6.無理でも筋があるなら
ことは急ぎの問題である。耕太郎は主である与兵衛に乞うて、金に糸目をつけず、できるだけ早い飛脚を仕立てた。長崎に文を送り、信頼のできる友人に七重の身元検めを依頼したのだ。その返事が届いたのが、予定されていた結納の前夜であった。
「耕太郎。いかがしたもんだろうね。結納まで済ませてしまっては、いよいよ、お宇乃の縁談が進んでしまう」
夕食後、人払いをしてもらったお店の座敷で、与兵衛は憔悴しきった顔で訴えてきた。
「そのことでございますが。旦那様から見て、七重さんをどう思われますか」
耕太郎の問いかけに、与兵衛は腕を組んだ。
「しっかりした娘さんだよ。少し動けるようになったら、もう、女中頭のおいねに仕事がないかと聞いてきたんだそうだ。奉公人の内では、おいねにだけは七重さんの事情を伝えてあったからね、とんでもない、って一度は断ったそうだ。だが、表から見えるところの仕事でなければ外聞を気にする必要もないでしょうと言って、厠の掃除を買って出たというんだ」
「厠掃除を?」
「ああ。……おいねは、お宇乃が産婆に取り上げられるときも立ち会って、まだ首もすわらない時分からずっと面倒を見てくれてきたからね、まあ半分育ての親みたいなもんだろう。だから、ちょっと思うところもあったらしくてね」
忠義ものの女中の目には、七重はお宇乃の許婚を寝盗った女と映った。順序は逆なのだが、おいねにしてみれば、そんなのは知ったことか、という気分だっただろう。
与兵衛が決めたことなので従うしかないとはいえ、預かって世話をするのが少々腹に据えかねていたらしい。
「それじゃあ、一つ、やってみてもらえますか、と任せてしまったというんだ。そしたら、長崎の料理茶屋仕込みの掃除がまた完璧だったらしくてね」
先ほどまでの困り顔が緩んで、与兵衛は少し笑った。
「手抜きひとつせず、見えないところまでぴかぴかに磨き上げて、びしっと整えたところにおいねを呼びに来て、このお店の使い勝手と違うところがあれば直したいから教えてくれ、と頭を下げたってさ。それで、おいねばあさんもすっかり、いちころでね」
「はあ、おいねさんまで」
「毎日やるって言うから、こんな立ったりしゃがんだり、重たいものを持ったりする仕事、お腹の大きい方にさせられますかって言ってさ。七重さんは、厠掃除をよくするとよい赤子が生まれると聞くから、是非にと言ったようだけど。そこはまあ、何かあったらそれこそ、後生が悪いってんで、もう少し身体に優しい、書き物や繕い物、薬包紙に薬を包む仕事なんかを頼むことにしたんだそうだよ」
耕太郎もうなずいた。
「手前も、番頭さんが、帳面の清書をやってもらったとお店で言っているのを聞きました。細かなところまで気を配って、数字の間違いにも一つ気づいてもらって助かったとか。遠目に拝見しましたが、見事な手蹟でしたね」
「うん。近頃、ちょっと慢心して手習いを怠けがちだったお宇乃が、目の色を変えて練習しはじめてね。いい影響だよ。七重さんは、薬包紙の畳み方一つとってもすごく丁寧だし、かといって遅くもない。受け答えもはきはきしてて、気持ちがいい。本当にさ、こんなことでもなきゃ、うちからどこか、いいご縁を探してやれたらよかったんだけどね」
与兵衛はため息をついた。
「長崎の友人にも確かめてもらいました。すべて、お宇乃さんの聞き書き通りだったそうです。こちらに来ている女子の人相も伝えましたが、料理茶屋のお内儀さんが覚えている通りの人だったそうですよ。七重さんの言っていることが掛け値なしの真実なのでありましょう」
「だとするとね、どうも本当に、気の毒だねえ。清順様だって、顔を見るなりはっきり、関わりのある女子だと言っただろう。あたしは最初っから、間違いのない人だと思ってたよ。まったく、夫婦の契りもないうちから、辛抱がないことをするから、こういうことになるんだ。本当にあのお坊ちゃんも堪え性のない」
