3.与兵衛のぼやき
「格好つけて、ああは言ったもののさ、どうしたもんだろうねえ」
駕籠を呼んで七重を乗せ、自分は歩いて店へ戻る道すがらのことである。駕籠の中には聞こえぬよう、低い声で与兵衛は耕太郎にぼやいた。
「まさか、ここで清順様の隠し子が出てくるなんてさ。お前さんも、長崎で清順様と一緒にいたんだろう。何にも気づかなかったのかい」
八つ当たり気味の問いに、耕太郎は眉をくもらせた。
彼と清順は、つい先頃まで共に長崎遊学をしていた間柄である。藩医の跡取りである清順と、同じく士分の医家に生まれながら幼くして親を亡くし、養子同然に引き取られた薬種問屋で奉公を始めた耕太郎は、今となっては身分の違いこそあれ、幼なじみで気も合った。平松屋と懇意にしていた高階家より、息子一人で長崎にやるのはいささか心もとないからとの頼みもあって、共に遊学に向かったのである。
昼前には同じ蘭学塾で机を並べて学問を修め、午後は、清順は高階家の伝手をたどって見つけた蘭法医で、耕太郎は平松屋と取引のあった薬種問屋で、それぞれ修業を積んできた。
「申し訳ございません。どこぞに懇意の女子がいるらしいというのは気づいておりましたが、何分、お宇乃さんとの縁談が持ち上がっていたという方を存じませんでしたし、お相手の女子に赤子が出来ていたというのまでは」
「まあ、お子の方はねえ、清順様もご存じなかったようだし。こっちにしてみりゃこの縁談だって青天の霹靂だったしね。あーあ、お宇乃に何と言ったもんやら」
「そのまま仰るしかないのではありませんか」
耕太郎は肩をすくめた。下手に隠し立てをする方が、傷が深くなるということもあるだろう、と思ったのだ。
「お宇乃さんはそもそも、ご縁組に乗り気だったのですか?」
耕太郎から見て、清順は気のいい人間ではあるが、いささか流されやすい優しげな性格で、お宇乃とは少し歳も離れている。
真面目ではあるが商家育ちの気丈さを持ち、口も達者なお宇乃を、妹か従妹のように面白がりこそすれ、夫婦になりたいとか、そういう相手とは見ていなかったように思われた。
お宇乃にしたって、いくら幼くとも女子である。清順のそんな雰囲気は察していたのではないか。
それに、もともとのお宇乃は、元気いっぱいで少しおてんばな娘だ。幼い頃から見てきた耕太郎には、いくら年頃になって少しおしとやかになったかもしれないとはいえ、武張った家に嫁いでしゃんとかしこまっているお宇乃を想像することができなかった。
「いや、だって断れないじゃない。御家老様の口利きだよ。何かあったら一族郎党、首が飛ぶよね。乗り気もへったくれもないよ。そんなこと聞いても意味ないからさ、……聞くだけ気の毒で、聞かなかった」
「ええ」
一理ある。
口の中に苦いものを感じつつ、耕太郎はうなずいた。一瞬沸いた怒りは、行き場を失って心の臓の奥をちくちくと苛む。
与兵衛にだって、できることは限られていたのだ。
木綿の着物の合わせにいつも入れている懐紙入れの上からこぶしで胸元をぎゅっと押さえ、耕太郎は痛みをやりすごした。
「とはいえ、あの子も何も言わないから。清順様には子どもの時分によく遊んでいただいて、知らない相手でもないしさ、玉の輿もそんなに悪くないって割り切ってくれてるのかなって、あたしに都合よく受け取ってしまっていたんだがね。でも、先だって、目がおかしいって言いだしただろう。あたし、あれは気の病じゃないかと思ってるんだよね」
与兵衛はため息をついた。
元来、商人気質で、気苦労の多い性質である。
「気の病でございますか」
「そう。祝言が嫌で嫌でしょうがなくって、でもそう言えないんじゃないかってさ。お宇乃は、かみさんが儚くなってから、何一つわがままを言わなくなっちまった。近頃は気分が悪いと言って部屋からも出てこないし、食べ物もあまりのどを通らないみたいだし。大好きだった海苔をお膳に乗せてやっても、全然食べなくなっちまったんだ。その上、ここにきて目の患いだ」
道端の板塀の上でちいちいと鳴く雀を見やりながら、与兵衛は言った。
