4.腹が減っては
「お宇乃さん。どうでも、今日はお召し上がりいただきませんと」
寝間のふすまの向こうに引きこもったままの娘は、耕太郎の呼びかけにも、うんともすんとも、返事をしなかった。
「女中が困っておりますゆえ、手前が参ったのですよ。帰藩のご挨拶もさせていただいておりませんでしたし」
「なんで、耕兄様がそんなことするのよ。お父っつぁんの養子になるのでしょ。女中のお手伝いなんかしてないで、もっと偉そうにしてなくちゃ」
ようやく、とげとげしい声が返ってくる。とげがあろうと、これだけはっきりものを言える元気があるというのは吉報だ。
「いいえ、手前はただの手代です。何でもお手伝いすることが仕事でございます」
「真面目なんだから。って、ああ! しゃべっちゃったじゃない。もう! 兄様のばか。あっち行ってよ! もうしゃべらない!」
かんしゃくを起こしたような半べその声に、耕太郎の肩の力が緩んだ。多分これは、予想通りだ。
「お宇乃さん。お仏壇に願掛けをなすったでしょう。当てて御覧に入れましょうか」
ふんっと鼻息が聞こえたが、応えはなかった。
構わず、耕太郎は続けた。
「最初に、しゃべらずの誓いを立てましたね。一切お話しにならない代わりに、お願いを叶えてください、と、仏様にお願いしたのでございましょう? 気分が悪いと言って引きこもれば、なんとかやり遂げられますからね」
「……」
「それでも、願いが叶わなかったのですか。それで、食べ物断ちをなさいませんでしたか」
「……」
「女中が、お宇乃さんは玄米のおかゆをすこししか召し上がらない、と気に病んでいましたよ。おかず断ちをしましたね?」
「……」
「それでも、叶わなかった? 最後に、本当にお好きなものまで諦めないと、ご利益がないと思いませんでしたか? それで、それだけはおかずに召し上がっていたお海苔も止めてしまいましたね?」
「兄様のばか。何でそんなに言い当てちゃうの。他の人に気付かれたら、ご利益がなくなっちゃうのに!」
わっと、ふすまの向こうで泣き伏す声がする。
「お宇乃さん、そんなに、ご縁談がお嫌でしたか」
静かに尋ねると、わんわんと泣く声が一層大きくなった。姿形は大きくなったかもしれないが、父親から目の中に入れても痛くないというほど溺愛されて、まだまだ幼いところのある娘である。さぞや不安だったのだろう。
「でも、嘘じゃないもん」
しゃくりあげながら、お宇乃は言った。
「ご利益、あったのよ。お父つぁんにも言ったけど、ここ何日か、夜になると目がほとんど見えないの。本当に本当よ。これではお武家の奥方になるのなんて、無理でしょ。清兄様だってちゃんと愛想をつかしてくれるでしょうし、それでは務まらん、と、玄順おじさまだってご納得くださるに違いないわ。耕兄様が邪魔しなければ」
どうやら、父娘で似たようなことを考えていたらしい。ちゃんと愛想をつかす、とは、また言い草である。耕太郎は、笑いそうになるのをこらえて、わざと厳しい声を作った。
「しますよ。お宇乃さんの目が見えなくなったら、大ごとです」
「願掛けを止めたら、戻るでしょ?」
「今ならね。お宇乃さんのそれは神仏のご加護でも何でもありません。色の濃い食べ物や滋養のある食べ物を召し上がらないことで罹る、目の病ですよ。手遅れになっていたら、いったいどうなさるおつもりだったのです」
その叱責に、お宇乃は、ほう、とため息をついた。それは、諦めの気配にも、安堵の気配にも感じられた。それからまた、手放しの大声でうわあんと泣き出した。
ひとしきり泣いて、泣き止んだところで、耕太郎はお宇乃の居間に膳を運んだ。
かゆの横に添えられた焼き魚は、まだほかほかと湯気をあげている。たれが焦げた甘く香ばしい香りに、身づくろいをして寝間から出てきたお宇乃がごくりとのどをならすのが聞こえた。
「耕兄様。これは?」
「うなぎでございます。江戸で大層流行っているとか。長崎帰りに通ったあちこちの宿場でも、江戸をまねて売っているのを見かけました。御城下にも一軒できたそうで、旦那様が、お宇乃さんのためにわざわざ今日買ってきて下すったんですよ」
「お父っつぁんが……」
「たいそう心配しておいでです。どうぞ、お身体を削るような願掛けはおやめください」
「でも、あたし、本当に――」
その先の一言を、声に出すことはできなかったらしい。お宇乃は唇を噛んでうつむいた。
「お宇乃さんのお気持ちにできるだけ沿うように、手前が相努めますゆえ。――高階家に行くのは、お嫌ですか?」
目に涙をいっぱいためて、お宇乃はうなずいた。
「承知しました。では、お宇乃さんにもお手伝いいただきたいことがたくさんあるのです。まずは、お食事を召し上がって、力をつけてください。長崎にいた時分、江戸から来た朋輩に聞いたのですが、うなぎは目病みにたいそう効き目があるらしいですよ」
促されて、お宇乃は猛然と膳に取り掛かった。
まだまだ十六、育ち盛りの身に、食断ちはさぞやこたえていたのだろう。着物越しにもわかるその薄い肩が不憫で、耕太郎はそっと目をそらした。