2.祝言の行く末
一刻ほど後のことである。
上を下への大騒動を経て、ようやく元の座敷に戻った四人の中で、真っ先に口を開いたのは清順だった。
苦虫を噛み潰したような顔の父親に向かって、跡取り息子は畳に頭を擦り付けるようにして言った。
「あれなる女は七重と申します。今しがたの身なりは大層やつれ、汚れておりましたが、確かに、拙者の存知よりの者。もとは身ぎれいな女子にございます。女の一人旅ゆえ、無法者に狙われぬよう身をやつして参ったのでございましょう」
清順の父、玄順はむすっと押し黙ったままだった。父の言葉を待つように、一呼吸置いていた清順ではあったが、沈黙に押されるように言葉を繋いだ。
「父上にはいかに許しを乞うべきか、恥ずかしさに、申し上げる言葉もござらぬ。だが、かくなる上は、来月の祝言をおめおめと挙げるわけには参りません。確かに七重とは長崎で縁がございました。子をなしているとは知らず、遊学の年季が明けたゆえ、帰藩いたしましたが、まずは拙者一人で帰藩し、父上に許しを得しだい、すぐに呼び寄せるつもりでおったのです」
玄関口に現れた女は、騒動の最中に失神してしまった。とにもかくにも放り出すわけには行かぬと、玄順の指図でいったん裏口から邸内に女を運び込んだ。離れに床をのべて玄順が脈をとり、命に別状がないことを確認してから、唯一の女手である飯炊きの老婆を見守りに着けて休ませた。
そののち、高階父子と平松屋与兵衛、供の耕太郎が座敷に戻ったのである。
「そのおつもりで帰藩なすったら、うちの娘、宇乃との縁組みがもう持ち上がっていたというわけでございますね」
取りなすように、平松屋与兵衛が口を挟んだ。
「与兵衛どの、お宇乃どのには誠に面目なく、お詫びする言葉もござりませぬ」
清順の平伏はさらに深くなった。
「出会ったときは後ろ楯もなく、料理茶屋で女中奉公をしておった身でしたが、七重も、そのもとはさる藩の藩士の娘です。内儀に、と思うておりました。ですが、戻ってみれば拙者のあずかり知らぬうちに、お宇乃どのとの縁談が生じておりました。しかも驚くほど話が進んでおる。さりとて七重も士分の娘、妾では、亡くなったあれの二親に申し訳が立たぬ。これはいつ言い出したものやらと言葉を探しあぐねておるうちに」
絶句した清順に、与兵衛はうなずいた。
「それはそうでしょうなあ。手前どもは商家です。お武家のご息女が妾、商家の娘が正妻というわけにはまいりますまい」
「お宇乃どのも、拙者にとっては妹のように思うておった、大切な幼なじみです。幸せになってほしいと願っておりました。かようなことになるとは、思いもせず」
「たわけたことを抜かすでない!」
一喝したのは玄順だった。
「お宇乃どのは心ばえにも優れ、読み書きも堪能な、立派な娘御。平松屋与兵衛どのは、長年の二心ない商いが大殿様のお心にかない、このたび、苗字帯刀を許される運びになったお家柄ぞ。父がお前のため、是非にと与兵衛どのに頭を下げて一人娘のお宇乃どのを嫁に乞うたのだ。ご家老様に仲人までお願いして調えた縁談に、お前が泥を塗る気か! 祝言まで、もう日がないのだぞ!」
「それでございますがね」
与兵衛は、穏やかに微笑んだ。
「高階様には大変申し訳のうございますが、この与兵衛、ほんの少し、娘の祝言を日延べしていただけないかと、お願い致そうとしておったのですよ。娘はその、今、少々目を患っておりましてな。薬種問屋の娘がお恥ずかしいことでございますが。晴れの日は憂いなく迎えさせてやりたいと存じまして」
「何、目を。それはいかん」
突然の申し出に、玄順は当惑したように瞬いたが、がくりと肩を落とした。
「かくなる上は、それもまた巡り合わせかもしれぬ。与兵衛どのには面目ないが、ことを内済におさめようには、お宇乃どのの病を理由に、ご家老様に一月ほどの日延べを願い出ねばなるまいよ。その間にあれなる者の身の振りようを考えねばならぬが」
玄順は苦々しげに吐き捨てた。
まあまあ、と与兵衛は玄順を取りなした。穏やかな声で続ける。
「とはいえ、この事が外聞に漏れれば、娘も心を痛めましょう。許嫁のお宅にお腹の大きい娘御が駆け込んだというのは、いささか、体裁が悪うございますゆえ。嫁入り前の娘にその仕打ちは、いかにも不憫でございます」
言葉尻に、ぎろりといつになく鋭い眼光を与兵衛に飛ばされ、清順は竦み上がった。与兵衛はしかし、次の瞬間、その眼光をすぐに目じりの笑みジワにたくし込んで、畳にそっと手をついた。
「いかがでございましょう。七重どのをこちらのお宅に置くのはよしない噂の的にもなりかねませぬ。こちらでは女手にも不足しておりましょうから、養生させるにしても何かとお困りになりましょう。どうぞ、手前どもでお預かりするわけには参りませんか」
「誠に、お宇乃どのには申し訳ないことだ。家長の許しない密通は、手打ちでも文句は言えぬところ。お宇乃どのにしてみれば、許嫁の間女など、同じ家におるのは気障りではござらぬか。拙者としては、この腐った性根の息子共々、あの浮かれ女も重ねて、斬って成敗するのが本来の筋合いと存じておる。ご迷惑をかけるなど心苦しい」
苦悩の表情で、高階は、同年輩の商人に深々と頭を下げた。武家の格式を重んじる高階にしてみれば、いくら年来の友人である与兵衛相手と言えど、これ以上の屈辱はないだろう。
「ああ、いけませんよ高階様。お手をお上げなすって。医家も薬種の商いも、同じく、人様のお命を救うが使命。そこに、よいも悪いもございません。あたら、若い命をもったいのうございます。お腹の赤子も加えて三人のお命となれば、なおのこと」
あわてて与兵衛は手を顔の前で振った。
「娘へのお心遣いは誠にかたじけのうございます。しかれど、祝言前に病みついておるなど、面目ないのは手前どもも同様でございますゆえ。どうぞ、清順様のこと、早まったご決断をなさいませんよう」