「ことがこうなったからってさ、お宇乃の縁談を断れる訳じゃない。苗字帯刀を賜るお話は高階様のご推挙なんだよ。全て引っくるめて、御家老様の関わりになっちゃってるわけだから。苗字帯刀なんてあたしはいらないけどね、そうも言えないだろう。それこそ、お手打ちもんさ。ご家老様のお顔に泥を塗ったと言われりゃ、お店は取り潰し、奉公人もみんな路頭に迷っちまう。そうならないよう、全てを水に流して、縁組を進めるしかない」
「……」
「少なくとも、高階様にめったなことをさせちゃいけないからね。こちらがごねれば、あの四角四面な高階様のことだ。面目が立たない、責任を全て取るとか言って、清順様を手打ちにしかねない」
「それはいささか、気短にございますね」
「ほんとにさ。それさえなきゃ、いい人なんだけどねえ」
与兵衛の足取りは重かった。長崎での長逗留から帰ってまだ日は浅いが、耕太郎には、父がわりの主が、めっきり歳をとったように感じられてならなかった。栄誉栄達に興味がなく、昔ながらの商売をしていれば満足の与兵衛にとって、これまでの縁談はさぞや気を張ったのだろう。そこにもってきて、隠し子騒動である。
「でも、あの子が、新婚の旦那にもう他に子どもがいるのを承知で、涙を呑んでお嫁にいくしかないと思うと不憫でさ。いっそ、目病みを苦にして高階様の方からお断りいただけないかとまでちらりと思ったんだけど、でも、こちらからそうも言い出せないよねえ」
与兵衛は子どものように口を尖らせた。
「あーあ。御家老様に、先方からたってにと望まれてお武家の奥方になれるというのは女の誉れ、何よりの親孝行だと言われちゃ、いくら他の腹積もりがあったとしたって、しがない薬種屋の身で出来ることなんかないよ」
「そういうお話だったのでございますね」
色々、不思議だったところに得心がいって、耕太郎はうなずいた。与兵衛の足取りがうつったように、耕太郎のわらじもずんと重たく感じられた。
「うん。どうも、高階様もせっかちでいけないよね。うちにもいきなりだったし、あの様子じゃ若先生ご本人にも話を通してない。いきなり御家老様に話を持っていっちゃって、苗字帯刀だ、縁組だと、寝耳に水だよねえ。いい人だけど、そういう、ちょっと思い込んだらすぐ何かやっちゃうとこ、あるからさ。あの娘さんも高階様のお宅に置いていって、もし何かあったらと思うと後生が悪い。で、連れてきちゃったんだけど」
どうしたもんか、困ったなあ、と、もう何度目かわからないため息をつく与兵衛に、腕を組んだ耕太郎は考えて言った。
「旦那様、だとすると、これは千載一遇の好機かもしれませんよ。七重さんをお預かりしたのは、天の配剤だったのかもしれません」
「なんだい、耕太郎。何か妙案でもあるのかい。お宇乃が患いついてしまってる今となっちゃ、あたしにとって本当に頼れるのは耕太郎、息子も同然に育ててきたお前さんだけだよ。お前さんが頼みになると思ったからこそ、長崎くんだりまで勉強にやったんじゃないか。どうかこのじじいを見捨てないでやっておくれ」
気弱な主の言葉に、耕太郎の喉の奥はひりひりと痛んだ。与兵衛がこれでは、お宇乃も気をもんだだろう。
長崎などに行くのではなかった。身近で与兵衛を支えているほうが、お店の役にも、与兵衛父娘の役にも立ったのではないか。
「まず、お宇乃さんの気持ちを聞きとうございます。旦那様の仰るとおり、普通に見れば、町娘がお武家の奥方にというのは誉れでございましょう。お宇乃さんがそれを楽しみにしていらしたのか、苦にしていらしたのか。旦那様とて一度、本当のところを聞いてみたいのではございませんか」
懐紙入れを合わせの上からぎゅっと押さえて気持ちを切り替えると、耕太郎は敢えて笑った。
「腹が減っては戦ができぬ、と申します。この先のうなぎ屋が、江戸仕込みの仕立てで近頃評判だとか。お宇乃さんも、旦那様も、七重さんも」
耕太郎はちらりと駕籠の方を見やった。
「今こそ、精のつくものを召し上がって、気力を養って頂かないといけません。お土産にお求めになるのはいかがですか」
本日より、企画最終日の10月26日まで、一日一話更新とさせていただきます。
ごゆるりとお付き合いいただければうれしいです!