をのせた駕籠を屋敷につけるのを玄関先で出迎えた。
綿帽子を深く被った、打ちかけ姿の花嫁は大層美しい身のこなしで駕籠から降りた。
つつましやかに顔を伏せたその表情は、白い絹の被り物にさえぎられて、ちらりとうかがうことすらできなかった。
お宇乃は、いったいどんな心持ちでこの日を迎えたのか。
背後で、清順が身じろぎするのが感じられた。
「花嫁御寮を連れてまかりこしました」
与兵衛は深々と頭を下げる。
「座敷へ。支度は全て整っておる」
喉に貼りつきそうな声を必死に押し出して、玄順は与兵衛親子をいざなった。
「祝言のお膳に、平松屋からもぜひ、皆様に御賞味いただきたいものがございまして、持って参ったのですよ」
重箱らしい風呂敷包みを両手に下げた手代の耕太郎が、与兵衛の後ろで目礼した。
玄順がうなずいてやると、さっと腰をかがめて一礼してから、勝手口の方へ向かう。
「お願いしたき儀がございます」
「何だ」
「三々九度の前に、少しだけ、娘を嫁に出す父親に、皆様にご挨拶を申し上げるお時間をいただけませんか。この晴れの日にお礼を申し上げたい気持ちもございますし、子煩悩はなかなか手放せぬもの、娘のことを、今後とも、皆様によくよくお頼み申し上げたいのです」
与兵衛の穏やかだが、底に決心を秘めた目つきに、玄順はついに、来るべきものが来たことを悟った。
このいつも笑顔を絶やさぬ友人が、いったい何をするつもりなのかはわからなかった。だが、それをここで止めるのは、医家とはいえ士分の家を守ってきた玄順の意地に反する。
「もちろん。祝いの席は無礼講だ。まして、与兵衛どのは花嫁のお父御」
「かたじけのうございます」
深々と頭を下げた与兵衛の表情もまた、玄順から伺うことはできなかった。