他に耳がないと安心して、与兵衛はぼやいた。
耕太郎にはいささか艶っぽすぎて居心地の悪い話題である。慌てて、話を別の方面に向けた。
「高階様のお宅の方はどうしていらっしゃるんで?」
「結納は親だけでやるだろう。だから形だけでも、打ち合わせをしに行ったんだけどね。もう、高階様のところもお通夜みたいにどよーんとしててさ。どうしていいかわかんないみたいだった。お手打ちは行き過ぎにしても勘当だなんだと言いたいところだろうけど、外聞もあるし、あちらもお子は清順様一人だ。高階様だって鬼じゃない、息子には情もあるからねえ。色々もやもや、うちには悪いと思ってくれてるようだけど、このまま、お宇乃が嫌がらなければ、縁組を進めるしかない、と思っているらしかった」
「清順様はどうなんです」
「うん、反省はしてるみたい。玄順様には、お宇乃とではなく、七重さんと添いたいと頑として言い張っているようだけどね。ただ、玄順様があの頑なな調子だろう。藩のお勤めの方は長旅の疲れで病を得たということにして休んで、ご自身から部屋に引きこもって謹慎中らしい。神妙に写経をしているみたいだよ」
「写経ですか」
あっけに取られた耕太郎に、違う違う、と与兵衛は顔の前で手を振ってみせた。
「本物の経典じゃないさ。長崎で、色々、役に立つ蘭方や漢方の医書を手に入れたそうでね。こういういい本を、藩内のより多くの医家が読むことで、藩全体の技術が向上するってんで、寝る間も惜しんでひたすら書き写して、何冊も写本を作ろうとしてるんだって。ちらっとあちらの奉公人のじいさんにも聞いたんだけど、鬼気迫るご様子らしいよ」
なるほど、とうなずいた耕太郎の前で、与兵衛は遠い目になった。
「清順様もね、どうにもお優しくてお父上の言う通りで、あれで大丈夫かなって時々思うところもあったんだよね。でも、今度のことでは決して、お父上の言いなりにうなずいたりはしていないみたいだ。写本なんて、言ったら悪いけど、ちょっと不器用で遠回りな気もするんだけど、本気でお父上のお心を変えようとはしてるみたいなんだよねえ。あれから直接お会いすることはできてないけど、どこかで少し変わられたのかなとは思うんだ」
耕太郎は目を閉じた。あの日、父親のことなどまったく意に介さず、まっしぐらに玄関に走っていった友人の背。あの瞬間から、多分、彼の中でも何かが少しずつ変わっているのだ。
「でしたら、旦那様。この難局を、どうにか諸方良しで切り抜ける策を、一つ思いついたように存じます」
「何だい。お前さん、七重さんを連れて帰ってきたときから何かありそうだったじゃないか。もったいぶってないで、早く言っておしまいよ」
急かされて、耕太郎は視線を畳に落とした。ここからは賭けである。関わる人間――主に、耕太郎と与兵衛が、ゆるぎなく信じて進まねば、あっという間に奈落の底に落ちてしまうような細い道筋。
「いえ、やはり無理筋ではあるのです。手前は、無理を通すにはどうにも若輩者ですし、力不足です。旦那様が表に立っていただいて、うまく訴えかけてご納得いただかなくてはなりません。ご家老様、玄順様、藩や世間の皆様にどう受け入れていただくか、ここからが正念場でございますが」
「無理でも筋があるってんなら、あたしだって、商いでこの世を渡ってきた身だよ。どうにか通して見せようじゃないか。このままじゃ、七重さんもお宇乃も不憫すぎる。さあ、言ってごらん」
先ほどまでのしおれようとは見違えたように、与兵衛はしゃんと背筋を伸ばして座り直し、目の前の畳を軽く叩いて耕太郎を促した。
耕太郎は腹をくくって顔を上げ、低い声で話し出した。
「手前が考えましたのは、こういうことでございます――」