12.長崎土産(後)
袋の中身は金子だ。それも、祝いにはおよそ似つかわしくない、古びて出所の探りにくい二朱銀やら、旅の道中でも両替のしやすい小粒の金やらがずっしりと入っているのを、耕太郎は既に知っていた。
同じものを、耕太郎自身が与兵衛から託されていたのだ。
たくらみにしくじって家老の広野や高階玄順の不興を買い、最悪、与兵衛が死罪ということになったとしても、お店のことは当面はどうにかなる。平松屋ほどの大店ともなれば、混乱を避けるため、商いをそっくりそのまま同業の他家が引き継ぐことになるだろう。勝手がわかっている平松屋の奉公人がいないとお店が回らない場面も多いはずだ。そうしているうちに、奉公先を変えたいものがあれば、口を利いてくれる周囲もあるだろう。
だが、血縁のお宇乃と、外からももうほとんど養子とみなされている耕太郎は、連座させられるかもしれない。そうなる前に、いざというときにはお宇乃を連れて逃げてくれ、というのが与兵衛の耕太郎への頼みだった。
そもそも、このはかりごとを持ち出したのは耕太郎である。与兵衛にだけ咎を押し付けておめおめと逃げられるものか、どこまででも、あの世まででも供をするつもりで言ったのだ、と反論したが、与兵衛は頑として頷かなかった。
――だって、そうしたら誰がお宇乃の面倒を見るんだい。あの子を道連れなんぞにしたら、あの世の入り口のとこで、先に亡くなったうちのかみさんに蹴り飛ばされて、入れてもらえないよ。よしんば入れてもらえたって、お前さんの親に合わせる顔がない。
そう言われてしまえば、耕太郎に返す言葉はなかった。
――まあ、そんなことになっちまったらお宇乃もね、結局、選べなくてかわいそうだけど。でもこれは父親の勘だけど、あんなに嫌がっていたお武家への嫁入りよりよっぽど、あの子は、幼なじみの手代と手に手を取って駆け落ちするっていう、お芝居の筋書きみたいなののほうを面白がると思うんだよねえ。
絶句する耕太郎に、そう言って、与兵衛は笑ったのだ。
『旦那様とて、何がどうなるやら、確としたことは言えぬ。だが、もしもどうしようもなくなったら、即座に七重さんの手を取って逃げろ。七重さんの長崎の借金は、旦那様がもうきれいに返してくだすった。後のことは案ずるな。だから、その旅支度はいつでも手に取れるようにしておけ』
『……かたじけない。本当に、すまない。耕太郎』
畳に手をつく清順を、耕太郎は止めた。
『礼も謝罪も、まだ取っておくことだ。こちらだって諦めるつもりはない。こう言っちゃなんだが、うちの旦那様が本気で腹をくくったときの口上ときたら、かなりのもんだよ。お武家が剣術で身を立てるように、うちの旦那様は商人として、実のある言葉と品物で先様の心を動かす、いわば交渉術で身を立ててきた。今度のことも、きちっと仕込みもしている。分の悪い賭けなんぞするもんか』
そのことは、男たちだけの秘密だ。
一件がうまく収まった今になってさえ、知ればきっと、お宇乃も七重も、泣いて怒るだろう、と思ったのだ。
だが考えてみれば、お宇乃はお宇乃で、七重は七重で、それぞれが命がけで、事態を変えようとしていた。
与兵衛の、己をすべて賭けた説得で、広野と玄順を味方につけることができ、どうにか丸く収まったのは、まさに神佑天助であったとしか言いようがない。本当にありがたかった、と、耕太郎は改めて神仏に感謝を捧げた。
「どうしたの、耕兄様。黙っちゃって」
「考えておったのです。……こうなっては、手前も、お宇乃さんを諦めるのは嫌です。お内儀さんになってもらうのはお宇乃さん以外に考えられません」
お宇乃の頬に、ぱっと朱が差した。
「ですがやはり、旦那様が一世一代の大博打で守った平松屋ののれんに傷をつけるのは、手前が己を許せません。ですから」
耕太郎は、手にしていた手ぬぐいをぎゅっと握りしめた。
「手前に、二年くださいませんか。二年のうちには、清順様と七重様も、誰もが認める似合いの夫婦となっておりましょう。そんなころになってわざわざ、古い話を蒸し返してケチをつける野暮天はおりますまい。その時までに、手前は、旦那様が養子に選んだのはさすがの目の付け所だった、お宇乃さんにふさわしい婿だ、と誰からも言ってもらえるだけの者になります。お店の乗っ取りだと後ろ指を指す輩のほうが笑われるくらいの、平松屋の跡取りにふさわしい一人前の商人になってみせます。ですからその時に、まだお宇乃さんの気持ちが手前にあれば、一緒になってください」
二年たてば、お宇乃は十八だ。娘盛りで、今よりもっともっと美しくなるだろう。
気を引き締めつつ、耕太郎はじっと、お宇乃の目を見つめた。
「お宇乃さんが手前に愛想をつかさなければ、ですが」
お宇乃は一瞬涙ぐんで、それから深くうなずいた。涙のにじんだ目じりを小指で軽くぬぐって、ふふっと笑う。
「もう、十にならない頃から、ずっと耕兄様が一番なのよ。今さら変わるわけないじゃない」
恐ろしいことをさらっと言って、お宇乃はかんざしを髪に挿した。
十にならない頃から、女子は女子、ということか。二十二の自分が、友人の付き添いで入った飾り屋で何の気なしに買ってしまったかんざしを夜ごとに眺めては煩悶していたというのに、十六のお宇乃はもっと幼い時分から、一足飛びに答えにたどり着いていたのだ。
「じゃあ、約束。このかんざしが証文ね。お父っつぁんには、他の縁談は全部断ってもらうわ。それでも、無体なことを言ってくる相手にはこう言ってやるの。あたしには、誰とは申せませんが、十八になったらと約束をかわした相手がおりますの。ごめんくださいませって」
「お宇乃さん、本の読み過ぎじゃないですか。いらぬ恨みは買わないでくださいよ」
渋い顔になった耕太郎に、お宇乃は笑った。
「大丈夫よ。耕兄様が心配するほど、世間様はあたしみたいな娘をいいとは思わないもの。気が強くって、わがままで、頑固ですからね。あたしには耕兄様とお父っつぁんがいるから、それで十分。良くできてるでしょ?」
それからお宇乃は少し首をひねった。
「違うか。玄順おじ様も、いいと思って下すっていたのね。お父っつぁんが、おじ様がご縁談を持ち掛けて下すったその瞬間に異を唱えられなかったのは、口ではどう言っていても、きっとその一瞬だけは迷ったからよ。玄順おじ様は、他のつまらない男の人達みたいに、あたしの見てくれや、平松屋の身代をいいと思ったわけじゃないわ。お気持ちの根っこのところでは、あたしの中身をいいと思ったから持ち掛けてくださった。お父っつぁんはそこのところがわかっていたから、むげに断れなかったんでしょう」
「でも、ご縁談は玄順様とではなく、清順様とのものでしたからね。玄順様のお気持ちだけでは、どうにもならなかった」
お宇乃は大きくうなずいた。
「清兄様もあたしも、そんな風には思えなかったもの。そこだけが、おじ様の読み違えね」
あーあ、と少々行儀悪く腕を伸ばして、お宇乃は口を軽くとがらせた。
「ねえ、今回の祝言騒動、本当に大変だったでしょう。お疲れ様会をやりたいわ。あたし、もう一度、うなぎが食べたいな」
「旦那様に伺ってみましょう。だめなら、手前がお宇乃さんの分くらい、こそっと求めてまいります」
「耕兄様がそんな悪そうなこと言うの初めて聞いた。お父っつあんの言う通りにしないときもあるのね」
お宇乃が笑うので、耕太郎はいささか憮然とした面持ちになった。
「そしたらね、この前みたいに、温めた卯ノ花で持ってくるんじゃなくて、上方風の仕方があるんですって。そのやり方で持ってこられないかしら。あちらの方をよく回る仲買さんに聞いたのよ」
「どういうやり方ですか?」
「卯ノ花じゃなくて、あつあつのご飯に詰めてくるの。まむしって、上方では言うらしいわ。それも、大っぴらにご飯の上にうなぎを乗せると、他所様に見られた時にやきもちを買うといけないから、ご飯の中に詰めてくるんですって。その方が冷めなくて味もいいって聞いたの」
「うなぎ屋に聞いてみますが、お店からご飯を詰めた重箱を持って行けば、まず断られることはございませんでしょう」
請け合った耕太郎に、お宇乃はいたずらっぽく目を瞬いた。
「あたしたちみたいじゃない? やきもちを焼かれないようにこっそり内にしまって、皆には内緒にしてた方が、あつあつで冷めないかも」
「お宇乃さん!」
お子様だから、思いきったことを言えるのか、それともわかって言っているのか。
思わず耳まで赤くなった耕太郎がおかしいと言って、お宇乃はまたひとしきり、華やかな笑い声をあげた。
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本作は、根岸鎮衛 著「耳嚢」巻之七「女の一心群を出し事」「了簡をもつて悪名を除き幸ひある事」を下敷きにしています。
参考文献
根岸鎮衛 「耳嚢」巻之七「うなぎは眼気の良薬たること」(うなぎは「魚へんに壇の右側」+魚の二文字で漢字表記されています) 岩波文庫 校注:長谷川強
三田村鳶魚 「天麩羅と鰻の話」 「娯楽の江戸 江戸の食生活」(鳶魚江戸文庫5 中公文庫)収録
三田村鳶魚 江戸生活事典 編:稲垣史生 青蛙房
時代考証関係については、素人趣味のため、間違いもあるかと思います。
お気づきの点などあれば、メッセージなどでご教示いただければ幸いです。














